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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年04月30日

”存在感”について考える №ⅳ

 
 ”小人モルガンテ” 
 
 ジアンボローニャ 作
 
       ブロンズ 
 
        高さ 13cm  
 
(ウイーン美術史博物館蔵) 





トスカーナ大公コジモ一世の 
宮廷の小人の肖像。 

Cosimo de’Medici 
(1519・6・11~74・4・21) 



昭和48年10月の”図書”の表紙絵 

風子さんの記事の”吉田東洋”から 
存在感ある人間”について考えて 
いました。 いま発見しました。  


Posted by 捨蚕at 20:52
Comments(1)表紙絵シリーズ

2010年04月30日

”左しらいわ はるな”道(踏切シリーズ7)

 




















                               (室田街道起点地)

かって明治時代、高崎市街地から信越線を跨ぐ三本の主要道がありました。①の前橋街道④の三国街道、そして今回紹介の⑦室田街道でした。

現在室田に行くバス路線に里見経由と本郷経由の二路線があります。前者は草津街道、後者は室田街道と呼ばれていました。室田街道は草津街道の脇街道として発展しました。

北高崎駅から高崎経済大学までは、新道として明治の末に拓かれました。旧道の起点は相生町でした。
写真は相生町の信号のある交差点の西側部分です。(昭和30年代頃ここには、塩沢酒店、大野理髪店、武井理髪具店、宮川魚店が四隅にありました) 

相生町には木戸(三国街道口)があり、木戸を出て西に左折すると、稲荷横町とよばれる小路があります。
小路の左手に、正一位宝福稲荷大明神があります。
ここが三国街道との追分であり、室田街道の起点でした。  

街道は上和田、下並榎、上並榎と進み、この室田街道踏切を越えて、左折して天龍護国寺の門前を過ぎて、高経大の東に出ました。 

この左折する角に”左しらいわ はるな”の明和八年の道陸神が、あったと想定します。(2月23日のさ迷える道陸神を参照願います) 

上並榎村は三辺を古墳に囲まれた、名刹天龍護国寺のある村でした。また一時期は、下之城とならぶ和田城の支城、並榎将監・庄九郎の居城でした。 

そして、”並榎八景絵図”にあるように、まさに景勝の地でもありました。 

            (高崎駅まで3k550m)  


Posted by 捨蚕at 17:26
Comments(2)踏切シリーズ

2010年04月29日

ノートル・ダムの兎 №Ⅲ(三番兎の巻)

 

  ”勇気と臆病“ 

浮彫 1210~1220年 

パリ ノートル・ダム大聖堂 
   西正面中央入口腰石 

上半部は”勇気”  

獅子を描いた楯をもち剣をかまえた戦士  

下半部は”臆病” 

梟(フクロウ)のとまる樹の陰から飛び出した兎に 
驚いた男が剣を捨てて、逃げるところ。
 



”兎はいつもビクビクしている、秋に木々からおちる木の葉すら、兎を恐がらせる” (レオナルドの手記・動物譚より) 
動物界きっての臆病者の兎に、怯える男ということなのでしょう。 

私の記憶では、特に黒兎は野生的で好戦的な気がしましたが。 
もつとも、好戦の原動力は恐怖心なのでしょうが。


昭和52年6月(第334号)の”図書”の表紙絵です。 

(おまけ)
この号の36pに、先日亡くなった”井上ひさし”さんが、 
”歌謡曲の一節と岩波新書の頁風”と題した文章がありました。 
この曲を聴くと、この新書を思い出すという意味らしいです。

   (歌謡曲・歌手名)          (新書名)           (著作者名)

網走番外地(高倉健)         ヒロシマ・ノート          大江健三郎
君こそわが命(水原弘)        天才                宮城音弥
港町ブルース(森進一)        知的生産の技術         梅棹忠夫
私の城下町(小柳ルミ子)      アフリカの神話的世界      山口昌男  
みどりの馬車(岡本敦夫)   なぜ社会主義をえらぶか   ジョン・ストレイチイ 

天才の頭の中を、覗いた気がしませんか。  


Posted by 捨蚕at 21:39
Comments(1)表紙絵シリーズ

2010年04月29日

”あすなろ”のあった街  No11

 





















      鞘(さや)町は  鬼城(きじょう)あすなろ 
                  五月雨(さつきあめ) 
                 
