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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年03月31日

あすなろ のこと(小発見シリーズ36)

 
本町に名曲喫茶あすなろが、オープンしたのは、昭和32年7月でした。 
昭和38年7月、本町の道路拡張にともない閉店しました。

昭和40年六月、鞘町に開店しました。 
そして、昭和57年に閉店しました。

”優美かつ壮麗な本町店と、
 直線と無機質なコンクリートが創りだす
    知的かつ硬質な雰囲気の鞘町店”

私の知ってる、”あすなろ”はもちろん、この鞘町店です。 
それも、せいぜい5年間ぐらいのことだつたんですね。
学陽書房と天田歯科の間にある、三階の鉄筋コンクリートの建物でした。


時々、奥の鑑賞室でガラス越しに小さな庭を見ながら、
多分、バッハの無伴奏チェロで、コーヒー色した、マッチ箱に書かれた、”六月の詩”を 観ている自分の、無残なそれでいて高慢な姿を、想いだします。 

九蔵町が生んだ小説家、金井美恵子さんが、アルバイトを、少しの間してましたね。
もちろん、賞をとる前ですが、気難しい顔をしてバイトしてました。

ところで、この写真は”将軍の孫”の周りにある、石のベンチです。 
観ていたら、”あすなろ”のことを、急に思い出しました。
  

Posted by 捨蚕at 11:09
Comments(8)小発見シリーズ

2010年03月30日

和楽鉱泉(小発見シリーズ35)

高崎中央教室とかかれた看板のしたに、かすかに消し残りが和楽鉱泉とよめます。 

ここにかって、和楽湯がありました。  

旧市内に六つあつた銭湯も、江木橋湯が最近になくなり、今は五つでしょうか。 

追分湯・藤守湯・浅草湯・滝の湯・大和湯・ 

最後の二つは未確認です。 すいません。  

Posted by 捨蚕at 18:54
Comments(1)小発見シリーズ

2010年03月29日

将軍の孫(小発見シリーズ34)






















高崎駅から市役所に向かう左側のお堀端にあります。 
以前は、郵便局の北にありました。 
毎年、桜の季節に逢いにいきます。 

長崎の平和記念像の作者なんですね。
最初(1918年制作)に府中刑務所と学習院幼稚園に置いたそうです。 

実は、もう十年以上も前ですが、縁あって、千葉県の流山の諏訪神社にこの将軍の孫の像がありました。
何でも、ここの宮司さん、西望が大好きで、境内の一角に、彫刻の小道を創ってありました。 

確か当時で、98歳ぐらいの高齢の方でした。 
西望も23年前に104歳で死んでいます。 

毎年、桜の時期に逢いに行くのが、いつしか私の年中行事となりました。 

ところで、この孫の兄弟達、どのくらいいて、どこにいるのでしょうか。逢いたいです。  

Posted by 捨蚕at 00:49
Comments(9)小発見シリーズ

2010年03月28日

たかきょう橋(小発見シリーズ33)

   



















           (高京橋)                       (たかきょうばし)  


たかきょうばし、無残な姿ですが、橋の名前は判読できます。 
川も地下から出たり入ったりしてます。欄干は南側の半分だけの橋です。北側は暗渠の道です。
高崎と京ヶ島を結ぶ道です、今の高駒線が長野堰を渡る橋です。 

それにしても、末広町の六本辻、不思議な場所です、確かに末広がりに道は伸びていますが。 
六本のうち五本は判りますが、残りの一本が解りません。場所は末広郵便局の裏あたりです。
これが迷道院さんの(昨年9月の記事にある)國道九号線のことですね。 まさにお化け道です。

道のことは、いずれとして、今回は橋です。あくまでも橋に、こだわります。
橋とは分断された、こちら(此岸)とむこう(彼岸)を繋ぐもの、だから架け橋、夢の架け橋。
辻も橋も、特殊な場所、神仏の加護の必要な重要な地点でした。                                             

このシリーズでは長野堰に架かる橋を幾つか紹介しました.

