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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年12月26日

消えた大橋七号井と小山堰橋

 ここは並榎町と上並榎町の境あたりです。
  は・や・い・は・な・し・が、並中の東南の隅です。

 先日まで、あった大橋7号井は今ありません。   
  (4・5・6・8号井は健在です)

 いままで名無しの橋は、実は小山堰橋という名前でした。

  川は北部排水、信越線を潜り、トンネル状態で烏川に向っています。

  
 長い間、有ったものが無くなってしまった話と、
    長い間、無名だったものが有名となったという、 
        つまらない話でした。
          





  

Posted by 捨蚕at 14:30
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2010年12月22日

白鷺(しらさぎ)のいた橋

  ふと覗くと、汚れた川に白鷺がいました。
 
  あまり楽しそうでなく、多少苛立っている様にさえ見えました。

  餌を見つけられるのでしょうか。  

  私が子供の頃は庭先でみかけたものでしたが・・・。



  橋の名前は小塙橋、川の名前は天神川。

  思いのほか川は深く、クランク状に烏川へとながれていきます。



 気が付くと、電線の上にいました。 

  何を思っているのでしょうか・・薄ら寒い思いのする師走の昼のことでした。
  
タグ :天神川


Posted by 捨蚕at 14:46
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2010年10月30日

鉄橋(烏川橋梁)

    高崎・横川間にトンネルはありませんが、鉄橋は三つあるようです。

       (烏川に一つと碓氷川に二つだとおもいます)

     この鉄橋は通称十二鉄橋、正式名は多分、烏川橋梁。

       古いレンガの橋桁の両脇に新しいコンクリートの橋桁。

            遠くに妙義山と浅間山、浅間はよく見えませんが・・・。

  

Posted by 捨蚕at 18:32
Comments(2)橋シリーズ

2010年10月06日

めがね橋カレー

     めがね橋の正式名は碓氷第三橋梁だそうです。

      でもここはトロッコ列車の終点駅のとうげの湯です。

    
         カレーを食べることにしました。 

          めがね橋を汽車が走っています

             でもレトルトでした。


  
タグ :めがね橋


Posted by 捨蚕at 08:11
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2010年08月30日

たとえば内手橋の場合

橋の四隅の表示が、一つだけいつもと違います。 

ここは倉渕町岩氷あたり、なぜか松井田渋川線と地図にあります。

”内手橋、昭和35年3月完成、うちてはし、内手川”

 川の名前があります。道の名前でなく。

  松井田渋川線と表記すべきだとおもうのですが・・・。

             つまらない話で、恐縮です。





  

Posted by 捨蚕at 01:38
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2010年08月10日

見つけてしまった物から・・・(稲荷橋再考)

  ”県道高崎草津線”の文字をみつけてしまいました。
  だから2月17日のブログ”稲荷橋”を再考することにします。











































*右下の帽子つきの石柱に、”県道高崎草津線”を発見。

  
 かろうじて
 判読可能な七文字

 あとは全て 
 消滅状態です。

多分、明治時代のものです。 

 いろいろな名称があります。 
  経大前通り 
  高崎・榛名線 
  県道29号線 
  室田新道
 
 どう頭の中を整理したらいいのだろうか。 




*稲荷橋には、こんな状態の穴が四ヶ所ありました。どんなプレートが存在したのでしょうか。
 
県道には三種類の名前があるそうです。 
  ①整理番号 
  ②路線名 
  ③通称名(愛称)   
①群馬県道29号線  
1~100号までが主要地方道
②あら町下室田線  
合併前までは高崎榛名線 
③シンフォニーロード 
  渋川街道  
  経大通り  
  名前が変化していきます。 

終点は下室田町の室田交差点 
ここから国道406号線と合流します。  


Posted by 捨蚕at 21:13
Comments(2)橋シリーズ

2010年07月25日

せ・わはし











































 
 ここは山田町と末広町と
 
 高砂町の境界地点 


 ”う”が消えてしまっていて  

 ”せうわはし”こと”昭和橋”  

   昭和6年1月竣工  

そのころ川沿いにあったのは 
染物工場と米屋の水車 

 橋の模様も水車の模様かな  

懐かしいのは橋のたもとの 
 ”寺西精肉末広支店”  

