2010年02月12日

小発見シリーズ(19)おおはしはし 

長野堰のことを大川といいます。大川に架かる橋を大橋といいます。この橋が大橋の原点です、(分かり易い話ですね)。 
この”おおはしはし”は昭和43年12月の改修工事のときのプレートです。 

大橋町は明治35年、赤坂村字大橋、が西方の字鳥羽の一部と東方の字新井の一部を併合して成立しました。   
三国街道を本町一丁目から、四谷、相生、住吉と北上した町並みは、明治18年の信越線開通にともなう飯塚停車場(北高崎駅)の設立により、またたくまに駅から大橋まで商店街ができていったそうです。 

大橋町1番地は、この写真を撮影した場所、おおはしはしの北西地点です。 
領域は、東は旧電車道で昭和町と接し、南は長野堰で住吉町、台町、並榎町と、西はシリーズ(14)にある水道局大橋水源地と信越線を結ぶ線で並榎町と、北はほぼ信越線で飯塚町と。(一部、三国街道踏切から次の信号まで、なぜか北に突出しています) 

私は大橋町256番地の借家でうまれた。だから結婚するまでの本籍地は、大橋町でした。  (ちなみに、亡父は約50年近く並榎町に住みながら、死ぬまで大橋町の本籍でした)

明治30年代に作られた高崎唱歌に
      橋を渡れば大橋町     渋川行きの馬車鉄道  
      長野直江津方面に     飯塚駅のステーション     
  とあります。明治41年に鉄道馬車はチンチン電車にかわりました。   


また多分大橋町は、大橋の佐藤技芸、台町の高商、上和田の高中、昭和町の実践女子校、末広町の高崎女子校と、信越線で通学する学生の歩く町だつたのでしょう。  

とりとめのない、おおはしはし の話でした。


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