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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年12月05日

確かこの辺りに・・・下鳥羽堰(十九の堰の物語そのⅩ)

   この10番堰は今は存在しませんが、50年前には確かに存在しました。

   確かに、この”おた”で私たち子供は水遊びに興じていました。  





  それは、この鳥羽橋よりも少し上流にあったはずです。



  それは、この魚仲別館よりも少し下流にあったはずです。



  今はその形跡さえありません。  
 
  おそらく、この辺りに”下鳥羽堰”は存在していたと思われます。

  私の不鮮明な記憶・・・ついこの間のこと・・・
          でも・・・・ 気付けばすでに半世紀もまえのこと・・。

       それでも、この大川に迫り出した満開の桜はそれは見事です。

  

Posted by 捨蚕at 20:24
Comments(5)十九の分水堰

2010年10月18日

お諏訪さまのある堰(十九の堰の物語Ⅸ)

15番の宿御堂堰と17番の佐野堰の間、今日は16番行人堰です。

行人とは修行をする人のことだそうです。

昔は、大きな松の樹があり行人塚があったそうです。
   (一路居士筆に行人塚の絵があります)

ここは高砂町口の木戸から江木を経由して京目に行く道でした。


真田安房守の勧進したという諏訪神社の端に、”行人之霊”と刻まれた石碑がありました。

古い書物に”諏訪神社ハ行人塚ニアリ”とあります。

   大川(長野堰)は一路南下して、江木橋、無縁堂へとむかいます。

  

Posted by 捨蚕at 11:11
Comments(0)十九の分水堰

2010年08月13日

北上する分水(十九の堰の物語Ⅷ)

 ここは第十一番目の堰、金井堰です。水路に囲まれた中州のようなところは、昔は秋池染物工場でした。 
 堰の足元に”金井橋”と彫られた石柱が檻に囲まれてあります。
 ここはかって、大橋町の”佐藤技芸”と台町の”高商”を繋ぐ最短距離の路地道でした。
 今は”大橋第三号橋”という名の橋が架かっています。 









































 ここで分水した水路の行き先が、子供のころから不思議でたまりませんでした。 

 なんとこの分水川は渋川街道の西を北上していました。
 オランダ・コロッケの裏を通過し、佐藤幼稚園の東を北上しています。


北上した水路は、南下した水路と合流して、
渋川街道を潜り一貫堀と名前をかえて、東にむけて流れはじめています。
この写真がかって紹介した、一貫堀の起点です。



 


  (蛇足です)
 起点があるから 
 終点があります。 

 起点が存在するためには 
 長い伏線が必要です  

 私達の誕生のためには 
 無数のご先祖さまの 
 存在が必要だったのです。 

 抹香くさい話になったと思ったら 
 今日からお盆でした。 
 ご先祖さまを大切に・・・。
   
タグ :一貫堀


Posted by 捨蚕at 07:36
Comments(0)十九の分水堰

2010年08月09日

お墓に囲まれた・堰でした(十九の堰の物語Ⅶ)

     ”江木橋湯”の無くなった江木橋をわたり、
 好物の(塩味の三角形をした豆のはいった餅)を売っている第一協和江木店の  脇を川沿いに下ると
 お墓に囲まれた堰があります。  
         その名は第十七番堰の佐野堰でした。










































左手に敬西寺とその墓地、右手前に本元寺と法輪寺の墓地。
右手川沿いに五万石騒動と天狗党の無念の碑、その先にある公民館。
 ここは刑場跡、無縁堂という名の火葬場跡あたり。

 
この堰で
分水した水は 
栄町・岩押ざかいを
一路南下し 
佐野方面へと流れていきます。

ふと、思いました。 
ここで流された様々な無念の涙は 
さらに下流に流れたのでしょうか 
それとも分水して佐野方面へ・・・ 
水面を見ながら  
そんな事を何故か  
考えている自分がいました・・。 
   


Posted by 捨蚕at 22:53
Comments(0)十九の分水堰

2010年08月03日

八寸堰と宿御堂堰(十九の堰の物語Ⅵ)


  十四番は八寸堰
  十五番は宿御堂堰


と江戸時代の長野堰分水堰略図にあります。 

不思議なことに十四番と十五番は同じところにあります。

  写真のように 
  上に八寸堰水門
  下に宿見堂堰です。

どう考えたらよいのでしょうか。








 名前の由来も不明です 


 でも良い名前ですね 

  八寸堰は八町堀に 

  宿見堂は月見堂に 

  少し強引ですが

  どこか似てませんか。 










 川の左に”いろり”

 川の右に”寺西の肉屋”

 風情のある場所ですね。


 並榎の魚仲別館あたりから 

 屋形舟で下れば 

 あっというまに、この辺り 

 そんな風景を夢想したりし て・・・。




 

 この堰の少し上流に 

 こんな小ぶりな水門を発見 

 もしかして、これが 

 八寸堰水門か・・。 

 3.03cmX8=24.24Ccm  

 それにしても三尺はありますね。 






         (これで十九堰のうちの七つが完了です)  

