上信日記という紀行日記があります。時は文政二年(1819年)四月二十四日、国学者清水浜臣は、伊香保を立つて水沢観音を参拝後、野田、金古、野良犬、観音寺、中泉、福島をへて三国街道を高崎へとむかいます。佐野で烏川を舟で渡り金井沢の碑をみます。さらに山の上の碑を見ようと、山名八幡宮を参拝します。 数行ばかり抜粋してみます。
しらぬ山路にふみなんもやうなしとて山名八幡へまうつ。二天門、石坂、鐘楼、本社のうしろのかたにあやしの堂あり。内に石仏二体をおけり、いと古し。六七百年前のものうたかひなくみゆ。
二天門とは仏教で仁王門、神道で随神門のことです。石坂は石段のことです。が、写真には鐘楼がありません、もっとも崖の上には、下の亭から奥宮へ行く途中に鐘楼があります。 本社の後ろに、あやしの堂らしきものはありません。
かって、木部さま(木部城主木部範虎のこと)があったと聞いています。今はコンクリートになっていますが、大雨による崖崩れで何度か土砂崩れがあったと、聞いています。本社の裏に今も埋もれているのでしょうか。
上信日記からこの境内図まで、約八十年の時間があります、どんな事が在ったのでしょうか。
さて清水浜臣のことです。参拝後に山の上の碑を訪ねて山に入りますが見つからず、その日は諦めて倉賀野にむかいます。そして上野三碑考で有名な木部白満(きべつくろまる)の営む藤浪屋に泊まります。そこで二つの碑の拓本を見せてもらっています。(金井沢の碑と山の上の碑)
翌二十五日に白満の案内で、山名八幡に寄らずに、山の上の碑を見てから、鏑川を舟で渡り帰路に着いています。
清水浜臣の見た、あやしの堂の石仏とは何だったのでしょうか。また、今現在何処にあるのでしょうか。
しらぬ山路にふみなんもやうなしとて山名八幡へまうつ。二天門、石坂、鐘楼、本社のうしろのかたにあやしの堂あり。内に石仏二体をおけり、いと古し。六七百年前のものうたかひなくみゆ。
二天門とは仏教で仁王門、神道で随神門のことです。石坂は石段のことです。が、写真には鐘楼がありません、もっとも崖の上には、下の亭から奥宮へ行く途中に鐘楼があります。 本社の後ろに、あやしの堂らしきものはありません。
かって、木部さま(木部城主木部範虎のこと)があったと聞いています。今はコンクリートになっていますが、大雨による崖崩れで何度か土砂崩れがあったと、聞いています。本社の裏に今も埋もれているのでしょうか。
上信日記からこの境内図まで、約八十年の時間があります、どんな事が在ったのでしょうか。
さて清水浜臣のことです。参拝後に山の上の碑を訪ねて山に入りますが見つからず、その日は諦めて倉賀野にむかいます。そして上野三碑考で有名な木部白満(きべつくろまる)の営む藤浪屋に泊まります。そこで二つの碑の拓本を見せてもらっています。(金井沢の碑と山の上の碑)
翌二十五日に白満の案内で、山名八幡に寄らずに、山の上の碑を見てから、鏑川を舟で渡り帰路に着いています。
清水浜臣の見た、あやしの堂の石仏とは何だったのでしょうか。また、今現在何処にあるのでしょうか。