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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年01月30日

小発見シリーズ(15) 榎本於神

最初にシリーズ其の壱の並榎橋で、石段の左右の灯篭台とあるのを、狛犬の台と、写真のとおり、訂正しますことをお許しください。
さて、今回は並榎町の神明宮です。
明治四十三年に高崎神社に合祀されましたが、りっぱに今も下並榎村の総鎮守様です。迷道院さんが追跡されたとおり、大橋町の総鎮守藤森稲荷は跡形も無いんですから。
明治十二年の上野国神明帳によりますと、永仁六年(1298年)の総社神社蔵の神明帳のうち従四位下榎本於神明神に比定しています。
榎本(えのもと)を並榎に、於神(おかみ)を水の神としています。
ものの本に、赤坂の榎の森という言葉がよく出てきます、また烏川の川岸段丘ですから水害には苦しんだことでしょう。
平安時代に起源は求められますが、神明宮になった経過は不明だそうです。
さて、この神社は古墳の上にあります。昭和十年の上毛古墳総覧の220号古墳です。当時の旧市内に八つの古墳が載ってます。そのうち並榎町が二つあります。両方ともに、並榎町山王裏の住所です。ちなみにもう一つは番地的に君が代橋の東、坂を上りきった道路(高駒線)上にあたります。
気になるのは、山王裏の字名です。神明宮の南に天台宗の寺があったと謂うことです。
南に曹洞宗の寺があります。並榎山常仙寺です。ただ創建は寛永五年です(1628年)。それ以前にはそこに下並榎の砦がありました、がそれも和田時代のことです。
天龍護国寺の末寺でもかって、在ったのでしょうか。
それがいつしか廃寺となりやがて下並榎の砦となり、やがて常仙寺として再び甦ったのではないでしょうか。
いずれにしても、
神明宮は健在です、獅子舞も盛んです。近々鬼城の句碑も建つとのことです。
次回は常仙寺です。なにせ並榎山ですから。
  

Posted by 捨蚕at 15:21
Comments(2)下並榎シリーズ

2010年01月29日

小発見シリーズ(14) 不思議発見

写真を見て何か変だと思いませんか。道が建物に突き当たってますね、行き止まり、それともT字路、はたまた参道か。
ここは大橋町の商科大学付属高校の正門から西を見たところです。
一直線に前橋新道からきた道が、長野堰沿いにクニヤリと曲がっています。
並榎橋(シリーズ1)と鳥羽橋(シリーズ11)との間が、極端にいえばコの字型になっています。
それにしても、よくよく考えると不思議です。長野堰を掘った時どんな事情があったのでしょうか。もしかして、館か砦を造ろうとしたのでは、となるとまたまた小発見ですが。

並榎橋から鳥羽橋まで、川沿いに歩いてみましょう。左手は勤労青少年ホーム、昔は工業試験所。かのブルノ・タウトも一時教えていたと聞いたことがあります。その横につい最近まで染め物屋があったな、そこで川は北上して、そう鯉池だ。豊岡の方の鯉屋さんて、聞いた気がするな、それにしても、最近は鯉料理てたべてないな、
そうそう、群栄化学、風向きが悪いと臭かったっけ、その前は当時の佐藤技芸のとなりで水飴を造っていたな、たまに一缶貰うと割り箸でかきまわして、美味でした。その隣りが水道局大橋水源地、おっと、独り言をいいながらもう鳥羽橋の終点です。
それにしても大変歩きやすい散歩道です、コルクが敷いてあるようで、是非ともお試しを。
今日はこれまで。
  

