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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年02月23日

さ迷える道陸神( 上並榎9)

2月5日の道祖神の謎(一)の続編です。

現在この道しるべ道祖神はD地点にあります。元区長さんの話によると、平成になってすぐに移動したとのことです。いまから20年前のことです。それ以前はC地点にありました。写真の地図も10歳の私の記憶もC地点です。姉と一所に写った写真があると思います。

いつからC地点にあったのでしょうか。85歳の地元の人の話では子供の頃はB地点にあったそうです。戦前までは少なくともB地点にあったとおもわれます。高崎の散歩道でも、もとは室田街道の道端にあったといわれている、とありました。 

確かにB地点は室田街道の道端です。道が交差する地点です。左へ道しるべどおりにいつても白岩、榛名方面にはいけます。 ただ上並榎城の二ノ丸と三の丸の間に入り、堀や土塁のため複雑な地形となり、室田街道に再び出るのも大変です。 

そこでA地点を、B地点以前の本来の地点と想定します。室田街道が左折して天龍護国寺の門前にでる角にあるのが、自然だとまた当然だとおもいます。多分そのT字路の少し削られた道の角に当初、道陸神は、あったとおもいます。 

1771年に造立された、この道しるべ道陸神は、239年の間どうさ迷い移動したのでしょうか、正確にはわかりません。  
たかが二百数十年で記録は消えてしまうものなのですか。  

Posted by 捨蚕at 16:22
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2010年02月22日

山名八幡物語( 六)あやしの堂は阿弥陀堂























左の写真は山の上の碑に行く途中にある来迎阿弥陀画像板碑です。山名八幡 から山名城にいく途中です。                 
後光が射す阿弥陀様が斜め下の一点を見つめています。年号は建治四年(1278)正月です。。
山名義範が社殿を造営したと云われる文治年間の約九十年後です。

なぜ阿弥陀如来か、とお思いでしょう。御一新後の神仏分離政策に洗脳された私達にはピンときませんが、本地垂迹により神は仏の化身だったのです。すなわち八幡宮とは、八幡大菩薩と阿弥陀如来を祀る場所でした。 菩薩と如来ですよ。  

さて蜷川家文書という書状があります。1320年から1532年までの約30通の書状が高崎市史にあります。それによると、
本貫地を離れた後も、山名氏は山名郷に代官を派遣し八幡宮の別当や供層を補任していました。
その中に、永和元年(1375年)四月十九日山名師義が山名八幡宮別当職と阿弥陀堂別当職の支配権を認める書状があります。阿弥陀堂の別当職には田二反と畠二反が付属していました。  
 
続いて右の写真です。鐘楼があります。2月13日のあやしの堂で、少し紹介した鐘楼です。右手からまわりこんだ道は、下ノ亭、鐘楼、高井家別邸、奥宮、中ノ亭、上ノ亭、そして阿弥陀画像板碑の前をすぎて山の上の碑、古墳、山名城へと続きます。

本社の後ろに鐘楼はあります。でもあやしの堂も阿弥陀堂も存在しません。
ただ、その昔にかなり立派な阿弥陀堂があつたのは確かでしょう。
あやしの堂は阿弥陀堂だとおもいます。
  

Posted by 捨蚕at 20:37
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2010年02月21日

近道です(小発見シリーズ22)


滝田ゆうの漫画に、あるような看板。
   この道通りぬけられます。

北高崎駅の南側でみつけました。
駅の北口が出来て価値は半減したかもしれませんが。
以前は高市女、その前は実践女学校、と書いてあったのですかね。 

子供の頃、近道を知っていることは、自慢できることでした。  
そして、それは少し危険で、怪しい道でした。    
ときには、どちらが近いかで喧嘩になることもありました。

路地歩きは楽しいです。時間がタイムスリップします。 
意外な発見があります。子供の頃より全てが小さくなっています。
実は自分が大きくなっているのですが。 
自分の記憶と現実が格闘します。 

ところで大正13年の地図に、大橋小路一号という名の路地をみつけました。
一貫堀と北駅の間を東に伸びて、電車道にぶつかっています。 
写真の近道と一部ダブっているようですが、よくはわかりません。
 
名前は大切です、雑草という名の草はないそうです。  
高崎にある全ての道と橋と堀に名前をください。






  

Posted by 捨蚕at 10:31
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2010年02月19日

気になるポイント(上並榎8)























