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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年07月14日

武田家滅亡

 








































選挙速報ではありません、戦国速報です。 
今日(7月12日)の上毛新聞によると、武田が滅亡しました(大敗北どころではありません) 
なぜか総天然色です(本日限定のようです、翌日は白黒でした) 

信長が馬に乗っています。 
真田昌幸が信長に送りました。

武田家の滅亡により上野国は信長配下の滝川一益の支配となりました。 
ですが上信にまたがる北辺は、元武田家臣の真田昌幸の支配下でした。 
すなわち、沼田城、岩櫃城、砥石城のラインです。 

葦毛の駿馬に跨りご満悦の信長も、 
本能寺まで、あと2ヶ月あまりの命でした。  


2010年03月17日

倉賀野城落城(小発見シリーズ 28)

  






















上毛新聞連載中の真田三代です(火坂雅志・作  安芸良・画)


武田軍が倉賀野城を攻め囲んでいます。
烏川を挟んで武田信玄が倉賀野城主倉賀野直行と対峙してます。

一時廃城になっていた木部城を、甘利昌忠が再興し、倉賀野城攻撃の拠点とした武田軍は、さらに前線基地を、
木部北城(いまの阿久津の玄頂寺周辺)に置きました。

小説によると時は、永禄八年の六月のことです。
和田氏の離反で箕輪城と分断された倉賀野城。
真田昌幸の助言で、倉賀野十六騎と呼ばれた武将のうち五名の内応で、落城します。
倉賀野氏は、烏川から舟で下流に逃れ、上杉を頼り厩橋経由にて、越後へと逃れます。



挿し絵がいいですね、彼岸の倉賀野といい、信玄の大きな背中といい、小説の内容を挿し絵が引き立てますね。
共栄橋沿いの堤防の上で、信玄と昌幸が、川向こうの雁がね団地の方を見ている姿ですね。 

確か,阿久津町にも、お諏訪様がありました。
信玄は信州の諏訪神社から四十八の宝石(たからいし)を持って上州に進軍して来たといわれてます。
宝石のうえに神社をつぎつぎと建立していきました。     
つまり、縄張りの目印ですね。ただ記録にあるのは、新町と江木のお諏訪様だけですが。

もちろん出陣のときも、上諏訪神社や新海神社(佐久郡)に箕輪城の落城の願文を掲げています。


永禄八年六月二十五日、倉賀野城は落城しました。

この落城で、箕輪城は完全に孤立してしまいました。 

その箕輪城の落j城は、翌年永禄九年九月二十九日のことでした。
  
ここで提案です、阿久津河岸に信玄の腰掛石を置きませんか。