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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2011年04月15日

春の祭

      4月15日は昔から春の祭礼の日です。  
         今年はまさに、満開です。



     昔から、春は御神楽、秋は獅子舞です。


     安中から毎年やって来る刃物屋さん、
             一品ずつ毎年買うのが楽しみです。


     諸葛菜の咲く鎌倉街道と言われている、本殿の裏です。



    フリーマーケットです、子供服で一つ50円です。
    売上代金は義援金となります。
    あれ! どこかで見た顔です。
    明後日は、市議会選の告示日ですね。
    八幡様の御前にて出陣式、午前10時からです。

  

Posted by 捨蚕at 15:43
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2011年01月14日

元禄の手水舎(ちょうずや)

  三行にわたって文字が刻まれています。

  (右)   施主   山名邑
  (央)   奉寄進  洗漱盤  
  (左)   元禄十三庚辰歳霜月吉日

 邑は村、夏目漱石の漱(そそぐ)、霜月とは陰暦の十一月のこと。

 元禄十三年は、1700年ですから今から310年前ですね。  



 昭和50年に800年祭をおこないました。
(新田義重の子山名義範が山名に居住し社殿を造営して800年)  
  

 800年祭を記念した、手水舎天井板の”鳴き龍”です。

 作者は、あの吉永得三さん。

 この年の前年11月に先先代の和海・宮司が亡くなりました。
 
 またこの卯年11月は、現・若宮司が誕生した年でもありました。


  

Posted by 捨蚕at 17:20
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2011年01月06日

天明の常夜燈

  石段の両脇に阿久津村が寄進した常夜灯があります。
  
  常夜灯と言うと倉賀野の閻魔堂の常夜灯が有名ですね。
  でもこちらの方が、三十年近く古いようです。
 
  天明二年というと”天明の浅間焼け”の前年ですね。
  (天明三年七月八日・浅間山大噴火)
  半年違っていたら、常夜灯の寄進どころじゃ無かったかもしれませんね。
         
    昔々の寅年と卯年のお話でした。 
 


  造った石工さんはたぶん幾右衛門(きうえもん)さん。
    おそらく、信州高遠の石工だと思われます。  

  昔の話、でも考えようによっては、つい先日のことなのかもしれません。







  

Posted by 捨蚕at 12:07
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2011年01月04日

正月二日の山名の八幡宮

   管領太鼓による和太鼓の生演奏
    太鼓は進軍、鉦は退却とか
     丹田に響き渡る震動は、まさに鼓舞してくれます。    


   地球屋さんの”つるし飾り”  
     草津と吉岡に店があるとか、
       のどかな気持にさせてくれますね。     


     そして、樹の陰から、吉永得三(草玄)さんの獅子頭の大絵馬です。
       今年一年よい年でありますように・・・・。                



  

Posted by 捨蚕at 13:36
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2011年01月02日

元日の山名の八幡様

  
  神楽殿では琴と尺八の生演奏




 
  男の人は、某自動車販売会社の元重役さん
  女の人は、私の中学の同級生

   NPO法人の方々でもう十年近くも元日演奏をお願いしてます。
  


  心配された天気も青空に
   八幡造りの本殿の屋根も楽しそうです。




  石の階は紅白の満開です。
   紙粘土の餅花もしくは繭玉
  
  歳時記にこんな句が・・・
    
     餅花の赤のひとつが 笑みて落つ

     繭玉のふれたる髪に手をやりし






   この名物の獅子頭
   昔は街中のどこの家の神棚にもありましたね。

     今年の行く末を睨んでるのでしょうか・・・。
  

Posted by 捨蚕at 01:57
Comments(4)山名八幡物語

2010年05月29日

山名八幡物語(九)・中村俊達のこと(3)

 

① 中村元良    
    安政四年三月三日

② 中村俊達・46歳    
  元冶元年十一月十六日 
     
   みほ(妻)・64歳  
   明治十八年十二月二日

③ 中村元信・43歳    
  明治二十四年六月十五日  


時宗・光台寺
(高崎市山名町甲310)
中村家の墓の過去碑の一部です。 




①~③で三世です。俊達さんが死亡した年は、父親(元良)の七回忌の翌年で、妻(みほ)42歳、息子(元信)15歳でした。
碑文によりますと、中村家は代々医者で、ご先祖の玄益さんのころは、”山本の里”といいますから、”山ノ上碑”のある村に住んでいたそうです。 
元良さんの性格は、”豪放にして人を遇するに貴賎を分かたず”とあります。また後進の指導を善くし、その名声は近遠に鳴り響き、学びにくる人も多かったそうです。高碕や吉井の城主が高禄で召抱えようとしても、固く辞して教導をもって生涯を通したそうです。