気になる場所(ポイント)があります。1月15日の金田水車で紹介した場所です。右の写真がその時に載せられなかった馬頭観世音です。金田水車と読めましたでしょうか。
さて左の写真はそこから、南西を撮ったものです。上並榎城の土塁跡と紹介した場所です。
ここが高崎市史( 昭和44年版第一巻)に、古墳として紹介されていました。

昭和37年に芋穴を掘っていて石室を発見したそうです。水害のため形が古墳らしくなく登録もれとなっていたものとあります。確かに昭和十年の古墳総覧にはありません。載ったとすれば、六郷地区第24号稲荷塚、円墳、上並榎字南857と載ったことでしょう。

出土品として、直刀三振、刀鍔一個、曲玉六個、金環二個、矢尻五、石宝六、糸紡ぎ石、人骨、歯、管玉一個が出ました。
古墳の成立は、七世紀中頃のものと推定しています。

この場所のことを整理してみましょう。 御紹介したように、まず円形の古墳でした。そして戦国時代には並榎庄九郎なるものの、城の二の丸の東端の土塁となりました。その後農家の屋敷稲荷と竹薮となりました。

そして、目の前を、水車が回り、やがて汽車が走るようになりました。

祖父と散歩した五十年前には、古墳は未盗掘だったのです、そうですその時にはまだ石棺の中に人骨があった訳です。
もしかして、その死者のDNAを持つた二人を見守る古墳だつたのかも知れません。

それにしても、あの時祖父は何を言いかけたのだろうか、水車のあった、汽車の線路脇の、石棺に入ったままの死者の見下ろすこの谷のほとりに立って、何かを言おうとして口ごもった祖父。          

私にとって気になるこのポイントは謎めいたままの表情で、五十年いや、一千年前と同じままに、今私の前にあります。
否、私の中に流れるなにかが、長いあいだこの景色を見続けていたのかもしれません。  

Posted by 捨蚕at 23:48
Comments(4)上並榎シリーズ

2010年02月19日

女学校西通(踏切シリーズ2)












               










左の地図は、大正13年のものです。女学校西通の字が見えるでしょうか。長野堰が西から東に流れています。橋があります。薬師橋です。その脇にいまも長野堰堰改修碑が立っています。すぐ下流に柿の木薬師があります。
高崎中央銀座通りから成田町を通って図書館の西を北に向かう道です。実践女学校(のちの高市女)はまだありません。

明治三十二年に開校の末広町の群馬県立高等女学校の西ということです。 ハイカラさんが通るような名前のこの女学校西通も、
じつはまだ幅1.8mで一貫堀川には丸太橋がかけられてあるだけの耕作道でした。大八車や馬車は三国街道を迂回して飯塚方面へいったそうです。 

昭和4年に金井新道と呼ばれ道が、開通します。高崎市と飯塚村との合併条件の一つだったそうです。高崎市と飯塚村を結ぶ期待の新道です。信越線を渡ると大字金井、だから金井踏切となります。道は三国街道から長泉寺の前を通る道と交差する地点まで伸びます。さらに昭和6年9月には碓氷社の高崎工場が道沿いに進出しました。

昭和9年の10月には、宮本町にあった実践女学校の新校舎が落成します。この道を挟んで南北のずれはあっても、両側に女学校が出来たわけですね。まさに両手に女学校通りですね。もしかして両手に女学校通り踏切となったかも知れませんね。

昭和町の歩みという本を参考にさせていただきました。

最後に、地図の長野堰に沿っての道を、橋より左を請地小路一号、右を向請地小路一号と書かれていたのに気が付きました。  

Posted by 捨蚕at 04:13
Comments(1)踏切シリーズ

2010年02月17日

稲荷橋(小発見シリーズ20)

長野堰にかかる橋シリーズの続編です。並榎橋、行人橋、鳥羽端、金井橋、大橋橋、と続きまして稲荷橋です。プレートはありません。やむなく交差点のプレートです。稲荷橋と読めるでしょうか。
ここから数十米北東に稲荷山古墳が、かってありました。 
それは当地区最大の古墳でした。高さ約9米、長さ122米の前方後円墳でした。昭和37年には姿を完全に消してしまいました。ただ護国寺の境内に、明治25年の発掘の際の石棺の蓋が、100年以上の間、今現在もあります。
(たびたび登場したこの周辺ですが、繰り返しになったら御勘弁ください) 
橋のたもとに昭和9年の長野堰改修紀工碑があります。大きな碑で全貌が判りませんが、堰の歴史と高崎藩主松平輝貞と倉賀野の松平勘十郎の事跡が称えられているとのことです。 
またここに高小田堰があります。江戸時代の分水堰図にある七番堰です。上並榎村への分水堰です。ちなみに十二番が大橋橋にある新井堰です。あいだに四つの堰があった訳ですが今現在のところ十一番の金井堰だけしか確認できません。