上流から、名前だけ復唱してみましょう。  
稲荷橋、鳥羽橋、並榎橋、金井橋、大橋ときました。その後に弁天橋、薬師橋、そして高京橋です。  
そして、昭和橋、高砂橋、行人橋、江木橋と続きます。  幾つわかりますか。 


理解しがたいのが、二つあります。

弁天橋と薬師橋です。
長野堰土地改良区事務所のところが、弁天橋。その先長野堰土地改修碑のところが、薬師橋です。

弁天橋は橋がありません、由来もよくはわかりません。(飯玉神社の北の弁天様に合祀されたという噂は聞きましたが)
向う請地の柿木薬師にちなんだ薬師橋はりつぱに存在してます、ただプレートはありません。  

かってたくさんの土橋があって、染物屋さんと穀屋の水車があり、それぞれに、個性ある名前があったのでしょう。 
が、いまは、並榎、昭和、高砂、江木、みんな町名のまる投げですね。残念ですね。
 

プリーズ・カンバック・トウ・ミイ。      せめて、せめて、お名前だけでも。      

Posted by 捨蚕at 09:32
Comments(0)橋シリーズ

2010年03月26日

井伊直弼の手紙(小発見シリーズ32)


井伊掃部頭直弼、の直筆の書状です。 
桜田門外の変で有名な方ですね。

まず、タヌキの絵のような花押が目に入ります。 
その上に直弼の直筆のサインがあります、その上に、二月二十一日とあります。時は、嘉永六年(1853年)のことです。  
その右に、井掃部頭とあります。中国風に洒落て、伊を削って一字で井です。

掃部頭(かもんのかみ)とは、掃部寮の長官のこと、この寮は宮中の清掃や式場の設営を担当する部署でした。
でも、実際に宮中で掃除指揮した訳ではありません。従五位の官位です。

この年、嘉永六年六月三日にペリーの黒船が浦賀にやってきました。 

黒船来航から明治維新までを幕末と呼ぶそうです。
(まさに嵐のような幕末は15年間だけだつたんですね。)

直弼は嘉永三年(1850年)彦根藩第15代藩主になります。この時掃部頭となります。 
安政の大地震は、安政二年十月二日の夜の10時頃、M6・9です.
大老になるのは、安政五年(1857年)四月です。
126名の受刑者をだした、あの安政の大獄は安政五年~六年のことです。
桜田門外の変は、安政七年(1860年)三月三日です。  

直弼にとって、まさに嵐の前の静けさ、のような嘉永六年の春だったのでしょう。

最初の字は為ですが、その次は青陽(せいよう)、初春のことです。
(春は青、だから青春。秋は白、だから白秋。)

あて先は、安中市下後閑の、北野寺です、左最後の三文字です。 正確には威徳山吉祥院北野寺です。
北野寺とは、初代井伊直正からのお付き合いです。
なにせ、井伊直正の次二男の弁之助(井伊直孝、二代彦根城主)は、このお寺の薬師堂で育ったようなものです。 
この薬師堂は寛政六年(1794年)に直弼の実父である、十一代藩主井伊直中により再建されています。

この手紙は直弼から北野寺への、お礼状です。何を頂戴したかというと、三行目の四文字です。 
札守・巻数(さつしゅ・かんず)です。つまりお守りと、読経した度数を書いた短冊のことです。 

最後は、恐恐不備で結んでいます。 

たかが、157年前の手紙ですが。殆んど読めませんし、意味も解りませんでした。 
我々が学んだ、勉強とは、一体全体なんだったのでしょうか。 

最後に桜田門外の変は西暦で、1860.3.24日です。150年前の一昨日は、大雪だったんですね。 

またまた余談ですが、井伊大老の首は、その後行方不明だそうです。田島武夫さんの本に、羽鳥類三が合羽に包み水戸藩邸に持ち込み、そこから高崎の宿大類まで持ってきたかもしれない、という話を読んだ記憶があるのですが。
  