Posted by 捨蚕at 07:57
Comments(1)十九の分水堰

2010年07月25日

請地堰(十九の堰の物語Ⅴ)










































  十三番は請地堰、あの有名な新井堰の次の堰です。
  すぐ上流を、チンチン電車が大川を渉った場所でした。

 
ここから分水した水路は 
一路南下して 
北小方面に向かいます。  

ここは赤坂村の字請地(うけち) 

長野堰の北は向請地(むこううけち) 

向請地は昭和にはいって昭和町となりました。 

また請地町には長野堰土地改良区の事務所もあります。
  

Posted by 捨蚕at 22:00
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2010年05月21日

もしかしたら・高崎炎上 (十九の堰の物語Ⅳ)・新井堰

 




















高崎志に”用水掘ハ当住吉町ノ北西ノ背ヨリ支水ス、是ヲ新井堰ト呼ブ、スナワチ駅内ノ用水ノ源ナリ”とあります。   

元冶元年11月に天狗党が高崎に近付いた時も、明治2年10月の五万石騒動の時も、”新井堰の水の手を止めて城下に火を放つ”という、噂がまことしやかに流れたそうです。 
当時の人々にとっては、周知のことだったんですね

もしも、長岡藩や会津藩のように、高崎藩が薩長の官軍と戦ったとしたら。 

官軍はまず、新井堰を占拠し、城内への水の手を押さえたでしょう。
そして北西からの風を期して火を放したことでしょう。
さらに七口のうちの、中山道の常磐町口から、室田街道と三国街道からの隊は相生町口に、また一隊は江木新田口から怒涛のように攻め寄せたでしょう。

ここ新井堰は、まさに攻城の要所であり、最大の激戦が予想されます。 

敗れた藩主等は、西の丸あたりから烏川を下り、舟で江戸へむかつたかもしれませんね。

高崎城下が灰燼に帰さなかったことを、先人に感謝しなければとおもいます。 


  大きな樹が、長野堰を見下ろしています。 
  三本の大樹ですが、一つに見えたり、二つに見えたりします。 
  場所により一本に見えるこの巨大な樹は、
  堰のほとりで、様々な時の流れを見続けたことでしょう。 

              (十九の堰のうちの第十二番の堰です)  続きを読む


Posted by 捨蚕at 20:59
Comments(0)十九の分水堰

2010年05月18日

第一番堰・我峰(十九の堰の物語Ⅲ)

   





















水神様の足元から突然に、水がゴウゴウと流れ出していました。  

上流の烏川の取水口から”白川ノ水底埋樋ニテ通”と古い書物にもあります。  

まさにここが高崎を横断して流れる、長野堰の始発点でした。

水の流れは意外に早く、早足でないと追いつきません。 

高関の円形分水までどの位の時間でいくのでしょうか。

写真の滝状の地点が我峰堰と思われます。





  

Posted by 捨蚕at 16:32
Comments(0)十九の分水堰

2010年05月12日

高おた(十九の堰の物語Ⅱ)・稲荷橋あたり

 




















子供の頃、私は不幸にして”おた”という言葉を、口にした記憶はありません。 


ただ、高崎市街地周辺の子供にとって、”おた”と”やま”は身近な言葉だったようです。 

”おた”とは堰のこと、水遊びの場所、川遊びの場所、そして少し危険な場所。 

”やま”とは例えば、坊主やま、電車やま、ドングリやま、稲荷やま、虚空蔵やま、

棒を持って仲間が集まる場所、野遊びの場所、冒険心をそそる場所。 



”高おた”は十九堰の第七番目の高尾田堰ですが、写真では高小田堰です、

尾田も小田も、おたです。たぶん”落差のある堰”のことなのでしょう。

  

Posted by 捨蚕at 07:59
Comments(2)十九の分水堰

2010年05月09日

十九の堰の物語(Ⅰ)魚仲別館あたり

 
一番   我峰堰 
二番   上小塙堰 
三番   下小塙堰 
四番   下小塙新堰 
五番   浜尻堰 
六番   貝沢堰 
七番   高尾田堰 
八番   上野堰 
九番   上鳥羽堰 
十番   下鳥羽堰 
十一番  金井堰 
十二番  新井堰 
十三番  請地堰
十四番  八寸堰 
十五番  宿御堂堰 
十六番  行人塚堰 
十七番  佐野堰 
十八番  岩押堰 
十九番  高根堰  



土屋老平著の”江戸時代の長野堰分水堰略図”をもとに、列挙してみました。 
この写真の場所は、七番と十一番の間、多分第九番の上鳥羽堰と思われます。     


この少し下流(九番と十番の間)には、戦前に割烹料亭”魚仲別館”がありました。 
ホタル飛び交う大川(長野堰)添いに、丸窓のある萱葺き屋根の”あずまや”が幾軒もあつたそうです。  


かって、我峰の一番堰から岩押の”円形分水所”まで十九の堰がありました。  

今どうなっているのでしょうか、川沿いの散歩をしてみましょう。 
  
タグ :魚仲別館


Posted by 捨蚕at 21:38
Comments(3)十九の分水堰