橋とは水路と道路が交差する地点です。だから長野堰の次は新室田街道の話です。  
明治十八年十月十五日、高崎~横川間が開通しました。飯塚停車場(大正八年八月一日に北高崎駅と改称)がその時点で大橋との境にできました。 
明治十八年の地図には、信越線はあるも新室田街道はありません。現在の北高崎から高経大前までの区間は明治二十年代になって開通した、新県道なのです。(そういえば祖父がよく室田新道といつてました。) 
これによって、本郷、室田方面への物流は飛躍的に便利になったと想像できます。 
何気なく通過していた、名前の表示もない橋にも、こんな歴史があつたんですね。        最後に群馬八幡駅が出来たのは大正十三年だそうです。  

Posted by 捨蚕at 04:00
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2010年02月15日

山名八幡物語(五) もう一つの金井沢の碑

前回の上信日記に、さかのぼる事三十三年前、一人の国学者が金井沢の碑を訪れています。
その著書名を山吹日記といいます。江戸の国学者奈佐勝皐(かつたか)が天明六年四月十六日から五月二十三日まで、上野国内を調査見学した、旅日記です。 
五月六日富岡をでて曾木、福島,金井、長根、吉井、と過ぎ。多胡の碑をみます。そして金井沢の碑へとむかいます。

一部抜文します。 

すへて一里はかりをこえぬれは金井沢にいたれり。この沢水にそいて、二つの山あいを七八町もやきぬらん、いたうおくまりたる山陰の賤かふせ屋の庭もせに、神亀三年の古き碑たてり。  
このかたわらより、近きころ掘り出しとかや。  
是も今は八幡宮に斎ひたるは高崎の宮部義正がいいすすめてかくしたるとそ。相ともに是を摺えたり。石の面高さひくさありてよくもうつらす。  

何度読み返しても碑が二つあると読めます。 最近掘り出した神亀三年の碑が金井沢にある。 山名八幡宮にも宮部義正の薦めで碑が祀られている。両方ともに拓本にしたが、よく写らない。  と読めないだろうか。

例えば昭和44年の高崎市史には、古碑の移動つまり金井沢から山名八幡への移動が書れています。では天明六年時点には碑はどちらにあったのでしょうか。それとも、五月時点では金井沢に、江戸に戻り、清書もしくは校正の時点は山名八幡に、という意味なのでしょうか。 では相ともに、とはなんなのでしょうか。  

さらに気になることがあります。同じ高崎市史の古京遺文のなかにあります。 碑は旧山下の村民弥一の家の側にあつた、そして洗濯板として使用していたが、罰が当たったためか、一家が絶えてしまい、これを恐れた村民は、この碑を山下に移したとあります。
そのすぐ後に、明和年間に烏川の崖の崩壊により出土したものはこの碑のことではない、と書かれています。 

貴方はどうおもいますか。金石題跋にある明和年間に崖崩れにより出土した石とは別のものがあると、確かにあります。 
この時点で、確かに碑は二つ存在していました。   

もう一つの金井沢の碑は、今どうしているのでしょうか。 
もしかして、山名八幡の境内に埋もれているのかもしれませんね。










  

Posted by 捨蚕at 11:34
Comments(2)山名八幡物語

2010年02月13日

山名八幡物語(四)あやしの堂

上信日記という紀行日記があります。時は文政二年(1819年)四月二十四日、国学者清水浜臣は、伊香保を立つて水沢観音を参拝後、野田、金古、野良犬、観音寺、中泉、福島をへて三国街道を高崎へとむかいます。佐野で烏川を舟で渡り金井沢の碑をみます。さらに山の上の碑を見ようと、山名八幡宮を参拝します。  数行ばかり抜粋してみます。    