Posted by 捨蚕at 02:22
Comments(0)小発見シリーズ

2010年01月27日

小発見シリーズ(13) 続続飯塚城

写真は飯塚の東の薬師です。約二百米、西にある薬師様と向かい合っています。誰云うか飯塚の夫婦薬師と云われています。ともに、箕輪城主長野業政公によって大永三年(1525年)に祀られたとあります。飯塚城(別称北城)も常福寺もこの夫婦薬師にも長野氏の影がちらつきます。
さて、東の薬師です、享保年間に小平与惣治という人が眼病の平癒のお礼に堂を再興したと由来の表示にあります。
ここで、誤謬の小発見です。表示板には享保年間 (1755)とあります、享保年間なら1716から1735年であり1755年なら宝暦五年ではないでしょうか。
東の薬師様に向かって左手前に、奉納薬師如来と書かれた石塔がありました、年号は判読できませんが、三月大吉日当村、小平左平治倅、小平佐右衛門と読めました。小平与惣治さんの御子孫なのでしょうか。
さらに時代は下って昭和の始めの頃、内山信次氏によると畑にするために小さな塚を崩していると、薬師仏を見つけ昭和八年に堂を建てたとあります。また近くに庵があったとの言い伝えもあったとのことです。内山氏は飯塚に小庵の名前を三つあげそのうちの一つを想定しています。
ところがです、前回紹介した常黙庵がその中の一つだったのです。つまり、三つから二つに絞り込めたのです。これは偉大なる小発見でした。
最後に内山氏等の一所一勝運動による指定の結果、今の薬師堂が再建されたそうです。

話が飯塚城から遠ざかってしまいました。が、この城には城主がみあたりません、下之城同様による和田氏直轄地だったであろう、とのことです。いずれにしても外堀をぐるぐる巡るだけで本丸に入れません。もっとも入ってもどうせ空き地なのですが。まだ続きますゾクゾクするような話をしたいと思います。飯塚常仙かな。
  

Posted by 捨蚕at 18:24
Comments(4)飯塚村のこと

2010年01月25日

俳句のすすめ( 五)初薬師

**一村の東と西の初薬師**

正月八日今年最初の薬師如来の縁日。十日は、初金毘羅、初恵美須、十八日は初観音、初大師は二十一日、初天神は二十五日。

場所は飯塚村、東と西の夫婦の薬師。
今年一年健康でありますように。
  

Posted by 捨蚕at 00:12
Comments(0)俳句のすすめ

2010年01月24日

小発見シリーズ(13) 金井橋

金井橋て知ってますか。
住吉町の城峯神社もしくは、大橋の川端庚申、ここは大橋町と住吉町と台町の接する所。三国街道が長野堰を渡る手前を左に入った所。三本のもくの大木の下、正徳元年の庚申塔と城峯神がならんでいます。
またここは、遠堀の始発点の新井堰がある所、明治四十三年までの高崎水道貯水所、いわゆる水道水こし場。
前置きが長くなりましたが、今回は、お庚申さまの話でも新井堰の話でもありません。ここから約百米上流にある、金井堰と金井橋の話です。
金井堰のコンクリートの足元に柵に囲まれた金井橋と彫られた石柱がありました。
かって、そう五十年前、少し上に土橋がありました、もちろん長野堰も大川と呼ばれる自然川でした。コンクリートと金網が川と人間を隔離する以前の状態がありました。
土橋の上に立つと、北は佐藤技芸の前の道を横切って金華亭の横を通って北駅にでる道、
南の路地は高商に、西に大川を上ると並榎橋、東に大川を下るとお庚申様。
また、この川沿いは書道と英語とピアノと合唱の先生がいた文化的な地点?
でした。
金井橋より少し下流に、金井堰。
堰から別れた水路は更に二つに分かれ、右は染物工場
の板塀の中に消えていき、左は小川が北東に続きます。そこまでで、記憶は霧の中に、その先は思い出せません。
何度も夢に見る場所なのに、その小川添いの草さ原で幕が降りてしまいます。
金井橋、金井堰、庚申さま、新井堰、この辺りが、大川の匂いが、もしかしたら原風景。
  