Posted by 捨蚕at 17:53
Comments(1)小発見シリーズ

2010年03月23日

お地蔵さまはクリスチャン?(小発見シリーズ31)

       






















どうみても、日本人らしくないし、おまけに十字架だし、変だよあのお地蔵さん。 

なんどか、このシリーズで紹介した、下並榎の常仙寺の山門のお地蔵さんです。 

皆さん、どうおもいますか?   皆さんの見解を募集中です。 

どしどしコメントください。  

Posted by 捨蚕at 20:36
Comments(5)下並榎シリーズ

2010年03月23日

高崎公園の瀧のまえで(小発見シリーズ30)

高崎公園の西端にある滝です。
噴水の水がこの滝から、下公園に落ちていたそうです。下公園はというと、いまは写真の通り、しかもだいぶ前から、国道17号線です。 

この場所の昭和初期の、祖父母と父が写った写真を見た記憶があります。高崎商業学校に入学したときの家族の記念写真です。碓氷郡の田舎小学校卒の自慢の一人息子の晴れ姿です。 この滝が写っていました、確かに。 

 父から聞いた記憶では、この滝は有花園の亀田さんの作とのことです。 
本で確認したところ、小沢の別荘、高崎神社の岩トンネル、高崎公園の爆布、本郷の細谷医院の庭園を手がけたとあります。 
(もしかして、望浅閣もとおもいましたが、残念です)

さて、この場所です。古くは、この烏川の崖上は榎森と呼ばれていました。この地に和田義信は和田城を築きました。
正長元年(1428年)のことでした。 その後江戸時代、城主安藤重信により、川島山良善寺という寺の境内となりました。そのときに、滝のすぐ目の前にある、天然記念物の”はくもくれん”が植えられました。元和五年(1619年)のことでした。 
この良善寺、元禄八年(1695年)に安藤氏の移封とともに備中松山に行ってしまいます。  

 実は縁ありまして、安藤氏の末裔のお殿様(香道、茶道のお家元)に、お会いしたことがあります。流れるような身のこなしと、古典の百科辞典のような知識、優雅でいて緻密な話術、恐れ入りました。
ただ薩長の御一新に対してはいまだに、御不満の様子でした。  


話が横道にずれましたが、その後大河内家が城主になると、頼政神社の別当寺として、大染寺が建立されました。 
この寺も、明治七年には廃寺となり、熊谷の養平寺に併合されました。   
寺の本堂は下大類の福田寺に25円で売却されたそうです。
また歴代住職の墓は隠居庵のあつた、浜尻の諏訪神社古墳の南面に並べられました。 


大染寺の跡地は高崎公園として明治九年に開園されました。 
池と噴水が出来たのは、明治四十三年だそうです。   


満開の白木蓮のまえに立つて、想います。 あと十数年のちに、写真に納まる息子夫婦と孫の姿を。  
この場所で、 在りし日の祖父母と父のように・・・・・・。百年前の再現を・・・・・・。  

Posted by 捨蚕at 07:43
Comments(4)小発見シリーズ

2010年03月20日

上信電氣鐵道(小発見シリーズ29)


当たり前のことですが、上信とは、電気鉄道だったんですね。  

大正十年八月二十五日の臨時株主総会で、上野鉄道株式会社は上信電気鉄道株式会社に、社名変更しました。 
社長は山田昌吉氏です。(明治9年1月16日誕生〜昭和19年五月十八日午後11時15分永眠) 


まず上信です。上信とは上野と信濃、上州と信州、 いずれにしても、下仁田から峠を越えて小海線と接続する予定でした。 
当時、佐久鉄道と呼ばれた小海線は、小諸から小海までの開通でした。(小諸〜小淵沢間78・9kmのうちの48・3km)
下仁田から南牧方面へ磐戸、余地峠をへて小海の五つ小諸よりの駅、羽黒下駅までの計画でした。


さて、電気のほうです。電化工事は大正12年〜13年にかけて主に工事が行われました。その結果、全長33・7kmを2時間15分かかった走行時間は1時間12分と約半分に短縮されました。 