しらぬ山路にふみなんもやうなしとて山名八幡へまうつ。二天門、石坂、鐘楼、本社のうしろのかたにあやしの堂あり。内に石仏二体をおけり、いと古し。六七百年前のものうたかひなくみゆ。  


二天門とは仏教で仁王門、神道で随神門のことです。石坂は石段のことです。が、写真には鐘楼がありません、もっとも崖の上には、下の亭から奥宮へ行く途中に鐘楼があります。   本社の後ろに、あやしの堂らしきものはありません。

かって、木部さま(木部城主木部範虎のこと)があったと聞いています。今はコンクリートになっていますが、大雨による崖崩れで何度か土砂崩れがあったと、聞いています。本社の裏に今も埋もれているのでしょうか。

上信日記からこの境内図まで、約八十年の時間があります、どんな事が在ったのでしょうか。

さて清水浜臣のことです。参拝後に山の上の碑を訪ねて山に入りますが見つからず、その日は諦めて倉賀野にむかいます。そして上野三碑考で有名な木部白満(きべつくろまる)の営む藤浪屋に泊まります。そこで二つの碑の拓本を見せてもらっています。(金井沢の碑と山の上の碑)
翌二十五日に白満の案内で、山名八幡に寄らずに、山の上の碑を見てから、鏑川を舟で渡り帰路に着いています。

清水浜臣の見た、あやしの堂の石仏とは何だったのでしょうか。また、今現在何処にあるのでしょうか。   

Posted by 捨蚕at 22:02
Comments(3)山名八幡物語

2010年02月12日

小発見シリーズ(19)おおはしはし 

長野堰のことを大川といいます。大川に架かる橋を大橋といいます。この橋が大橋の原点です、(分かり易い話ですね)。 
この”おおはしはし”は昭和43年12月の改修工事のときのプレートです。 

大橋町は明治35年、赤坂村字大橋、が西方の字鳥羽の一部と東方の字新井の一部を併合して成立しました。   
三国街道を本町一丁目から、四谷、相生、住吉と北上した町並みは、明治18年の信越線開通にともなう飯塚停車場(北高崎駅)の設立により、またたくまに駅から大橋まで商店街ができていったそうです。 

大橋町1番地は、この写真を撮影した場所、おおはしはしの北西地点です。 
領域は、東は旧電車道で昭和町と接し、南は長野堰で住吉町、台町、並榎町と、西はシリーズ(14)にある水道局大橋水源地と信越線を結ぶ線で並榎町と、北はほぼ信越線で飯塚町と。(一部、三国街道踏切から次の信号まで、なぜか北に突出しています) 

私は大橋町256番地の借家でうまれた。だから結婚するまでの本籍地は、大橋町でした。  (ちなみに、亡父は約50年近く並榎町に住みながら、死ぬまで大橋町の本籍でした)

明治30年代に作られた高崎唱歌に
      橋を渡れば大橋町     渋川行きの馬車鉄道  
      長野直江津方面に     飯塚駅のステーション     
  とあります。明治41年に鉄道馬車はチンチン電車にかわりました。   


また多分大橋町は、大橋の佐藤技芸、台町の高商、上和田の高中、昭和町の実践女子校、末広町の高崎女子校と、信越線で通学する学生の歩く町だつたのでしょう。  

とりとめのない、おおはしはし の話でした。  

Posted by 捨蚕at 21:40
Comments(0)橋シリーズ

2010年02月12日

ラ・メーゾン(我楽多№2)



写真の看板は昔ラメーゾンにあつたものだそうです。
もう三十年近く我が家にあります。  

田町生まれの妻と、骨董屋の小父さんが言っていたから多分間違いないでしょう。  

私には明確な記憶は、ありません。                        

 店をはいると、螺旋状の階段で絵画や観葉植物があつて、二階は籐椅子のあるゆつたりとした空間がひろがり、シヤンソンとコーヒーの香り、そんな部屋のどこかにあつたのでしょう。   

昭和21年創立とあります。山本直純さんのお父さん山本直忠氏を指揮者に迎えて、ここは、群響のの前身である市民オーケストラの練習場だつたそうです。

籐椅子に座って、煙草はピース、曲はムスタキ、飲むはブルマン、菓子は何故かモンブラン、そんな初老の自分を夢みていた二十歳の私が、かっていました。  

この看板にご記憶のある方は是非お知らせください。お待ちしてます。  
タグ :ラメーゾン


2010年02月09日

ISOMURA TOKIO・・(我楽多№1)