           平成13年6月    捨蚕
 




鞘町(さやちょう) 
慶長三年(1598年)に箕輪からの移城とともに、箕輪の白金町に住んでいた刀の鞘師、研師,柄巻師、金具師、白金師などが移り住んだ町。  
”高崎寿奈子”によると南北長さ31間、名主は、中村武兵衛、中村利左衛門。

鬼城(本名 村上荘太郎) 
明治27年3月より昭和2年6月4日まで、鞘町甲21番地1号に居住。 
”昭和2年6月4日午前3時10分頃、鞘町23番地の染物型付業中嶋光太郎方から出火16戸が全焼”
いわゆる、鞘町の大火のため、昭和3年7月並榎町288番地に移転。 
鞘町の54坪の敷地は隣接の木工業・神保一郎氏に売却。 

あすなろ(クラシック喫茶) 
昭和40年6月、鞘町に再開店。昭和57年閉店。 (3月31日小発見シリーズ36参照)

五月雨(さつきあめ) 
”さみだれ”ともいう。陰暦の五月に降る。梅雨期の霖雨のこと。
  


Posted by 捨蚕at 20:54
Comments(1)俳句のすすめ

2010年04月28日

アイソポスの”兎と蛙”  №・Ⅱ(二番兎の巻)

  

イソップ”寓話集より

   ”兎と蛙”  

エスコリヤル本 2の8 

スペインの木版挿画 

ゴシック後期(1489年) 
   













             ”いつも人や犬に追いかけられ、
                  ビクビクばかりの兎さん
                  いやだいやだよ、この世間。 
              いつそ皆で死んじゃおと 、 

             川のふちまで駆けたとさ。 
             そしたら、ビツクリ、ドツキリ、蛙くん  
          

             あわてて、水に飛び込んだ。 

                   それを見ていた兎さん、 
                   みんな、死ぬのは止ようよ、
                      
                        僕達に、ビクつく、 
                        奴もいる”                  


”図書”の昭和51年4月(第320号)の表紙絵です。 

        " みんな、みんな才色兼備、眉目秀麗、善男善女、 

           比べる基準が違うだけ、比べる相手が違うだけ”

                    stego
  

Posted by 捨蚕at 08:33
Comments(2)表紙絵シリーズ

2010年04月27日

”デューラーのうさぎ”    №Ⅰ(一番兎の巻)

 


アルブレヒト・デューラー画   
   紙本水彩 1502年 
    251x226mm
    ウイーン アルベルテイーナ蔵



”この栗毛の野兎の柔らかさ、暖かさ、意外と骨っぽい身体つき、 そしてその下に脈うつ鼓動・・・・静のなかに秘められた動を見事に描いている・・・兎の眼に映っているのは画室の窓の光である”
             

     前川誠郎(表紙解説)




昭和50年1月発行の”図書・第305号”の表紙絵です。 

無料の岩波書店の雑誌ですが、内容は充実してました。 

例えば、当号の16pには池田満寿夫が”少年時代の読書”と題した、小文を載せてています。 
大陸で生まれた、小学生の満寿夫君は、雑誌”海軍”、少年倶楽部”の熱烈愛読者だつたそうです。

芥川賞を受賞する2年前の小文でした。



  

Posted by 捨蚕at 10:24
Comments(0)表紙絵シリーズ

2010年04月26日

”むく”のいる庭・ 春

 


















 

この子像(こぞう)さん”むく(無垢)”と 名付けました。  

 じつは、数年前にムクという名の兎を、この庭に放しました。 

 ”ムク”と呼ぶと、合歓の木の方から、走って来たものでした。 

 その後、フンはたまに見かけたのですが、
 行方不明になってしまいました。 

 ところが、ご近所の方と今年の1月にお会いしたら、
 二人の方の”待ちうけ”に、ムクが映っていたではありませんか。 

 ”いつ頃に写したんですか”と聞いたら、
 ”1年ぐらいまえかな” とのことでしたが。  

      で、この子に”むく”と名付けました。
                   
               (所在地 碓氷郡松井田町大字五料字榎)


  
タグ :五料


Posted by 捨蚕at 11:43
Comments(3)むくのいる庭

2010年04月26日

SLが行く(踏切シリーズNO・14の予定)

 





