元良さんには子供がなく、剛毅・英邁で見識の卓越した吾妻郡出身の俊達君を養子に迎えたそうです。 
おそらく、お弟子さんの中から選ばれたような気がしてなりません。 
それにしても、奥さんの止めるにもかかわらず医師の数が少ないという理由で志願従軍を瞬時に決断してしまう行動力には、驚かされます。  


当時15歳の一子・元信さん。明治になり教職につくかたわら防疫に功績があったと碑文にあります。 
その性格は清廉潔白にして篤実とありました。生徒達に惜しまれつつ明治24年に病死とありました。  


最後になりますが、
”中村家三世ノ碑”が建立された時の山名八幡宮の宮司は高井菊水氏でした。 
下仁田戦争のときの宮司はその父親の高井信重氏でした。 
幕末・明治の激動をどんな思いで過ごしたのでしょうか。
  

Posted by 捨蚕at 06:15
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2010年05月28日

山名八幡物語(八)中村俊達のこと(2)













































”中村家三世の碑”です。青梅の実のなる崖に東を向いて碑があります。 
石碑には四百数十字の漢字が、ビッシリと刻まれていました。
生前に父が書き下し文にした俊達の部分を、以下に抜粋してみます。

 名声は嘖々(サクサク)として、
 郷党は敬仰(ケイギョウ)せり
 江戸幕府の末造 (マツゾウ)に会し、
 海内(カイダイ)騒然たり  
 水府(スイフ)武田好耕雲斎 
 具徒を率いて高碕を過ぐ、
 藩主松平右京亮これを追撃す。   
 君奮して従軍し下仁田に至り 
 昼夜にわたり格戦す、
 藩軍不利にして救療(キュウリョウ)のことに従いて捕らえらる。
  敵将その才を惜しみ従軍せしめんと欲す、
 君まなじりを決し叱咤(シッタ)していわく、
 ”志士あに羞辱のもとに頭を屈して生をもとめんや。
 汝ら烈士の終焉を見よ”と、
  従容と端座して屠腹す。 


その性格は英邁にして剛毅の俊達さん、11月15日の山名近くを通過する天狗党追討軍の高崎藩兵の隊列を見て、医師の少ないのに驚き、出願従軍医師として隊列に加わりました。
11月16日の早朝、高崎藩の本陣の救護班で他の医師と負傷者の手当てをしていた俊達さん、乱入してきた敵と白兵戦のすえ袈裟懸けに二太刀を浴びて、深手を負い捕らえられてしまいました。

11月16日昼過ぎ、南牧川と西牧川の合流する青岩河原。 
七人の高碕藩士等は、近所の家から持ってきた畳の上に列座され、首を刎ねられました。
    
     1) 二木助五郎    48歳    捕らわれて息子(千代之助)首と対面
     2) 高月鎗三郎    19歳    両腕骨折にて捕らわれる
     3) 関口定七     不明    富屋の屋号で田町の旅籠屋、隠密とし
                          て下仁田に潜入し、捕らわれる。
     4) 竹内喜平治    59歳    二番目の高齢者・第二番手甲士徒士
     5) 田上繁蔵     52歳   第一番手の先手足軽
     6) 山崎磯平     42歳   第一番手の足軽目付
     7) 中村俊達     46歳   医師

翌17日本誓寺に仮埋葬された遺体を引き取りに、高碕から犠牲者の家族や藩士がやって来てました。 
同日、三十六個の棺をのせた荷車は高碕に到着しました。 

俊達さんの遺体は、山名の時宗の寺”光台寺”に埋葬されました。 
次回は”光台寺”から始める予定です。 


ところで、一人気になる人物がいます、田町の旅籠屋関口定七さんのことです。 
”とみや”の屋号のため富屋定七とも呼ばれていました。 
天狗党の宿営する下仁田に火を放つ目的で、商人姿で潜入し巡回兵に怪しまれて捕らえられました。 

この旅籠は昭和の初期まで”富屋定七旅館”として存続したそうです。 
”高碕繁盛記”に”旅店 田町 富屋号 関口定七”と確認できました。 
(ちなみに、安国寺に供養塔があります)  