Posted by 捨蚕at 17:13
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2010年06月09日

お地蔵さまのいる橋



はるな白川を渡るところに、
お地蔵さまがいました。

和田山へ行く道です。 


和田合戦に敗れた和田氏
鎌倉から、ここ白川郷和田山に移住しました。

閑喜二年(1230年)和田氏、赤坂に進出。

和田山から和田城(赤坂の荘)へ移りました。








 (お地蔵様の台座の
        道しるべ) 
     


        右 
         いかほ 
         みのは 

 左 
  志らいわ 
  しらかわ


     と読めました。










 

永禄九年(1566年)九月 
おびただしい数の甲軍が、 
白川を逆上っていきました。 
武田軍の箕輪城総攻撃開始でした。 




慶長三年(1598年)     
井伊直政は城を 
箕輪から高崎に移しました。 
神社も寺院も町並も 
ここを下って高崎へ往ってしまいました。 

もしかしたら、この橋のほとりの 
  お地蔵様 
そんな時間と、水の流れを、 
見続けてきたのでしょうか。  


Posted by 捨蚕at 09:21
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2010年04月22日

清水橋(シリーズ47)



橋の四隅に文字が立派に残っています。  
    
     ① 清水橋  

     ② 國道九号線          

     ③ 志みつはし  

     ④ 昭和四年一月成 

一貫堀を跨いでいます。 








この道は、前橋新道。

父が昔々、敷島球場にベーブ・ルイスを見に自転車で行った、舗装道路です。 

母が幼子を三人連れて、前橋の親戚の家に行くためにバスで通ったバス道です。 

私が小学生のとき、初めて友達と自転車で、あこがれの前橋児童遊園地に行った、記念すべき夢の道です。

あなたには、どんな思い出がありますか?  

Posted by 捨蚕at 11:31
Comments(5)橋シリーズ

2010年04月20日

鬼城の橋(シリーズ初回並榎橋・リメイク版)NO・45



















                     
                                                                              


 並榎橋(川の北は大橋町です)         なみえはし(神明宮にあります) 



大正3年8月    ”夏草に 這ひ上りたる捨蚕かな”  
昭和3年7月    並榎町288番地に鬼城庵なる。 
昭和6年6月    並榎橋起工・揮毫。
昭和13年9月   鬼城・死す。  


平成13年4月   ”癇(かん)の虫 喰らうてみたや 花見酒” 捨蚕の俳号で
            勝手にデビュー。 
平成21年12月20日 ”並榎橋”から、ぶら捨蚕は、スタートしました。
  

Posted by 捨蚕at 12:51
Comments(1)橋シリーズ

2010年03月28日

たかきょう橋(小発見シリーズ33)

   



















           (高京橋)                       (たかきょうばし)  


たかきょうばし、無残な姿ですが、橋の名前は判読できます。 
川も地下から出たり入ったりしてます。欄干は南側の半分だけの橋です。北側は暗渠の道です。
高崎と京ヶ島を結ぶ道です、今の高駒線が長野堰を渡る橋です。 

それにしても、末広町の六本辻、不思議な場所です、確かに末広がりに道は伸びていますが。 
六本のうち五本は判りますが、残りの一本が解りません。場所は末広郵便局の裏あたりです。
これが迷道院さんの(昨年9月の記事にある)國道九号線のことですね。 まさにお化け道です。

道のことは、いずれとして、今回は橋です。あくまでも橋に、こだわります。
橋とは分断された、こちら(此岸)とむこう(彼岸)を繋ぐもの、だから架け橋、夢の架け橋。
辻も橋も、特殊な場所、神仏の加護の必要な重要な地点でした。                                             

このシリーズでは長野堰に架かる橋を幾つか紹介しました.