  




     ISO  MURA  TOKIO    


    第弐五六号 瓦斯提燈   
       製造元東京   
      磯村合名会社    





何だかわかりますか。ランプですね。懐中電気の先祖ですね。   
私の祖父の数少ない遺品の一つです。   


あなたは自分の四人の祖父母のことをどのくらい知っていますか。  
残念ながら、私はほとんど知りません。知ることの必要性さえあまり意識していませんでした。

でも考えてみると四人の遺伝子で私ができあがっているのですね。  

祖父の略歴です。
     明治21年4月     誕生 
     明治27年4月     丹生尋常小学校入学 
     明治44年        北高崎駅保線区勤務  
     大正2年        結婚   
     大正4年        長男誕生
     大正7年        次男誕生   
     大正8年12月     長男病死    
     大正11年        熊ノ平の官舎へ  
     大正12年       妻病死    
     大正13年        再婚  横川保線区に転勤     
     昭和5年4月      一人息子 高崎商業学校入学
     昭和14年1月     一人息子 入隊   
     昭和15年       国鉄退職   高崎に転居 
     昭和21年       息子復員 結婚 
     昭和22年       初孫誕生   
     昭和31年       上並榎に転居(七人家族)   
     昭和51年6月15日  死亡   
写真の品は祖父の約30年間の国鉄勤務の遺品でした。  

2010年02月08日

山名八幡物語(三)境内図の訂正と追加

境内図の左右の下の部分の写真です。   





前々回の境内図の一部訂正と、写真と記事の追加をさせていただきます。                                          
まず、右の写真です。八幡尋常小学校です。すこし立派すぎるとおもいませんか、 そのはずです、勢多郡富士見村の旧群馬県尋常中学校の校舎を購入移築したのそうです。明治29年9月3日村議会は、校舎建設費3344円65銭6厘を議決,翌30年3月21日に県知事を迎え開校式の運びとなりました。ちなみに、1326坪の敷地代は302円39銭でした。 
              
県下に偉容を誇る 校舎の完成です。
左の写真は、明治30年全面開通した上野鉄道の山名停車場です。                                   つまり境内図の下部の左右に、多野郡八幡村の発展の、期待と希望をこめて、鉄道の開通と小学校の開校を描いています。 では上部には何を描いているのでしょうか、左に鏑川と山の上の碑、右に烏川と金井沢の碑です。 
山名が誇る最古の二つと、最新の二つを描く構図となります。 
さて前々回の訂正です。随神門のなかに仁王様はいないと言いましたが、昭和の初期までは存在していたそうです。古老の方にお聞きしました、訂正させていただきます。  続きを読む

Posted by 捨蚕at 09:52
Comments(0)山名八幡物語

2010年02月06日

俳句のすすめ(六)寒の明け

常仙寺の石段を登りつめた山門右脇にお地蔵さまがあります。
  
  大道に 寒の明けたと 地蔵尊  捨蚕

見下ろす先は、中山道です。左に常盤町の木戸、右に定仮橋(明治十二年に君が代橋と命名)。  
その先に、烏川です、きらきらと光はまさに春、されど春は名のみ。  
春が立ち寒があけ、中山道の往来も日増しに賑やかになることでしょう。  

話はそれますが、すぐ北の神明宮に鬼城句碑の建立が決定したようです。
     大雨に獅子をふりこむ祭可奈  
全国で四十三基目、鬼城忌の9月十七日までの完成予定だそうです。  

Posted by 捨蚕at 16:48
Comments(0)俳句のすすめ

2010年02月05日

小発見シリーズ上並榎(7) 道祖神の謎( 二)


明和八年の、残り二つの道祖神の話です。場所は長野堰が、新室田街道と交わるところ、稲荷橋交差点の南がわです。三角形の空き地に二基の道祖神があります。ものの本によりますと、明和八年十二月吉日護国寺一元拝書と書かれているそうです。石が摩滅と苔で私にはどうしても読めません。一元とは名刹天龍護国寺の中興の祖にして、かの並榎八景絵図の完成者です。ここで不思議なことに気付きました。一元が護国寺にきたのは、寛政七年、つまり明和八年は二十四年前なのでした。   年表風にまとめると  