Posted by 捨蚕at 22:20
Comments(1)橋シリーズ

2010年01月23日

小発見シリーズ(12) 続飯塚城

シリーズ其の四で飯塚城跡に潜入した時に奇妙なものを、発見してしまいました。写真の首座像です。城の西半分占める常福寺に背を向けて東の空地と梅林を見続ける石仏と塔でした。
ぐんまのお寺と云う本の中からの小発見です。その空き地は常黙庵という名の小さな庵寺跡でした。曹洞宗飯玉山長泉寺を本寺とする尼寺だったのです。創建は文化年間とあります。
つまり、長野氏が和田城の北の守りとして築城したであろう飯塚城は、その後本郭の西半分を常福寺、東半分を常黙庵としてつい最近まで存在していました。
さて、僧型石像は五代続いた庵主のうちの四代目庵主、泉底観亮尼の首座像で大正六年に建立されました。
塔は正面に千部供養塔、高崎山三書とあります。
解釈の間違いを恐れず読みます。供養のため大乗妙典一千部を尼僧四十五名によって読経したようです、しかも五十日かけてです。
撰文は長泉寺の第十九世恵鎮素明、文字は高崎山龍廣寺十八世僧三。したがって高崎山三書です。ちなみに、常黙庵の本山が長年寺、その本山が龍廣寺と続きます。
背面には文政十年(1828年)猛夏十八日、二世庵主智鏡尼が発願し之を立てる、とあります。また読経参加の尼僧四十五名を連記しています。
基壇上には施主として、十六名の本町の商人の名、基壇下に村役人・世話人として、二十一名の地元の名氏の名が記してあります。
文政十年夏のある日、ここ飯塚村の常黙庵の庭に大勢の人が集まっています、そう今日は供養塔の建立記念法要の日です。
まず四十五名の尼僧が目につきます、本町の大店の旦那衆、穀屋さん、百足屋さん、松屋さん、それに佐渡屋さんまで。
そんなに集めて大丈夫かって、境内は三百十六坪、なんとかなるでしょう。また゛まだ、井田さん、阿久津さん、植原さん、飯塚村のお歴々。
なんと、華やかな賑わいでしょうか。
平成二十二年正月は、何もありません、首座像と供養塔と、その後ろに石仏の残骸が少々在るのみです。
今日はここまで、
合掌
次回は完結編の予定です。
  

Posted by 捨蚕at 09:30
Comments(1)飯塚村のこと

2010年01月20日

小発見シリーズ(11) 鳥羽橋

鳥羽橋を知ってますか、西小地区の方は勿論承知のこととおもいますが、並榎橋と混同している人もいますので、ご説明をさせていただきます。
西小の校庭の南東の長野堰に架かっている橋です。ちなみにシリーズ其の壱の並榎橋の一つ上流の橋です。橋には通常漢字と平仮名の両方で表示されています。小学生だった私にはいつもと逆なのです、漢字が読めてひらがながよめません。( 初めての写真です!正に感動モノです)
父に万葉仮名という別のひらがなた゛と教えられました。
それから五十年たち調べてみました。登(と)の崩しと、者(は)の崩し字でした。小学校時代の七不思議の一つが今、解決しました。
ちなみに鳥羽は明治三十五年の地図では、信越線と長野堰の間、町名でいうと、並榎町と大橋町と台町と群馬郡六郷村上並榎に囲まれた地域を、字鳥羽とあります。
並榎町は明治31年に下並榎村が、台町は赤坂村字台原が、大橋町は赤坂村字大橋か゛明治35年にそれぞれ高崎になりました。
最後に字鳥羽の東に字新井と字金井があります。シリーズ其の弐に載せ忘れたNO2金井踏切は字金井としても、シリーズ其の参で紹介した長野堰の新井堰と金井堰はどうなんでしよう。
高崎旧事記によると、新井堰ノ名称ハ新井喜左衛門ノ開墾ニ出、因テ号。とあるように新井堰の後に字新井とおもわれます。
地理的に少し離れている字金井と金井堰との関係はあるのでしょうか。

話がややこしやになりましたので、今回はこれまでとします。是非とも鳥羽橋をお通りの節はお気に止めていただければ幸いです。
  

Posted by 捨蚕at 15:23
Comments(6)橋シリーズ

2010年01月20日

小発見シリーズ( 十) 続続八間道路

更正高崎旧事記に、此町の出口法輪寺の南通り無縁堂への道、下野武蔵への往還にして、倉賀野宿並森村への通りなり、とあります。
高崎志に、無縁堂は、羅漢町の東八町ばかりにあり。是も赤坂の内也。四面田圃にして、森の中にあり。高崎の荼毘所なり。開基しれず。とあります。
三十六年度の地図をみます、八間道路を羅漢町の通りを南下すると、島津茶店、つたや旅館、そこから東に向かって八間道路に平行した一本の路地が、田島ガラスまではしっています。さらに道は線路を超え東三条を突っ切り、郵便局と第四銀行の南側を通り長野堰に行き当たります。この江木橋の南の城東公民館が無縁堂跡です。隣りに五万石騒動の碑があり、法輪寺と本元寺の墓地があります。
いわば、法輪寺から法輪寺の墓地までが、ジャンボン道でした。ジャンボンは、シンバルの音、葬列の音。ジャンボン道は火葬場への道、葬列の道でした。
シリーズ( 八)に柴田葬具店とありました、葬儀でなく葬具、近くにあったもうひとつの店もまた葬祭具店とありました。かっては、否つい最近までは葬儀とは、関連道具一式を借りるか買うかして喪主と隣組がするものだったんですね。
話がずれましたが、この道は、遠構え添いに並べた十一の寺の一つへの参道であり、高崎城下七口の一つ羅漢町口への道て゛あり、そして寺を迂回して火葬場への野辺送りの道だったのです。
  