上流から、名前だけ復唱してみましょう。  
稲荷橋、鳥羽橋、並榎橋、金井橋、大橋ときました。その後に弁天橋、薬師橋、そして高京橋です。  
そして、昭和橋、高砂橋、行人橋、江木橋と続きます。  幾つわかりますか。 


理解しがたいのが、二つあります。

弁天橋と薬師橋です。
長野堰土地改良区事務所のところが、弁天橋。その先長野堰土地改修碑のところが、薬師橋です。

弁天橋は橋がありません、由来もよくはわかりません。(飯玉神社の北の弁天様に合祀されたという噂は聞きましたが)
向う請地の柿木薬師にちなんだ薬師橋はりつぱに存在してます、ただプレートはありません。  

かってたくさんの土橋があって、染物屋さんと穀屋の水車があり、それぞれに、個性ある名前があったのでしょう。 
が、いまは、並榎、昭和、高砂、江木、みんな町名のまる投げですね。残念ですね。
 

プリーズ・カンバック・トウ・ミイ。      せめて、せめて、お名前だけでも。      

Posted by 捨蚕at 09:32
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2010年03月03日

R354 ・君代橋あたり(小発見シリーズ24)

高崎市の広報に国道354号伊勢崎街道が4車線になるという記事がありました。
 
開かずの踏切、の正式名はやはり伊勢崎街道踏切でした。
それより、以前より気になっていた国道354号線のことです。


写真は君が代橋の親柱、昭和六年の鉄骨製の橋の完成時のものとおもいます。 
君が代橋の名前は、明治十二年の明治天皇の北陸御巡幸の際に改造と伴に命名されました。 

ここが、国道354号線の起点です。1975年4月1日高崎市と館林市間の53.6KMの起点として制定されました。その後茨城県鉾田市まで延長されその距離は172.3KMとなっているそうです。

今の私にとっての関心事は、この君が代橋から西小入り口の交差点までの坂道の以前の風景が思い出せません。  
       (井上陽水の傘がない)です。

いくら思い出そうとしても霧に包まれていて、分かりません。 

ものの本によると、細い道があり、さびしい所で、古墳もあったと聞きます。R354を南北に横断する路地にかすかに、面影が残っていますが。 

ただ、一つだけ菜の花の咲く、高台を歩いた記憶があります。今の鬼城庵のあたりだつたとおもいます。小学校の三年生の頃同じクラスの女の子に行き会った、記憶があります。遠くまで見わたせる菜の花が咲く高台だつた気がします。 


五輪坂、望浅閣、水道みち、どんぐり山、鬼城庵。
たまにその当たりを、散歩すると、細い路地に魔界に迷い込んだような、小学生にもどったような、不思議な気持になります。  
もしかして、私にとって大切な場所なのでしょうね。  

Posted by 捨蚕at 11:38
Comments(9)橋シリーズ

2010年02月17日

稲荷橋(小発見シリーズ20)

長野堰にかかる橋シリーズの続編です。並榎橋、行人橋、鳥羽端、金井橋、大橋橋、と続きまして稲荷橋です。プレートはありません。やむなく交差点のプレートです。稲荷橋と読めるでしょうか。
ここから数十米北東に稲荷山古墳が、かってありました。 
それは当地区最大の古墳でした。高さ約9米、長さ122米の前方後円墳でした。昭和37年には姿を完全に消してしまいました。ただ護国寺の境内に、明治25年の発掘の際の石棺の蓋が、100年以上の間、今現在もあります。
(たびたび登場したこの周辺ですが、繰り返しになったら御勘弁ください) 
橋のたもとに昭和9年の長野堰改修紀工碑があります。大きな碑で全貌が判りませんが、堰の歴史と高崎藩主松平輝貞と倉賀野の松平勘十郎の事跡が称えられているとのことです。 
またここに高小田堰があります。江戸時代の分水堰図にある七番堰です。上並榎村への分水堰です。ちなみに十二番が大橋橋にある新井堰です。あいだに四つの堰があった訳ですが今現在のところ十一番の金井堰だけしか確認できません。

橋とは水路と道路が交差する地点です。だから長野堰の次は新室田街道の話です。  
明治十八年十月十五日、高崎~横川間が開通しました。飯塚停車場(大正八年八月一日に北高崎駅と改称)がその時点で大橋との境にできました。 
明治十八年の地図には、信越線はあるも新室田街道はありません。現在の北高崎から高経大前までの区間は明治二十年代になって開通した、新県道なのです。(そういえば祖父がよく室田新道といつてました。) 
これによって、本郷、室田方面への物流は飛躍的に便利になったと想像できます。 
何気なく通過していた、名前の表示もない橋にも、こんな歴史があつたんですね。        最後に群馬八幡駅が出来たのは大正十三年だそうです。  

