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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2009年12月31日

山名八幡物語( 一) 境内図

上野国山名八幡宮境内全図これが正式な名称。明治31年12月の印刷、発行。定価金七銭、八幡宮社司高井和重。
まず左下隅に一之大鳥居その右脇に太刀割石、一名福石、その上に上野鉄道山名停車場。(明治30年9月全線開通)小さな汽車が煙を吐きつつ高崎方面に向かって駅を出たところです。
右下隅に八幡尋常小学校、生徒が体操や行進や遊戯をしているのがみえます。
一の鳥居に戻って参道をすすみましょう。踏み切りを越えると随神門、かって神仏混合時代には、仁王様があったとききますが、明治31年にはなかったのでしょう。参道にそって手水屋、稲荷社、金刀比羅社、と右手に並び石段です。
左右に石垣が組んであり二の鳥居をくぐりつつ登りつめると、拝殿です。
拝殿の右に厳島神社そして末社と石碑。左には御輿倉、神楽殿。それは今は拝殿の右手にある。
拝殿の裏は断崖、八幡山が続き奥宮が鎮座している。
この絵図は上野鉄道の開通を機に、汽車で行ける神社、境内を汽車が走る神社、としてPRのために作られたものでしよう。
ちなみに高井和重宮司は今の三代前の宮司です。

明日は元旦。山名八幡を参拝の際には、この絵図を増刷したそうですのでご購入してください。一味ちがった初詣になること受け合いです。
毎月月末に山名八幡物語を連載します、たくさんの思い出や知識のコメントを期待しています。
  

Posted by 捨蚕at 16:56
Comments(4)山名八幡物語

2009年12月29日

行人橋(小発見シリーズ其の五)

上並榎城の予定を変更してなぜか突然、行人橋です。゛ぎょうじん゛とは、修業僧のこと。上小塙の行人塚伝説によると、自ら食を断ち棺桶に入り南無阿弥陀仏と唱えつつ成仏した旅の僧、その結果大流行していた流行り病もぴたりと止んだそうです。村人は塚を建て松を植えたそうです。
さて、ここ行人橋です。 大雲寺の北東の高砂町五本辻を東に、すでに江木村小字は諏訪西、田村製菓、長井米穀店、そして問題の(大類里踏切 上越線NO.2)の看板を通過して東三条線へ、江木西と言う信号を渡る、ゴスベルチャーチと言う名のミニデイズニーランドの裏を通って長野堰にでる。そこに架かっているのが行人橋、そのたもとが諏訪神社。
神社の隅に・行人の霊・と刻まれた石塔を発見!
かって、松の大樹があり、長さ三間三尺幅五尺の橋があったそうです。

話は前後しましたが何で行人橋か、でした。土屋老平著の ゛江戸時代の長野堰分水堰略図゛の一番我峰堰から十九番の高根堰までの追っかけ、その十六番行人堰の確認目的の散歩でした。昭和52年発行の高崎の散歩道の写真には、石橋の横腹に右から行人堰と刻まれ、手前に堰止めの基礎石が写っています。 堰も変わり橋も変わりましたが、確かに存在しました。ただ堰には名前の表示がなく・・行人堰遠方制御盤LE9・と書かれたプレートで確認できました。が、写真の石橋はどこに行ったのでしょうか?さて
里道は橋を渡り右に折れ江木神社を経て大類へとむかいます。今回はここまで、おあとがよろしいようで・・・。  続きを読む

Posted by 捨蚕at 22:46
Comments(2)橋シリーズ

2009年12月25日

捨蚕の小発見シリーズ其の四飯塚城

高前バイパスを前橋にむかってドンキホーテを右折すぐの道をさらに右折し南進すると左手奥にホテル、その南にホテルの駐車場ぞいに東西に約50メートルの藪と言うか森と言うか、が連なっている。
この地こそが、めざす飯塚城址の北側土塁、゛行くぞセルバンチョフ!(ちなみに漸く買ったデジカメのことヤマデンで)
堀・土塁・堀の形式にて和田下之城と同じ永禄頃のもの、との事。
堀は埋まり土塁は崩れ雑木林に踏み込んだよう、欅の大樹が数本、冬ぞらに伸びていた。そこを抜けるとひらけて梅林、ここが本郭の東半分、西半分は常福寺である。
平らでもお寺の門は山の門、山の名前は長野山。