4月25日午前9時46分、”SL列車・碓氷”が行きます。 

場所は群馬八幡駅と安中駅の間、詳しくいうと、”西馬場踏切”と”第三中仙道踏切”の間です。 

余計に解らなくなりましたね。 国道18号線が安中市板鼻に入った辺りです。  

右の踏切表示板、今までと違いますね。
NOも距離表示もありません。ただ名前はあります。 

”西馬場”です。八幡八幡宮の西の馬場という意味でしょうか。  

Posted by 捨蚕at 10:01
Comments(0)踏切シリーズ

2010年04月26日

我が母校(踏切シリーズ・6)

 



信越線no・5は”紡績踏切”ですが、 

またまたですが、4月3日の”紡績てなあに”に掲載済みのため、  

ひと踏切飛び越えて、信越線no・6”西小前踏切”です。 

(なお、紡績てなあに、は”踏切シリーズ5”に変更しました)





写真の上部、新室田街道(高経大通り)との交差点は、かって丁字路でした。 
何時からかと、聞かれると困るのですが、私が三山幼稚園と西小に通う頃は、間違いなく丁字路でした。 (多分昭和の終わり頃だとおもいます) 


写真の左下が西小、右下が三山幼稚園です。校長は深堀三郎さん。園長は清水吾一さん。 
西小は昭和25年創立だそうです。すると三山幼稚園は昭和30年頃だとおもいます。 
何故かというと、私は名誉ある第一回の卒園児ですからして。(だからなんだ!) 


新・旧の室田街道を結ぶこの道を”西小通り”と名付けます。何故なら両方の街道に”西小入口”のバスストツプがあるからです。
多分、開校と同時に道ができ、踏切ができたと思われます。

拡幅とせずに、”道ができた”としたのには理由があります。  
旧室田街道から長野堰まで西小通りに沿って西側に、小道が北上してます。それも家一軒の間隔で平行しています。 

同級生の清君によると、鳥羽橋もかつて、10m位上流にあつたといいます。 
この道が、元の道だと推定できます。もちろん昭和25年以前のことですが。 


私事ですが、あと数年で親子三代で”西小学校前踏切”にお世話になる予定です。 
 
       高崎駅まで2K927M     

Posted by 捨蚕at 09:54
Comments(0)踏切シリーズ

2010年04月24日

飯塚停車場(ステーション) 踏切シリーズ・4

 


   橋をわたれば大橋町  

    渋川行きの馬車鉄道 

   長野直江津方面に 

    飯塚駅のステーション 

     
      
     明治41年発行 
      ”高崎唱歌24番” 
        深井小五郎著
 




渋川街道でなく三国街道が良いですね。 
なぜなら、高崎の御城下から四ツ谷の木戸を北上する道は、昔から三国街道ですから。


明治18年(1885年)10月15日に高崎~横川間が開業しました。 
中間駅は、飯塚、安中、磯部、松井田の四駅。
一日4往復で運行時分 は1時間20分。
旅客運賃は、上等1円、中等60銭、下等30銭。    


この踏切も北高崎駅も、正確には大橋町なんです。この場所だけ北に突き出して大橋町なんです。 
それも、幸楽苑のラーメン屋 さんまで、どんな理由があったんでしょうか。


北高崎から電車にのると、4分で高崎駅に着きます。それもたったの140円。 
飲み会の時の、私の最寄り駅です。 

      高崎駅まで2K424M  
   

Posted by 捨蚕at 18:18
Comments(4)踏切シリーズ

2010年04月24日

電車山のあったあたり(踏切シリーズ3)

 

信越線NO・2踏切は、金井踏切です。 


が、小発見シリーズ21”女学校西通”で、紹介済(2月19日)のため、  

今回はNO・3踏切の飯塚踏切です。 


(なほ、小発見シリーズ21は、踏切シリーズ2に変更させていただきました)







かって、この踏切と北高崎駅の間に電車山がありました。昭和30年に電車軌道は廃止されたそうです。 

ただし、電車山はその後もしばらくありました。写真の樹の向こう側あたりだと思います。

同級生の、のぼる君が、電車山から落ちて腕の骨接のためにしてきた包帯の白さが、勲章のように思えた記憶があります。 

母は何度か、私を連れて渋川の親戚の家に行ったといいますが、残念なことに、いくら思い出そうと思っても、乗車した記憶がありません。 


この踏切を北に行くと、清水内科の裏に字鼠屋敷をみて、長泉寺(愛隣保育園)です。
さらに北上すると飯塚村の中心地の、飯玉神社や常福寺のある、飯塚城跡にでます。 

高崎駅から2K095Mの距離にある、飯塚踏切でした。  

Posted by 捨蚕at 13:27
Comments(3)踏切シリーズ

2010年04月23日

SEIKOSHAの柱時計(我楽多no・4)

 


MADE BY SEIKOSHA TOKYO. JAPAN. 