Posted by 捨蚕at 04:00
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2010年02月12日

小発見シリーズ(19)おおはしはし 

長野堰のことを大川といいます。大川に架かる橋を大橋といいます。この橋が大橋の原点です、(分かり易い話ですね)。 
この”おおはしはし”は昭和43年12月の改修工事のときのプレートです。 

大橋町は明治35年、赤坂村字大橋、が西方の字鳥羽の一部と東方の字新井の一部を併合して成立しました。   
三国街道を本町一丁目から、四谷、相生、住吉と北上した町並みは、明治18年の信越線開通にともなう飯塚停車場(北高崎駅)の設立により、またたくまに駅から大橋まで商店街ができていったそうです。 

大橋町1番地は、この写真を撮影した場所、おおはしはしの北西地点です。 
領域は、東は旧電車道で昭和町と接し、南は長野堰で住吉町、台町、並榎町と、西はシリーズ(14)にある水道局大橋水源地と信越線を結ぶ線で並榎町と、北はほぼ信越線で飯塚町と。(一部、三国街道踏切から次の信号まで、なぜか北に突出しています) 

私は大橋町256番地の借家でうまれた。だから結婚するまでの本籍地は、大橋町でした。  (ちなみに、亡父は約50年近く並榎町に住みながら、死ぬまで大橋町の本籍でした)

明治30年代に作られた高崎唱歌に
      橋を渡れば大橋町     渋川行きの馬車鉄道  
      長野直江津方面に     飯塚駅のステーション     
  とあります。明治41年に鉄道馬車はチンチン電車にかわりました。   


また多分大橋町は、大橋の佐藤技芸、台町の高商、上和田の高中、昭和町の実践女子校、末広町の高崎女子校と、信越線で通学する学生の歩く町だつたのでしょう。  

とりとめのない、おおはしはし の話でした。  

Posted by 捨蚕at 21:40
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2010年01月24日

小発見シリーズ(13) 金井橋

金井橋て知ってますか。
住吉町の城峯神社もしくは、大橋の川端庚申、ここは大橋町と住吉町と台町の接する所。三国街道が長野堰を渡る手前を左に入った所。三本のもくの大木の下、正徳元年の庚申塔と城峯神がならんでいます。
またここは、遠堀の始発点の新井堰がある所、明治四十三年までの高崎水道貯水所、いわゆる水道水こし場。
前置きが長くなりましたが、今回は、お庚申さまの話でも新井堰の話でもありません。ここから約百米上流にある、金井堰と金井橋の話です。
金井堰のコンクリートの足元に柵に囲まれた金井橋と彫られた石柱がありました。
かって、そう五十年前、少し上に土橋がありました、もちろん長野堰も大川と呼ばれる自然川でした。コンクリートと金網が川と人間を隔離する以前の状態がありました。
土橋の上に立つと、北は佐藤技芸の前の道を横切って金華亭の横を通って北駅にでる道、
南の路地は高商に、西に大川を上ると並榎橋、東に大川を下るとお庚申様。
また、この川沿いは書道と英語とピアノと合唱の先生がいた文化的な地点?
でした。
金井橋より少し下流に、金井堰。
堰から別れた水路は更に二つに分かれ、右は染物工場
の板塀の中に消えていき、左は小川が北東に続きます。そこまでで、記憶は霧の中に、その先は思い出せません。
何度も夢に見る場所なのに、その小川添いの草さ原で幕が降りてしまいます。
金井橋、金井堰、庚申さま、新井堰、この辺りが、大川の匂いが、もしかしたら原風景。
  