       1) 明和八年(1771)    道祖神三基造立
       2) 天明三年(1783)    一元豊岡薬師寺の九世となる
       3) 天明五年(1785)    2月6日護国寺焼失      
       4) 寛政七年(1795)    一元護国寺十六世となる   
       5) 享和三年(1803)    護国寺再建    
       6) 文化元年(1804)    並榎八景絵巻の完成

となります。4)から1)をひくと24ということです。これが謎でなくてなんでしょうか。
ところがです。高崎の石造物という本をみて、すべてが氷解してしまいました。謎はいとも簡単に解けました。  
二基のうち右は、上並榎 松東野啓書 明和八年十二月吉日とあり、左は、新建明和八年、再建亨和三年護国寺一元拝書とありました。つまり護国寺の再建時に道祖神もまた再建したということでした。
大変お騒がせいたしました。ひらにご容赦を。  

Posted by 捨蚕at 18:06
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2010年02月05日

小発見シリーズ上並榎(7) 道祖神の謎(一)

明和八年ここ上並榎村に道祖神が三基建てられました。一つは道しるべ道祖神、他は文字道祖神です。
まず、この道しるべ道祖神です。場所は長野堰が信越線を潜り抜けたところ、信越線を渡る歩道橋のわきにあります。     道陸神、明和八年、卯正月吉日、左しらいわ はるな。 とあります。                                  かつては、信越線の北、約100米上流にありました。おそらく昭和50年頃までは長野堰に架かる小橋のたもとにありました。 しらいわ とは、坂東三十三番札所の十五番白岩観音のことです。正式には白岩山長谷寺です。ちなみに十六番は水沢観音です。三十三のうち群馬にあるのは、この二つだけと記憶してます。                                   さてこの道陸神は、もともと何処にあつたのでしょうか。室田街道沿いには、違いありません。そもそも室田街道は本町一丁目から稲荷横丁、台町、上和田、下並榎、上並榎、我峰、沖、本郷、室田と続く道でした。信越線の室田街道踏切をわたると、長野堰放水路をわたり、新室田街道の手前を左におれて、護国寺の山門前を通過して高経大の東にでる道でした。  この左に折れる角にあると、解かりやすいのですが。直進すると上小塙をへて箕輪にむかいます。       元来道祖神は、村の入口や辻道、街道端に立てられましたが、道祖神祭りで、小屋を建てて燃やす関係から田んぼのそばに移転させられるものが多いとききます。 この道陸神もなんどか、移転を繰り返したのでしょう。  

Posted by 捨蚕at 14:00
Comments(1)上並榎シリーズ

2010年02月01日

小発見シリーズ(16) 並榎の砦

写真は、並榎山常仙寺の黒門から見たところです。石段の下は旧中山道、その先は烏川、観音様が正面に見えます。またすぐ南西は君が代橋、筏場と呼ばれ上流から陸路で運ばれた木材はここで筏に組まれ江戸方面に向かったそうです。
前回に紹介した神明宮の約五十米南に位置する曹洞宗のこの寺は、嘉永五年三月(1628年)高崎新町の水運業の飯塚常仙の開基にして、藤岡市森にある泉通寺の第四世の開山とあります。
川筋を小型帆船で下れば二つ三つ先の停留所といった
感覚の、常仙さんの領域だったのでしょう。
さて飯塚常仙のことです。高崎志等によりますと、慶長四年(1599年)井伊氏が高崎に移って来た時点で新町周辺の荘屋であったそうです。また聖石河岸の水運も把握していたとのことです。
商人が寺を開基するというのは比較的珍しいようです。では何故に開基したか、商売上の理由はあったでしょうが。
永禄元年(1557年)
の長野氏の改軍評定着到帳なるものの中に、並榎砦在住の飯塚左衛門丞
忠則なる名前を発見しました。
常仙寺ができる71年前には、ここは、砦だったのです。
和田城と上並榎城との繋ぎの砦だったのです。西と北と東を堀に、南を崖に囲まれた、烏川の渡河点を押さえる目的の砦でした。
多少、強引ですが、意図がお分かりになったと思います。
常仙さんは、武田の甲軍に敗れたであろう、ご先祖の供養のためにも寺を創建したのでしょう。かっての砦跡に。
うわさによりますと、この飯塚常仙さんのご先祖は、飯塚村のご出身とか、すると例の飯塚城も絡んでくるかもしれません。
今日はここまで。
  続きを読む

Posted by 捨蚕at 00:34
Comments(3)下並榎シリーズ