すぐ傍の夫婦薬師(別名は西の薬師、もちろん東の薬師も数百メートル先に存在します)の看板に大永三年長野業政公によって祀られた、とある。
長野さまさま西上州
そんなことより発見は?ありました小発見!寺の西に南北に側溝状の川。白の看板が無名のまま、この堀は内町堰です、旧飯塚城の西・南を流れています。
近くの方が建ててくれたのでしょうか・・感謝、感謝です。なぜなら現地でようやく飯塚城と言う文字と出会えたからです。
またもや小発見、意気揚々とセルバンチョフを伴に鼻歌まじりに帰途につく捨蚕であった。鼻歌はもちろん しあわせてなんだっけ です。では懲りずに一句・・古城址それがなんだと 冬木立・  続きを読む

Posted by 捨蚕at 17:41
Comments(5)飯塚村のこと

2009年12月24日

捨蚕の小発見シリーズ其の参

(一級河川指定区間起点)と書いた白杭を発見!場所は北高崎駅と迷道院さんの藤森稲荷との間、バス停の東脇です。
渋川街道をはさんで西側は商店街、東側は突然の川。私にとっては見慣れた景色でもよく考えると不思議です、
川の名前は一貫堀。
・井野川と長野堰との間の水を集めて、筑縄から大類まで流れ井野川に入る・
とあります。

長野堰の新井堰の一つ上流の金井堰から分水した流れがオランダコロッケの平井肉店の裏を通って北上し信越線を南下した流れと合流し一貫堀となり東に流れ始める起点とおもわれます。

いずれにしても一級河川指定区間起点の表示は刺激的でした。小発見にしてもいいかな?
          で、一句 
                             ”足ばやに流るる椿の ふたつみつ”
  

Posted by 捨蚕at 00:33
Comments(4)小発見シリーズ

2009年12月20日

捨蚕の小発見シリーズ其の弐

踏切にNOと名前と距離数の書いてある看板がある事を知っていましたか。 信越線を例にしますとNO4は三国街道踏切 、NO5は紡績踏切、NO6は西小学校前踏切、NO7は室田街道踏切、と言う具合になっています。
NO4 道路は渋川街道ですねNO5 かって紡績工場あり
NO6 西小開校以前は?
NO7 旧室田街道の事です 以上ほぼ納得できたのですが、NO8の南踏切これにはまいりました。が発見!小発見!
高崎市史の並榎城の多分、山崎一氏の地図に本郭の小字が南とある。つまり並榎城の本丸が信越線に分断されたその場所の小字名を付けたのです。よく考えれば当たり前ですね。ちなみに宿、山王前、追手、井戸、等の小字もあるようです。この踏切を過ぎると十二鉄橋を渡り豊岡です。以上お粗末な小発見でした。
  

Posted by 捨蚕at 23:49
Comments(5)踏切シリーズ

2009年12月20日

捨蚕の小発見シリーズ 其の壱 並榎橋

並榎橋を知ってますか。長野堰に架かっている橋です。西から稲荷橋、鳥羽橋、並榎橋、今はなき金井橋、そして大橋。北に信越線紡績踏み切り、東に旧佐藤学園、藤守湯、南に一中、神明宮、並榎山常仙寺、西に鳥羽橋、西小学校。そんな十字路に鬼城揮毫の並榎橋の文字、昭和6年6月竣工の白御影の標柱が二柱あります。あと二つがない!多分ひらがなで書かれた標柱の一対ありません。自然川がコンクリートになった時どこかに撤去されたのでしょうか。ところがところが、発見!小発見!なんと神明宮の石段の左右の灯籠台になっていました。・なみえはし・と確かに確認できました。で一句(冬帽子 鬼城の橋を渡りけり)。
次回は踏切名についての予定です。写真の掲載方法勉強中です。並榎橋に関する思い出コメント募集中。  

Posted by 捨蚕at 10:33
Comments(4)橋シリーズ