2010年02月13日

山名八幡物語(四)あやしの堂

上信日記という紀行日記があります。時は文政二年(1819年)四月二十四日、国学者清水浜臣は、伊香保を立つて水沢観音を参拝後、野田、金古、野良犬、観音寺、中泉、福島をへて三国街道を高崎へとむかいます。佐野で烏川を舟で渡り金井沢の碑をみます。さらに山の上の碑を見ようと、山名八幡宮を参拝します。  数行ばかり抜粋してみます。    

しらぬ山路にふみなんもやうなしとて山名八幡へまうつ。二天門、石坂、鐘楼、本社のうしろのかたにあやしの堂あり。内に石仏二体をおけり、いと古し。六七百年前のものうたかひなくみゆ。  


二天門とは仏教で仁王門、神道で随神門のことです。石坂は石段のことです。が、写真には鐘楼がありません、もっとも崖の上には、下の亭から奥宮へ行く途中に鐘楼があります。   本社の後ろに、あやしの堂らしきものはありません。

かって、木部さま(木部城主木部範虎のこと)があったと聞いています。今はコンクリートになっていますが、大雨による崖崩れで何度か土砂崩れがあったと、聞いています。本社の裏に今も埋もれているのでしょうか。

上信日記からこの境内図まで、約八十年の時間があります、どんな事が在ったのでしょうか。

さて清水浜臣のことです。参拝後に山の上の碑を訪ねて山に入りますが見つからず、その日は諦めて倉賀野にむかいます。そして上野三碑考で有名な木部白満(きべつくろまる)の営む藤浪屋に泊まります。そこで二つの碑の拓本を見せてもらっています。(金井沢の碑と山の上の碑)
翌二十五日に白満の案内で、山名八幡に寄らずに、山の上の碑を見てから、鏑川を舟で渡り帰路に着いています。

清水浜臣の見た、あやしの堂の石仏とは何だったのでしょうか。また、今現在何処にあるのでしょうか。 


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この記事へのコメント
「あやしの堂」とは、興味を惹かれるネーミングですね。
ぜひ再建したいものです。

木部白満は、文人墨客に会いたくて旅籠屋を開いたと言われていますね。
山名の出と聞いていますが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年02月14日 07:50
何かと縁のある山名八幡様です。

小学校1年の時の秋の遠足が上信電車に乗っての「山名八幡様」でした。
で、氏子っていうんでしょうか、カミサンがソレです(笑)。
子どもが小さい時は15日っていうと「八幡様」でしたね。

なんか、あの一帯、「トトロの森」のような気がしてならないのですが・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年02月14日 18:53
トトロの森、そうです、そうだったんですね。今気づきました、村の鎮守様ですね。宗教以前のもの、畏敬の念を自然に抱かせてしまうもの、素朴で、原初的で、そんなものがすきです。
理屈でなく、肩書きでなく、威圧的でなく、淡々とした、それでいて、忘れてられない原風景。
だから、好きです。そんなものたちが。
Posted by 捨蚕  at 2010年02月14日 22:31
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山名八幡物語(四)あやしの堂
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