大正13年の電化開業当時、駅は13駅ありました。 
ここに上信電鉄沿線名所案内絵図があります。
絵図にそってゼロ番線を出発しましょう。 

始発駅の高崎には頼政公園、歩兵十五連隊、清水寺、小林山があります。烏川を渡ると山名です。 山名八幡、金井沢の碑、
山の上の碑、があります。10月15日の山名八幡宮の秋の祭礼には、山名駅の乗降客数は1万人を越えたそうです。

次は馬庭停留場、無人のため駅とは呼ばなかったそうです。鏑川の鉄橋を渡ると右に多胡碑をみつつ吉井です。次は新屋停留場、鏑川鮎簗、変電所、とあり次は福島、笹の森稲荷がみえます。ここでまた鏑川を渡り、富岡です。 

原製糸所とあります、次の七日市停留場には蛇宮神社、一ノ宮には、貫前神社、北向観音、宇田観音。
神農原停留場には宮崎梅林、南蛇井すぎて、千平。不通(とうらず)橋に箱淵峡、トンネル潜って、下仁田駅に到着です。

13の駅がありましたか、正確には8つの駅と5つの無人の停留場ですが。 


終着駅の下仁田駅には、赤く錆びた鉄路が捲くれ上がった状態で終わりになつています。  
山田社長の夢の中断のように、青春の夢の残骸のように宙に捲くれて、終止符を打つていました。  


話は少々ずれますが、
先日高崎市議会で、ある議員が例えば上信電鉄を市役所まで敷いて来て、市役所駅を創る話をしてました。 
地下鉄にして国立病院前とでも名付けるたら、お年寄りも便利ですね、面白い発想ですね。 

鶴見町の上信本社前を通ったら、是非とも、気と鉄の旧漢字に注意して見ていただければ幸いです。  

話が長くなりました、とりあえず今日はここまで、終点です。
                   上信電鉄百年誌を参考にさせていただきました。


  

Posted by 捨蚕at 18:19
Comments(0)小発見シリーズ

2010年03月17日

倉賀野城落城(小発見シリーズ 28)

  






















上毛新聞連載中の真田三代です(火坂雅志・作  安芸良・画)


武田軍が倉賀野城を攻め囲んでいます。
烏川を挟んで武田信玄が倉賀野城主倉賀野直行と対峙してます。

一時廃城になっていた木部城を、甘利昌忠が再興し、倉賀野城攻撃の拠点とした武田軍は、さらに前線基地を、
木部北城(いまの阿久津の玄頂寺周辺)に置きました。

小説によると時は、永禄八年の六月のことです。
和田氏の離反で箕輪城と分断された倉賀野城。
真田昌幸の助言で、倉賀野十六騎と呼ばれた武将のうち五名の内応で、落城します。
倉賀野氏は、烏川から舟で下流に逃れ、上杉を頼り厩橋経由にて、越後へと逃れます。



挿し絵がいいですね、彼岸の倉賀野といい、信玄の大きな背中といい、小説の内容を挿し絵が引き立てますね。
共栄橋沿いの堤防の上で、信玄と昌幸が、川向こうの雁がね団地の方を見ている姿ですね。 

確か,阿久津町にも、お諏訪様がありました。
信玄は信州の諏訪神社から四十八の宝石(たからいし)を持って上州に進軍して来たといわれてます。
宝石のうえに神社をつぎつぎと建立していきました。     
つまり、縄張りの目印ですね。ただ記録にあるのは、新町と江木のお諏訪様だけですが。

もちろん出陣のときも、上諏訪神社や新海神社(佐久郡)に箕輪城の落城の願文を掲げています。


永禄八年六月二十五日、倉賀野城は落城しました。

この落城で、箕輪城は完全に孤立してしまいました。 

その箕輪城の落j城は、翌年永禄九年九月二十九日のことでした。
  
ここで提案です、阿久津河岸に信玄の腰掛石を置きませんか。  

2010年03月14日

弁天様のいた学校(小発見シリーズ27)