MANUFACTURED    
   BY SEIKOSHA   



TRADE  ”S ” MARK 


(以上がこの柱時計に書かれている文字の全てです)





父が小学生の頃、つまり昭和初期には既に横川の国鉄官舎にあつたと云います。 

私が小学校低学年のころ、大橋の借家の柱に偉そうにありました。 

祖父母が一日おきにゼンマイを巻いていました。 

巻くと針はどんどん進みます。ですが翌日には遅れ始めます。 

考えると、ほとんど正確な時がありませんでした。 

立派な家具として並榎町に転居したこの柱時計も、だんだんと邪険にされるようになりました。

春と秋の大掃除のたびに、父母が捨てるのを、そっと子供達で拾って来たこともありました。 

なぜなら、カチカチとボーンボンの音が、毎日の生活のリズムでしたから。 

一度、飯塚町の時計屋さんに修理してもらいました。
一年間ぐらい元気でしたが、また動かなくなりました。

それももう十年以上まえのことでした。  

2010年04月22日

清水橋(シリーズ47)



橋の四隅に文字が立派に残っています。  
    
     ① 清水橋  

     ② 國道九号線          

     ③ 志みつはし  

     ④ 昭和四年一月成 

一貫堀を跨いでいます。 








この道は、前橋新道。

父が昔々、敷島球場にベーブ・ルイスを見に自転車で行った、舗装道路です。 

母が幼子を三人連れて、前橋の親戚の家に行くためにバスで通ったバス道です。 

私が小学生のとき、初めて友達と自転車で、あこがれの前橋児童遊園地に行った、記念すべき夢の道です。

あなたには、どんな思い出がありますか?  

Posted by 捨蚕at 11:31
Comments(5)橋シリーズ

2010年04月21日

鉄路の辻(踏切シリーズ・1)前橋街道踏切

  



















新前橋街道踏切  NO・3                   前橋街道踏切  NO・1      
    76K484M                                1K501M    
    上越線                                   信越線   



二つの違いがわかりますか。前橋方向に向かって、手前が前橋街道踏切、清水橋をわたって、次が新前橋踏切。 
上越線のNO・1踏切は、多分いまは無き伊勢崎街道踏切(開かずの踏切)だと思います。 
上越線のNO・2踏切は、大類里道踏切(75K684M)です。(09・12・23のコメント参照) 

不思議なことがあります、上越線は高崎駅ー宮内駅(長岡市)162・6kmとあります。
76・484kmは意味が解りません。どう考えても大宮からの距離です。 
(ちなみに高崎線は大宮駅ー高崎駅で、74・7kmです。) 

右の写真は、信越線最初の踏切です。 (高崎駅から1501mの地点です)

終点横川駅に向ってシリーズを発車します。乞うご期待。  

Posted by 捨蚕at 22:12
Comments(0)踏切シリーズ

2010年04月21日

上野国・九牧(きゅうまき)小発見シリーズ46

               
                                                         ”東”と読める焼き印 
                                                                  
                                                            右下部分は欠落    

                                                          一辺75mmの正方形 

                                                           平安時代の住居跡 

                                                          並木遺跡近くの古代牧 

                                                       ”発掘された安中の遺跡”
                                                                                                                                       上毛新聞4月19日掲載 





延喜式の馬寮によりますと、上野国に九つの、官営の馬の牧場がありました。 
 
利刈(とかり)、有馬島(ありましま)、沼尾(ぬまお)、拝志(はやし)、久野(くや)、市代(いちしろ)、大藍(おおあい)、 
塩山(しおやま)、新屋(にいや)の九つですが、 安中らしきものは、ないようです。 


延喜式の巻28兵部省では、駅馬は坂本で十五疋、野後で五疋、伝馬は碓氷で五疋とあります。 

和妙妙によると、碓氷郡には八郷あります。 
飽馬(あきま)、石馬(こくま)、坂本、磯部、石井(いわい)、野後(のじり)、駅家(うまや)、浮囚(ふしゅう)とのことです。


    焼印の”東”の文字が気になります。  
    駅家、野後では東になりません。 
    

 4月29日~6月1日まで、”安中市間仁田の学習の森ふるさと学習館”だそうです。  

Posted by 捨蚕at 17:10
Comments(1)小発見シリーズ

2010年04月20日

鬼城の橋(シリーズ初回並榎橋・リメイク版)NO・45



















                     
                                                                              


