グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年09月21日

安政七年正月十八日のこと

  安政七年正月十八日     
  江府御出立
  築地講武所より
  羽根田沖・亞舟ホーハタン迄
  我国御用舟にて御一同出帆
  亞墨利加国え 
  御用使航海御人数・・・・
  

幕末遣米使節目付・小栗豊後守忠順の従者である権田村名主・佐藤藤七(54歳)の渡海日記の冒頭の書き出し部分です。






正月十八日(晴れ)
小栗公は駿河台の自宅を午前10時に馬にて御出発されて、
正午に築地海軍場に到着なさました。 
他の方々も正午には集まられ、午後2時に小舟にお乗りになり川崎の沖にて、
アメリカの迎えの船・ポーハタン号に乗り移りなされました。
船長や仕官らが船の入り口に出迎え、
楽器を演奏し祝砲を連発いたしました。 
午後3時に蒸気を発しつつ横浜沖に到着したのは午後4時過ぎ、
ここにて停泊しました。





小栗豊後守(帰国後に上野介となります)の駿河台の自宅から、築地の講武所(海軍場)までを江戸古地図でたどってみました。 
だいたいですが、湯島聖堂から築地本願寺までのようです。
9名の従者を引き連れての約2時間の行程でした。



  

2010年09月14日

最後の一頁(小栗日記より)

これは小栗日記の最後の部分です。日付は慶応四年閏四月小二日酉とあります。 
この年は閏(うるう)月にあたりました。したがって、四月は二ヶ月ありました。
(正月は29日間、二月は30日間、三月は30日間、四月は29日間、閏四月は29日間)

上野介が刑死したのが四月六日の午前11時ですので、刑死の4日前が日記の最後の頁でした。

最後の頁にある、塚本真彦(小栗家用人)と小栗又一(養嗣子)も高崎に出向いたまま捕らえられ、翌七日城内にて斬首されました。


        ***     ***   ***   ***     

 江戸城西の丸・芙蓉の間で陸軍・勘定両奉行を罷免されたのは、慶応四年一 月十五日の昼過ぎでした。

 江戸駿河台から権田村の東善寺に着いたのは、慶応四年三月一日の夕七時でした。

 明治に改元されたのは慶応四年九月八日(1868・10・23)でした。

  



  


2010年09月05日

大音龍太郎・24歳です

この肖像写真と悪名が先行して、いまひとつ全貌がわからない初代岩鼻県知事です。

慶応四年六月十五日,岩鼻県の発足とともに軍監兼知県事に任命されています。 
明治と改元されたのは、慶応四年九月八日でした。
明治元年十二月七日に職を免じられ、二代目の小室信太夫が知県事となっています。 
  (在任期間は六ヶ月弱でした)

 

もう10年近く前に、渋川の旧商家の居間に、額に入つたこの写真を見ました。 
今思えば、このお宅が小栗日記の発見された、あの後藤宅でした。   


私がお会いした方は、官軍巡察使大音龍太郎に起用されて会計方面を掌握し、
上野介の刑死後、権田に出張し遺品中より日記と家計簿を持ち帰った後藤八郎右衛門のひ孫に当たる方でした。 





近江伊香郡木ノ本村大音出身の勤皇浪士。勤皇僧として知られた箕輪龍門寺の住職をたよって、一時潜居滞在していたといはれています。

”抵抗した場合は討ち果たし首級を総督府に届けて、首実検に入れるよう”という指示を無視し”抵抗しない小栗主従”を、 
即断首の判断をしたのは、この”首切り龍太郎”と言われているようです。 


      慶応四年閏四月六日朝、四ッ時半(午前11時)の断首でした。 
            (その二ヵ月後、岩鼻県知事に任命されました)  
      ちなみに、日記は四月二日で終わっています。  


2010年09月01日

一枚の葉書から

ここに、大正十五年二月九日付け消印の一枚の葉書の複写があります。
   差出人は倉田村権田・曹洞宗東慶寺小住・瀧澤精一。
    宛名は群馬郡上郊村井出・斎藤平次治郎。

 
(以下全文)
復啓 御手紙正に拝見仕り候 御名前及び事跡に就いては 郡誌上に於いて 
承知致し居り候 御申越の見は左記のとおりに御座候間 御承知相成度候。 

一、豊後守は渡米当時のものにて、帰朝后に上野介を任官 寺は最後の上野介と申し居り候。  

一、名乗りは 源忠順(みなもとのただまさ)。 

一、斬首は慶応四年四月六日 年齢は四十弐歳。



御手許に丹青の椿及び芍薬に就いては郡誌上にて拝見致し 御厚志の段 深く感鳴仕り候。 
何れ折りを見計ひ一度参上致度所存に御座候。 
先ずは失礼ながら右御答へまで。  
               二月九日                    敬白



この葉書は私の父が生前(多分10年位前)に、斉藤平次郎氏のお孫さんにあたる方からお借りしコピーしたもののようです。このお孫さんは古文書の会の仲間だったとと聞いています。 
内容は、齋藤さんの質問に対しての東慶寺の瀧澤さんの回答のようです。 