どこだか判りますか、そうですね、北小学校の校庭です。
二宮金次郎さんは、写っていませんが、間違いなく北小学校です。

北小学校は明治35年4月の開校です。

が、その以前は、弁天堂がありました。
周囲に池があり、弁天堂のうしろに榎がありました。

川野辺寛の高崎志に、本町の北の田んぼの中に、九尺二間の藁葺きの弁天堂がある、とあります。
普門寺の持分のにて、本尊の弁財天は長さ五寸の泥塑であるといいます。
堂の西に天満宮。東に念仏堂があったといいます。   


普門寺は明治5年11月に、廃寺になった寺です。新義真言宗で玉田寺を本寺としてました。 
場所は本町三丁目の北東の角、椿町入り口に南向きにあったそうです。 
南に中山道、北は遠堀で天正三年(1575年)覚心という僧の開山、建立といいます。  


明治初年になって書かれた更正高崎旧事記には、境内30坪、方一間の堂、玉田寺持、とあります。 
また明治十五年三月に中紺屋町の玉田寺に移すともあります。
天満宮も念仏堂も、明治十五年時点には、すでに存在していません。 


明治10年に成田山光徳寺が、赤坂村字町裏(本町の裏)に開れました。
したがつて五年間は、成田山と榎弁天は目と鼻のさきにあったわけです。 

北小の校庭には、弁天様がいたんですね。

今も、立派な弁天榎を金次郎さんが横目で、みています。

ちなみに、請地町と成田町ができたのは、北小学校と同じ明治35年でした。 
  

Posted by 捨蚕at 23:48
Comments(8)小発見シリーズ

2010年03月13日

小便小僧(俳句のすすめ 七 )

 
 ” なごり雪 小便小僧の 細き指 ”  
                                                                                                                                        捨蚕(すてご)


いまあらためて気ずいたんですが、小便小僧は、左ききなんですね。 


この小僧、我が家の玄関先にすでに三十年ちかくも住んでいます。  


雪の日に、帽子やマフラーをさせて子供(二人の男の子)たちとあそんだ記憶があります。 


この小僧、じつは、下仁田産です。 踏み切り近くの石材店の片隅にありました。

そう矢嶋石材店でした、いま思い出しました。 

いつもニコニコしているおやじさんと奥さん、お茶をご馳走になりながら、子供に買うことになりました。 


”この小僧の片割れが、富岡の常盤館にいるんだよ。
  下仁田の常盤荘のお兄さんちだよ、
  ふたつのうち、ひとつだけ納めたんだよ。 安くするから、子供に持っていきない。”  


その数年後、たまたま友達のご祝儀の披露宴が常盤館でありました。 
和風庭園の片隅に双子の片割れ小僧を、確かに確認しました。  


二人の男の子も、三十歳を過ぎ、それぞれ子持になりました。 
それも同じ年の、男の子です。 せいちやんとこうちゃんです。


まだオムツですが、やがて小便小僧と三人で立小便をすることでしょう。 
もしかしたら、雪の中へ六人で、、、、。楽しみです。  

Posted by 捨蚕at 17:25
Comments(2)俳句のすすめ

2010年03月11日

鼠屋敷てなんですか(小発見シリーズ26)

 飯塚町字鼠屋敷(ねずみやしき)と言う所です。 
何故にその名前になったかはわかりません。  

長泉寺の南、高崎貨物の敷地に一部重なります。  
ここに方形の館があったと、高崎市史にあります。時は十六世紀、70m四方の複郭の館だったそうです。   


実は、これとまったく同じの館が、道をはさんで、北にありました。今は飯玉山最勝院長泉寺です。 
下横町の興禅寺の末寺で、慶長六年(1601年)の開山です。 
それ以前には、十一面観音堂があったそうです。  