Posted by 捨蚕at 09:01
Comments(2)山名八幡物語

2010年05月26日

山名八幡物語(七)・中村俊達のこと(1)

 
中村俊達(なかむらとしたつ)

観音山・清水寺の田村堂にある”高崎藩三十六勇士”の木像の一つです。   


木像堂由来には、

”元治元年武田耕雲斎等
攘夷を唱えて水戸藩を脱して京都に向かうや
幕命により高崎藩士
これを下仁田町の小坂に討ち
三十六名の戦士者を出す、
ここにその木像を安置して
忠誠を永遠に伝えるものである”
     とあります。 

(大正二年、下仁田戦争五十周年を記念し、戦死者の木像が祭られました) 


明治29年11月16日上野鉄道の開通の除幕式の日、 
下仁田の小学生が二列に並んで、こんな歌を合唱しながら行進したそうです。 
        
         元治元年 霜月の   
         十六日の 朝まだき 
         高崎藩の 二百人 
         筑波おろしの 武田勢 
         一千余人の 戦いに 
         打出す砲声 ものすごく 
         鎬(しのぎ)を削る 太刀かぜに 
         打死なせし その数は 
         合わせて 三十余人なり



またこの戦争には、高碕藩から三人の医師が従軍します。 
そのうち、二人が戦死しました。 
(正確には、共に負傷者の手当て中に、一人は戦死、もう一人は捕らえられて下仁田青岩河原にての切腹でした)
下条元理(34歳)と、今回の主人公である山名村の医師、中村俊達です。

元冶元年(1864年)十一月十六日のことでした。
明治になる、ほんの四年前の出来事でした。


山名八幡宮には大正十五年四月十五日建立の”中村家三世ノ碑”があります。 
石段の左手の社務所の裏に、傾きかけてひっそりと、この石碑があります。 
子爵・大河内輝耕の撰ならび書とあります。 
高崎藩最後の藩主、大河内輝声の三男の方とのことです。 

  (続きはこの碑にそった話になる予定です)  


Posted by 捨蚕at 12:15
Comments(5)山名八幡物語

2010年02月22日

山名八幡物語( 六)あやしの堂は阿弥陀堂























左の写真は山の上の碑に行く途中にある来迎阿弥陀画像板碑です。山名八幡 から山名城にいく途中です。                 
後光が射す阿弥陀様が斜め下の一点を見つめています。年号は建治四年(1278)正月です。。
山名義範が社殿を造営したと云われる文治年間の約九十年後です。

なぜ阿弥陀如来か、とお思いでしょう。御一新後の神仏分離政策に洗脳された私達にはピンときませんが、本地垂迹により神は仏の化身だったのです。すなわち八幡宮とは、八幡大菩薩と阿弥陀如来を祀る場所でした。 菩薩と如来ですよ。  

さて蜷川家文書という書状があります。1320年から1532年までの約30通の書状が高崎市史にあります。それによると、
本貫地を離れた後も、山名氏は山名郷に代官を派遣し八幡宮の別当や供層を補任していました。
その中に、永和元年(1375年)四月十九日山名師義が山名八幡宮別当職と阿弥陀堂別当職の支配権を認める書状があります。阿弥陀堂の別当職には田二反と畠二反が付属していました。  
 
続いて右の写真です。鐘楼があります。2月13日のあやしの堂で、少し紹介した鐘楼です。右手からまわりこんだ道は、下ノ亭、鐘楼、高井家別邸、奥宮、中ノ亭、上ノ亭、そして阿弥陀画像板碑の前をすぎて山の上の碑、古墳、山名城へと続きます。

本社の後ろに鐘楼はあります。でもあやしの堂も阿弥陀堂も存在しません。
ただ、その昔にかなり立派な阿弥陀堂があつたのは確かでしょう。
あやしの堂は阿弥陀堂だとおもいます。
  

Posted by 捨蚕at 20:37
Comments(1)山名八幡物語

2010年02月15日

山名八幡物語(五) もう一つの金井沢の碑

前回の上信日記に、さかのぼる事三十三年前、一人の国学者が金井沢の碑を訪れています。
その著書名を山吹日記といいます。江戸の国学者奈佐勝皐(かつたか)が天明六年四月十六日から五月二十三日まで、上野国内を調査見学した、旅日記です。 
五月六日富岡をでて曾木、福島,金井、長根、吉井、と過ぎ。多胡の碑をみます。そして金井沢の碑へとむかいます。