 並榎橋(川の北は大橋町です)         なみえはし(神明宮にあります) 



大正3年8月    ”夏草に 這ひ上りたる捨蚕かな”  
昭和3年7月    並榎町288番地に鬼城庵なる。 
昭和6年6月    並榎橋起工・揮毫。
昭和13年9月   鬼城・死す。  


平成13年4月   ”癇(かん)の虫 喰らうてみたや 花見酒” 捨蚕の俳号で
            勝手にデビュー。 
平成21年12月20日 ”並榎橋”から、ぶら捨蚕は、スタートしました。
  

Posted by 捨蚕at 12:51
Comments(1)橋シリーズ

2010年04月19日

リ・メイク・ザ・八間道路(小発見シリーズ44)

 



















1993年3月15日号                      1994年2月15日号 



2010年1月17日~20日の、”小発見シリーズ”にせめて映像の追加をと、 
塩沢氏の”広報たかさき表紙絵”から二枚の八間道路の絵を探しだしました。 

ところが、既に”八百延”も、”神田菓子店”も、”やきそばオリタ”も、
とっくの昔に、無かった事を、発見してしまいました。

  

Posted by 捨蚕at 18:27
Comments(7)小発見シリーズ

2010年04月17日

長野業盛(ながの・なりもり)小発見43

 

”TAKATAI”に掲載(4月16日) 
   
錦絵高崎人物図鑑 
     第一回  長野業盛
   
       
     清水英寿氏作   
         辻村寿三郎に師事 
         高崎在住の人形制作家 












永禄九年(1566年)九月二十九日、箕輪城の落城した日といわれています。 

”その身は持仏堂に入り,父の位牌に三礼し、鎧ぬぎすて一首書く、念仏唱え、腹かき切り自害したりけり”

それも比較的最近のことで、それ以前は永禄六年二月二十二日でした。
箕輪軍記、関八州古戦録、甲陽軍鑑等すべてこの日付だつたためです。 

たとえば、昭和36年4月発刊の”群馬の古城跡”によると、”はなはだしいのは落城を永禄九年とする説もあるくらいで”とあります。それが、昭和50年代以降の発刊の本には、永禄九年説に変っています。

根拠はほぼ次の二点のようです。 
一つは永禄八年二月七日の、上諏訪神社への信玄自筆の箕輪城落城の願文。 
もう一つは、永禄十年三月七日の、下室田長年寺の受連の覚書です。 

特に、長年寺文書の、”永禄九年九月廿九日箕輪落居之上”は、ほぼ決定的となった様です。 

長野業盛さん、43ヶ月寿命が延びたと理解してよいのですかね。  

Posted by 捨蚕at 07:07
Comments(2)高崎人物図鑑

2010年04月15日

幟旗(のぼりばた)・俳句のすすめ・その壱拾

 





















山名八幡宮・春祭り                   UTAGE(4月10日の茶会)
    (塩沢宗馬・画)



       春祭る 村の境の 幟旗    
                           捨蚕 




四月十五日は、山名八幡宮の春祭りです。
十四日に男のひとは、のぼり旗をたてます。女のひとは御馳走をつくります。

たとえば木部では六つの字(組・町内)で、十数メートルもある幟旗が揚がります。 
朝早くに、杭に棹をたてて旗をあげます。
旗には、”奉納八幡大神”・”神之為給其盛乎”などの祝いと願いの文字が書かれています。 

今日は村の鎮守さまのお祭りです。  

Posted by 捨蚕at 05:45
Comments(3)俳句のすすめ

2010年04月13日

六本辻は魔界の出口(小発見シリーズ42)


(捨蚕の戯れ唄)

六という字は縁起が悪い、 
親父の命日、六月六日。 

六文銭は三途の駄賃 
野辺の送りの六地蔵 

六波羅蜜寺は魔界の出口 
声無き声の闇の闇

辻というとこ、不思議な所

怪しいものたち、ぞうろぞろ、
辻占いに、辻芸人、辻斬り、辻君、辻説法、 





高砂町は五本辻、よくみりゃ、末広六本辻。けもの道とか、おばけ道。
いろんなことをいわれても、ここは立派に国の道。 
九号線の始発点。
  

Posted by 捨蚕at 09:33
Comments(6)小発見シリーズ