箕輪城の落城は永禄六年(1566年)と云われています。 
それ以前に、上飯塚城(常福寺・常黙庵跡)の南に、ほぼ一直線に、二つの館があった訳です。 
東北に本郭備えた二つの館でした。  

鼠屋敷の西隅に、長泉寺の墓地が高崎貨物の敷地に囲まれてありました。 
雪化粧をして、ひつそりと、鼠屋敷跡の西北にありました。 

それにしても、気になる名前の、ネズミ屋敷でした。
  

Posted by 捨蚕at 11:20
Comments(1)飯塚村のこと

2010年03月08日

望浅閣のこと(小発見シリーズ25)

   





















”ぼうせんかく ”  なつかしい響きの、この場所のお話です。 
高級な住宅地の代名詞と、おおよその場所として以外、あまり考えたことはなかった望浅閣でした。 
高崎の散歩道に”望浅閣とは、室田街道から南へ分かれて、中山道の君が代橋に通じる野中の途中、五輪坂の上に建てられた、歌川町の小島家の別荘である。その名の通り、烏川を眼前にして浅間山を望む景勝の地であった。”  

ドングリを拾いにいった思い出はあるものの、知識は上記の数行だけでした。 
ひよんなことから、もと料亭、望浅閣の経営者の息子さんに当たる方から話を聞くことができました。 

昭和初期に小島家の別荘を買いうけて、日本庭園のなかに十三の独立した家屋のある料亭、を開業したそうです。 
高崎の街中で、魚屋さんを手広くしていたそうですが、その店を親戚に譲っての開業だったそうです。 

貨車で軽井沢から浅間石を大量に運び入れ、積上げた滝が二つあつたそうです。レンガ積みの温室もあったといいます。
すぐ前を烏川が流れ、屋形舟を浮かべたそうです。 沢蟹もたくさん捕れたそうです。 

昭和9年11月15日付の群馬県知事からの感謝状を拝見しました、11月13日の陸軍特別大演習の際、高級将校が多数宿泊したそうです。たしか牛島中将という有名な人も泊まったとのことです。 
 

望浅閣の目と鼻の先に昭和3年に村上鬼城が移り住んでいます。

           浅間山の 煙出てみよ けさの秋  
もしかして、望浅閣の名前も、鬼城さんがとおもいましたが、確認できませんでした。 

高崎市街地から旧室田街道を、旦那衆を乗せたハイヤーや、芸者衆を乗せた人力車が、土埃をたてて、並榎にむかったことでしょう。  

その後、戦局の悪化に伴い、賑わいは薄れ、ふたたび小島鉄工のものになったそうです。
戦後、護念寺の所有に、そのほとんどが成りましたが、庭にその面影があちこちと、残っているとのことです。
           望浅の 館は五輪の 坂の上  

Posted by 捨蚕at 17:28
Comments(5)下並榎シリーズ

2010年03月04日

番外編・ポイント爺さん奮闘記

 





















20100119  13:36     お財布ケイタイをヤマダで買う。12.800円。 
                    ドコモポイント使用のため95円現金支払。

20100128  12:22     ほっとポイントくらぶに、入会を決意。空メールを
                    送るが、返信なし。文句たらたらも、断念。  

20100206  12:53     息子に話すと、迷惑メールの関係とか、これで
                    やってみて、 すると登録ok. 
          13:00     会員登録に成功。 bookmarkに登録。  

20100218  12:18     嫌がる妻を押し切って、弁当を買う。店員に教わ
                    って、初回5ポイント獲得。 

20100225  10:39     メールが配信される、今日から3日間限定でポイ
                    ント3倍とのこと。今日も、ほか弁。計8ポイント。

20100303  11:02     ポイントを得るために、弁当を買う必要がない                                                            
                    こと
                    に気付く、買うようなふりをして、1ポイント。 

20100304  11:22     おもむろに、店頭で1ポイント獲得、計10ポイン
                    ト。勇んで、店員に言いました、290円ののり弁
                    四個ください。 