郡誌なるものを見てないので、詳しくは解りかねますが、文中の”椿及び芍薬”とは上野介の駿河台の屋敷にあったものとおもわれます。  

小栗公が斬首された後、倉賀野河岸に駿河台の屋敷を引き払う際に荷造りされた大量の植木類が舟便で届いたそうです。 
引き取り手のない荷を処理したのは、小栗家の知行地で倉賀野に近かった滝川村斉田の名主田口氏でした。 
建設中であった権田の観音山の自宅の庭に植えられる予定の、植木類は競売に付され四散したと聞きます。 

例えばその一部は群馬県一の大ソテツとして、引間の大山邸にあったと聞いています。 

上野介は植木いじりが唯一の趣味だったと、曾孫にあたる方が話していました。 

葉書の差出人と受取人は、どうも植木が取り持つ縁だったようです。 
                                         (続く)  


2010年06月24日

続・江戸切絵図(小栗上野介№3)

 ①奥さんの実家

 ここは神田明神下 
 播州一万石藩主 
 建部内匠頭の屋敷です。
 (たけべたくみのかみ)

 嘉永二年(1849年)
 建部家の息女”みち”と結婚

 神田明神下といえば 
 銭形平次がいたところ。

 江戸総鎮守の神田明神  
 そのお祭は、一名”天下祭”  

 文久元年九月十五日付の
 自筆の勘定帳によりますと、 
  ”神田祭礼見物ニ付
       座敷料・二分”  
 の出費がみられます。 
 




 ②世界一周の旅の出発地(軍艦操練所)

 安政七年(1860年)
 一月十八日 
 軍艦ポーハタン号に
 乗船し世界一周の旅へと
 出発しました。
 
 実は、このポーハタン号 
 嘉永七年(1854年)の
 ぺりーの再来航時の 
 七隻の軍艦のの一隻でした。 



  遣米使節団 
   正使・新見豊前守正興 
   副使・村垣淡路守範正 
   監察・小栗豊後守忠順
 



批准書の交換は、”日本安政七年申四月三日、千八百六十年五月二十二日”の日付で行われましたが、この日付は存在しない日付となりました。
安政七年三月三日の”桜田門外の変”により”安政”は”万延”と変っていました。


③自宅周辺(日下部数馬と中川飛騨守)
 
 前回忠順の父親である忠高が二軒隣の中川飛騨守宅から養子にきたとお話しました。 

 皮肉なことに、この忠高が家督を継いだあとに、小栗家十代目忠清に男子が誕生しました。

 忠清の次男として届けられたこの子は、日下家に婿養子に入り、日下数馬と名乗りました。 

 少し、見ずらいですが写真中央の小栗家の二軒左にその名があります。 

  


2010年06月21日

江戸切絵図(小栗上野介邸)

 
尾張屋清七板”江戸切絵図” 
 飯田町駿河台 小川町絵図  
 (嘉永二年初刷)     

 神田川の川岸から 
 駿河台下に向かう坂道 
 この道に面して 
 川岸から五軒目にある 
 武家屋敷が、小栗邸です。

 正保図(1644年刷)には 
 水道橋の”小栗坂”に 
 ありましたが、 

 文政十年(1827年) 
 二月十二日の早朝 
 産声をあげたのは 
 この小栗邸でした。 




名前が”豊後守”ですね、この絵図が出版された時は、まだ上野介ではありませんでした。 

安政六年(1859年)十一月二十一日
遣米使節団の”監察・目付”に伴い、従五位下諸太夫に任命され豊後守を拝命。 

文久二年(1862年)六月五日 
勘定奉行就任に伴い、ようやく”上野介”が誕生しました。


小栗忠順(ただまさ)これが上野介の本名です。父親は小栗忠高(ただたか)です。新潟奉行をした人です。 
この忠高さん、じつは二軒隣の家から養子に入っています。 
道をはさんで、”金五郎”の字があります。ここが朝比奈さんの家、その隣に中川飛騨守という名の旗本の家があります。 
ここの忠英さんの四男が、嫡男のいない小栗家の長女”くに”と一緒になりました。 

2500石どり直参旗本の小栗忠高、忠順の誕生の時29歳。母くに17歳でした。 
領地はこの時点で上野・下野・上総・下総にまたがる十三か村でした。 
                                        (未完)  


2010年06月06日

権田の東善寺

 


   米軍艦
   ポーハタン号

   遣米使節目付 
    安政七年(1860年)


   小栗上野介忠順
    慶応4年閏4月6日
        午前11時 
  烏川の水沼河原にて斬首 
      享年42歳    


      (トイレの窓です)





         曹洞宗 諏訪山 東善寺 高浜長信寺末
         開山は寛永十年(1633年) 存察大和尚 

 



    ”ふろしき観音”  

フロシキを背負った観音様

   (上野介像の裏です )