2010年02月17日

稲荷橋(小発見シリーズ20)

長野堰にかかる橋シリーズの続編です。並榎橋、行人橋、鳥羽端、金井橋、大橋橋、と続きまして稲荷橋です。プレートはありません。やむなく交差点のプレートです。稲荷橋と読めるでしょうか。
ここから数十米北東に稲荷山古墳が、かってありました。 
それは当地区最大の古墳でした。高さ約9米、長さ122米の前方後円墳でした。昭和37年には姿を完全に消してしまいました。ただ護国寺の境内に、明治25年の発掘の際の石棺の蓋が、100年以上の間、今現在もあります。
(たびたび登場したこの周辺ですが、繰り返しになったら御勘弁ください) 
橋のたもとに昭和9年の長野堰改修紀工碑があります。大きな碑で全貌が判りませんが、堰の歴史と高崎藩主松平輝貞と倉賀野の松平勘十郎の事跡が称えられているとのことです。 
またここに高小田堰があります。江戸時代の分水堰図にある七番堰です。上並榎村への分水堰です。ちなみに十二番が大橋橋にある新井堰です。あいだに四つの堰があった訳ですが今現在のところ十一番の金井堰だけしか確認できません。

橋とは水路と道路が交差する地点です。だから長野堰の次は新室田街道の話です。  
明治十八年十月十五日、高崎~横川間が開通しました。飯塚停車場(大正八年八月一日に北高崎駅と改称)がその時点で大橋との境にできました。 
明治十八年の地図には、信越線はあるも新室田街道はありません。現在の北高崎から高経大前までの区間は明治二十年代になって開通した、新県道なのです。(そういえば祖父がよく室田新道といつてました。) 
これによって、本郷、室田方面への物流は飛躍的に便利になったと想像できます。 
何気なく通過していた、名前の表示もない橋にも、こんな歴史があつたんですね。        最後に群馬八幡駅が出来たのは大正十三年だそうです。


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