       かくして、150円をゲツト。意気揚々と家路に着く捨蚕であった。        
          ああ、しんど。              

Posted by 捨蚕at 20:30
Comments(1)小発見シリーズ

2010年03月03日

R354 ・君代橋あたり(小発見シリーズ24)

高崎市の広報に国道354号伊勢崎街道が4車線になるという記事がありました。
 
開かずの踏切、の正式名はやはり伊勢崎街道踏切でした。
それより、以前より気になっていた国道354号線のことです。


写真は君が代橋の親柱、昭和六年の鉄骨製の橋の完成時のものとおもいます。 
君が代橋の名前は、明治十二年の明治天皇の北陸御巡幸の際に改造と伴に命名されました。 

ここが、国道354号線の起点です。1975年4月1日高崎市と館林市間の53.6KMの起点として制定されました。その後茨城県鉾田市まで延長されその距離は172.3KMとなっているそうです。

今の私にとっての関心事は、この君が代橋から西小入り口の交差点までの坂道の以前の風景が思い出せません。  
       (井上陽水の傘がない)です。

いくら思い出そうとしても霧に包まれていて、分かりません。 

ものの本によると、細い道があり、さびしい所で、古墳もあったと聞きます。R354を南北に横断する路地にかすかに、面影が残っていますが。 

ただ、一つだけ菜の花の咲く、高台を歩いた記憶があります。今の鬼城庵のあたりだつたとおもいます。小学校の三年生の頃同じクラスの女の子に行き会った、記憶があります。遠くまで見わたせる菜の花が咲く高台だつた気がします。 


五輪坂、望浅閣、水道みち、どんぐり山、鬼城庵。
たまにその当たりを、散歩すると、細い路地に魔界に迷い込んだような、小学生にもどったような、不思議な気持になります。  
もしかして、私にとって大切な場所なのでしょうね。  

Posted by 捨蚕at 11:38
Comments(9)橋シリーズ

2010年03月01日

本町一丁目の角(小発見シリーズ23)

>
本町一丁目の北東の角にある四角いマンホールです。
正確にいうと角から三軒目の四方田商店の北隣に路地らしきものが東へと走っています。ここが遠堀跡です。その前にマンホールがあります。見たことありますか。 まだでしたら是非とも、ご覧になってください。

遠堀の話は別の機会として、今日は中山道と三国街道が交差する北東の角の話です。
この角、今は不動産会社のビルがあります。
昭和47年には明治45年創立の中林精良堂とあります。
昭和36年度版の住宅地図には、群馬銀行高崎北支店があります。その北が中林精良堂文具店、東隣に百足屋石油店とあります。
群馬銀行高崎北支店はその後、向かい側の現在地に移りました。戦前は群馬大同銀行でした。

開化高崎控帳に戦前のこの角の事が載っていますので、引用させてもらいます。 
  
  本町一丁目の四つ角には群馬大同銀行北支店があり、一軒おいて東に大き   な総二階の蔵造りと、左隣に棟間があり、懸崖の松が、道路までのびていた。これが関東一円に砂糖問屋として知られた百足屋である。 

百足屋(むかでや)さん、どこかで聞いた名前ですね。一月の記事、続飯塚城の千部供養塔にありましたね。時は文政十年(1828年)、尼寺の常黙庵にかけつけた本町の旦那衆のなかにいましたね。(1月23日小発見の12参照)

さてここに、文久二年(1862年)の高崎宿地図に間口六間の小林弥七持ちが角にあり、三軒東に間口三間の小林弥七がみられます。間口三間(5.46m)が普通の間口です。  ここは百足屋さんの土地でした。
道を挟んで北西角は滝川喜平、”左中山道右三国道”、で有名な薬屋の大津屋さんです。 

元禄十六年には、蕎麦切屋 ・伝右衛門とあります。旅篭屋、蕎麦屋、清酒屋が並び、まさに旅人のための本町でした。

以上、高崎の住人のだれもが知っている場所、本町一丁目北東角の約300年の歴史でした。   続きを読む

Posted by 捨蚕at 10:24
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