Posted by 捨蚕at 22:20
Comments(1)橋シリーズ

2010年01月20日

小発見シリーズ(11) 鳥羽橋

鳥羽橋を知ってますか、西小地区の方は勿論承知のこととおもいますが、並榎橋と混同している人もいますので、ご説明をさせていただきます。
西小の校庭の南東の長野堰に架かっている橋です。ちなみにシリーズ其の壱の並榎橋の一つ上流の橋です。橋には通常漢字と平仮名の両方で表示されています。小学生だった私にはいつもと逆なのです、漢字が読めてひらがながよめません。( 初めての写真です!正に感動モノです)
父に万葉仮名という別のひらがなた゛と教えられました。
それから五十年たち調べてみました。登(と)の崩しと、者(は)の崩し字でした。小学校時代の七不思議の一つが今、解決しました。
ちなみに鳥羽は明治三十五年の地図では、信越線と長野堰の間、町名でいうと、並榎町と大橋町と台町と群馬郡六郷村上並榎に囲まれた地域を、字鳥羽とあります。
並榎町は明治31年に下並榎村が、台町は赤坂村字台原が、大橋町は赤坂村字大橋か゛明治35年にそれぞれ高崎になりました。
最後に字鳥羽の東に字新井と字金井があります。シリーズ其の弐に載せ忘れたNO2金井踏切は字金井としても、シリーズ其の参で紹介した長野堰の新井堰と金井堰はどうなんでしよう。
高崎旧事記によると、新井堰ノ名称ハ新井喜左衛門ノ開墾ニ出、因テ号。とあるように新井堰の後に字新井とおもわれます。
地理的に少し離れている字金井と金井堰との関係はあるのでしょうか。

話がややこしやになりましたので、今回はこれまでとします。是非とも鳥羽橋をお通りの節はお気に止めていただければ幸いです。
  

Posted by 捨蚕at 15:23
Comments(6)橋シリーズ

2009年12月29日

行人橋(小発見シリーズ其の五)

上並榎城の予定を変更してなぜか突然、行人橋です。゛ぎょうじん゛とは、修業僧のこと。上小塙の行人塚伝説によると、自ら食を断ち棺桶に入り南無阿弥陀仏と唱えつつ成仏した旅の僧、その結果大流行していた流行り病もぴたりと止んだそうです。村人は塚を建て松を植えたそうです。
さて、ここ行人橋です。 大雲寺の北東の高砂町五本辻を東に、すでに江木村小字は諏訪西、田村製菓、長井米穀店、そして問題の(大類里踏切 上越線NO.2)の看板を通過して東三条線へ、江木西と言う信号を渡る、ゴスベルチャーチと言う名のミニデイズニーランドの裏を通って長野堰にでる。そこに架かっているのが行人橋、そのたもとが諏訪神社。
神社の隅に・行人の霊・と刻まれた石塔を発見!
かって、松の大樹があり、長さ三間三尺幅五尺の橋があったそうです。

話は前後しましたが何で行人橋か、でした。土屋老平著の ゛江戸時代の長野堰分水堰略図゛の一番我峰堰から十九番の高根堰までの追っかけ、その十六番行人堰の確認目的の散歩でした。昭和52年発行の高崎の散歩道の写真には、石橋の横腹に右から行人堰と刻まれ、手前に堰止めの基礎石が写っています。 堰も変わり橋も変わりましたが、確かに存在しました。ただ堰には名前の表示がなく・・行人堰遠方制御盤LE9・と書かれたプレートで確認できました。が、写真の石橋はどこに行ったのでしょうか?さて
里道は橋を渡り右に折れ江木神社を経て大類へとむかいます。今回はここまで、おあとがよろしいようで・・・。  続きを読む

Posted by 捨蚕at 22:46
Comments(2)橋シリーズ

2009年12月20日

捨蚕の小発見シリーズ 其の壱 並榎橋

並榎橋を知ってますか。長野堰に架かっている橋です。西から稲荷橋、鳥羽橋、並榎橋、今はなき金井橋、そして大橋。北に信越線紡績踏み切り、東に旧佐藤学園、藤守湯、南に一中、神明宮、並榎山常仙寺、西に鳥羽橋、西小学校。そんな十字路に鬼城揮毫の並榎橋の文字、昭和6年6月竣工の白御影の標柱が二柱あります。あと二つがない!多分ひらがなで書かれた標柱の一対ありません。自然川がコンクリートになった時どこかに撤去されたのでしょうか。ところがところが、発見!小発見!なんと神明宮の石段の左右の灯籠台になっていました。・なみえはし・と確かに確認できました。で一句(冬帽子 鬼城の橋を渡りけり)。
次回は踏切名についての予定です。写真の掲載方法勉強中です。並榎橋に関する思い出コメント募集中。  

Posted by 捨蚕at 10:33
Comments(4)橋シリーズ