一部抜文します。 

すへて一里はかりをこえぬれは金井沢にいたれり。この沢水にそいて、二つの山あいを七八町もやきぬらん、いたうおくまりたる山陰の賤かふせ屋の庭もせに、神亀三年の古き碑たてり。  
このかたわらより、近きころ掘り出しとかや。  
是も今は八幡宮に斎ひたるは高崎の宮部義正がいいすすめてかくしたるとそ。相ともに是を摺えたり。石の面高さひくさありてよくもうつらす。  

何度読み返しても碑が二つあると読めます。 最近掘り出した神亀三年の碑が金井沢にある。 山名八幡宮にも宮部義正の薦めで碑が祀られている。両方ともに拓本にしたが、よく写らない。  と読めないだろうか。

例えば昭和44年の高崎市史には、古碑の移動つまり金井沢から山名八幡への移動が書れています。では天明六年時点には碑はどちらにあったのでしょうか。それとも、五月時点では金井沢に、江戸に戻り、清書もしくは校正の時点は山名八幡に、という意味なのでしょうか。 では相ともに、とはなんなのでしょうか。  

さらに気になることがあります。同じ高崎市史の古京遺文のなかにあります。 碑は旧山下の村民弥一の家の側にあつた、そして洗濯板として使用していたが、罰が当たったためか、一家が絶えてしまい、これを恐れた村民は、この碑を山下に移したとあります。
そのすぐ後に、明和年間に烏川の崖の崩壊により出土したものはこの碑のことではない、と書かれています。 

貴方はどうおもいますか。金石題跋にある明和年間に崖崩れにより出土した石とは別のものがあると、確かにあります。 
この時点で、確かに碑は二つ存在していました。   

もう一つの金井沢の碑は、今どうしているのでしょうか。 
もしかして、山名八幡の境内に埋もれているのかもしれませんね。










  

Posted by 捨蚕at 11:34
Comments(2)山名八幡物語

2010年02月13日

山名八幡物語(四)あやしの堂

上信日記という紀行日記があります。時は文政二年(1819年)四月二十四日、国学者清水浜臣は、伊香保を立つて水沢観音を参拝後、野田、金古、野良犬、観音寺、中泉、福島をへて三国街道を高崎へとむかいます。佐野で烏川を舟で渡り金井沢の碑をみます。さらに山の上の碑を見ようと、山名八幡宮を参拝します。  数行ばかり抜粋してみます。    

しらぬ山路にふみなんもやうなしとて山名八幡へまうつ。二天門、石坂、鐘楼、本社のうしろのかたにあやしの堂あり。内に石仏二体をおけり、いと古し。六七百年前のものうたかひなくみゆ。  


二天門とは仏教で仁王門、神道で随神門のことです。石坂は石段のことです。が、写真には鐘楼がありません、もっとも崖の上には、下の亭から奥宮へ行く途中に鐘楼があります。   本社の後ろに、あやしの堂らしきものはありません。

かって、木部さま(木部城主木部範虎のこと)があったと聞いています。今はコンクリートになっていますが、大雨による崖崩れで何度か土砂崩れがあったと、聞いています。本社の裏に今も埋もれているのでしょうか。

上信日記からこの境内図まで、約八十年の時間があります、どんな事が在ったのでしょうか。

さて清水浜臣のことです。参拝後に山の上の碑を訪ねて山に入りますが見つからず、その日は諦めて倉賀野にむかいます。そして上野三碑考で有名な木部白満(きべつくろまる)の営む藤浪屋に泊まります。そこで二つの碑の拓本を見せてもらっています。(金井沢の碑と山の上の碑)
翌二十五日に白満の案内で、山名八幡に寄らずに、山の上の碑を見てから、鏑川を舟で渡り帰路に着いています。

清水浜臣の見た、あやしの堂の石仏とは何だったのでしょうか。また、今現在何処にあるのでしょうか。   

Posted by 捨蚕at 22:02
Comments(3)山名八幡物語

2010年02月08日

山名八幡物語(三)境内図の訂正と追加

境内図の左右の下の部分の写真です。   





前々回の境内図の一部訂正と、写真と記事の追加をさせていただきます。                                          
まず、右の写真です。八幡尋常小学校です。すこし立派すぎるとおもいませんか、 そのはずです、勢多郡富士見村の旧群馬県尋常中学校の校舎を購入移築したのそうです。明治29年9月3日村議会は、校舎建設費3344円65銭6厘を議決,翌30年3月21日に県知事を迎え開校式の運びとなりました。ちなみに、1326坪の敷地代は302円39銭でした。 
              
県下に偉容を誇る 校舎の完成です。
左の写真は、明治30年全面開通した上野鉄道の山名停車場です。                                   つまり境内図の下部の左右に、多野郡八幡村の発展の、期待と希望をこめて、鉄道の開通と小学校の開校を描いています。 では上部には何を描いているのでしょうか、左に鏑川と山の上の碑、右に烏川と金井沢の碑です。 
山名が誇る最古の二つと、最新の二つを描く構図となります。 
さて前々回の訂正です。随神門のなかに仁王様はいないと言いましたが、昭和の初期までは存在していたそうです。古老の方にお聞きしました、訂正させていただきます。  続きを読む

Posted by 捨蚕at 09:52
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2010年01月14日

山名八幡物語( 二) 宝刀天国

山名八幡宮は、山名義範が文治年間(1185ー1190)に、宇佐八幡宮を勧請したと伝えられています。
前回の境内全図の中の八幡宮略縁之記には勿論、天保九年の神主高井和泉藤原光重による縁起によっても、確認できます。
山名義範の父は、新田義重、その祖父は、源義家です。天保九年の縁起書によると、その義家が当宮に後朱雀天皇(1037ー1045)の代に参籠とあります。
宇佐八幡宮を勧請する百数十年前に義家が参籠した宮はなんの宮だったのだろうか。また文治年間とは、源頼朝の挙兵に応じた山名義範の台頭の時期とまさに一致しています。

(ぶらりたかさき)の内山氏によると、上野国神名帳の従三位物部明神に山名八幡宮を比定されています。
物部氏は、古代の西上州に東国経営の尖兵として、布留(ふる)の御魂の神を奉じて戦いました。布留の神は石上(いそのかみ)、太刀を抜く時のフッと言う無清音の神格化です。
つまり、義家が参籠したのは物部の神であり、その曾孫の一人である義範が、八幡神に替えたのです。
山名八幡宮に諸刃の天国(あまくに)の剣が一振り昔から伝わっています。天国とは日本刀工史上の古代名工です。
内山氏は、この剣が八幡宮遷座以前の布留の神の御霊代だとは申しませんが、このことが地主神と何処かでつながっている気がしてならない。とむすんでいます。
また裏の八幡山から縄文時代の土偶のビーナスが出土したと聴いています。地形的にも縄文以来のひもろぎの場であったのでしょう。

今回はここまでとします。
  

Posted by 捨蚕at 00:22
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2009年12月31日

山名八幡物語( 一) 境内図

上野国山名八幡宮境内全図これが正式な名称。明治31年12月の印刷、発行。定価金七銭、八幡宮社司高井和重。
まず左下隅に一之大鳥居その右脇に太刀割石、一名福石、その上に上野鉄道山名停車場。(明治30年9月全線開通)小さな汽車が煙を吐きつつ高崎方面に向かって駅を出たところです。
右下隅に八幡尋常小学校、生徒が体操や行進や遊戯をしているのがみえます。
一の鳥居に戻って参道をすすみましょう。踏み切りを越えると随神門、かって神仏混合時代には、仁王様があったとききますが、明治31年にはなかったのでしょう。参道にそって手水屋、稲荷社、金刀比羅社、と右手に並び石段です。
左右に石垣が組んであり二の鳥居をくぐりつつ登りつめると、拝殿です。
拝殿の右に厳島神社そして末社と石碑。左には御輿倉、神楽殿。それは今は拝殿の右手にある。
拝殿の裏は断崖、八幡山が続き奥宮が鎮座している。
この絵図は上野鉄道の開通を機に、汽車で行ける神社、境内を汽車が走る神社、としてPRのために作られたものでしよう。
ちなみに高井和重宮司は今の三代前の宮司です。

明日は元旦。山名八幡を参拝の際には、この絵図を増刷したそうですのでご購入してください。一味ちがった初詣になること受け合いです。
毎月月末に山名八幡物語を連載します、たくさんの思い出や知識のコメントを期待しています。
  

Posted by 捨蚕at 16:56
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