Posted by 捨蚕at 00:10
Comments(2)小発見シリーズ

2010年01月17日

小発見シリーズ( 九)続八間道路

好評に付き続編八間道路であります。
田町三丁目から始まる伊勢崎街道のうち、上越・両毛・信越線の踏切までを通称八間道路と言います。昭和二年の道路拡幅により、それまで幅二間(約3.6M)の八軒道路は幅(約14.4M)の八間道路となりました。その時、法輪寺は西向きから南向きに変わりました。
さて、昭和36年度住宅地図です、前回は北通町の交差点まででした。黒沢薬局で九蔵町からの道を渡ると高崎タイピストです。倉庫のような状態だったのを記憶してます。次が沢田玩具店、その奥が松島湯、ミフジ文庫、尾崎履物店。確か、ボクシングシワムがあった所、毎日新聞販売所、金古帽子店、安達タバコ店、中沢履物店と続きます。天田毛糸店、マミパーマ、片山生花店、ここで大雲寺の山門に至る路地にでます。道を渡ると田中コンロ店その三軒北に天田ドレスメーカー女学院があります。
土橋陶器店、アガリ歯科、しまだ化粧品、堀田屋燃料店、そして羅漢山正覚院法輪寺、太陽堂菓子店、そしてかの神田菓子店。弓町交差点、そう東小の西の通りに、やっとでました。
ここで、ひと休み。それにしても、すごい数です、驚きます。
話はここで、昔の法輪寺に戻ります。
幅二間の八軒道路は、田中コンロ店の所で、西向きの山門にぶっかります。大雲寺の山門に至る道と、フラワーマンシヨンから大信寺に南下する道とは、八間道路と十字路になっていません。いわゆる、すじ違いになっています。表門の前北側に道租神宮がありました。これが、すじ違いの理由です。羅漢町の鎮守で法輪寺が別当です、道路拡幅に伴い、高崎神社境内に昭和二年に移転しています。
ところで、羅漢です、井伊直政の築城時、町割りの時点で、羅漢堂は存在していました。更正高崎旧事記に、羅漢堂があったので、羅漢町となり山号も羅漢山となったとあります。また、この羅漢堂の脇を和田宿時代は下野・武蔵道が、江戸時代は無縁堂へ通じる道があったとあります。
次回はこの道、そうジヤンボン街道です。
  

Posted by 捨蚕at 23:20
Comments(1)小発見シリーズ

2010年01月17日

小発見シリーズ( 八) 八間道路

田町北交差点を起点に36年度住宅地図で、東に歩いてみましょう。まずラメーゾンを、と書こうとおもったのに、街角に無くその西にラメーゾン喫茶とあり、街角には、うろころ服地店があります。
いきなり面食らってしまいます。通りを渡って右側は、福田紙店、亀升種苗店、いさみ寿司、路地があって、上野医院、信沢金物、朝日生命、すかや食堂、はるやま菓子店、風味堂、新井靴店、ウラノ雑貨店、鈴木毛糸店、山口肉店。
養老の滝がありません、いさみはフグ料理のはず、ウラノは靴屋のはずなねに。
(大橋生まれ並榎育ちの捨蚕には、よく解りません)次に、八間道路の北側にいきます。つまり、左側です。
田町北交差点の北東角は清水金物店、山十青果店、柴崎理髪店、熊井豆腐店、江戸吉寿司、境医院、松浦パン、タカサキスタジオ、阿久沢電気店、サンエスプロパン商会、すみれ化粧品店、中沢金網店、オリタソバ店、喫茶もりえ、柴田葬具店、マキ薬局、黒沢薬局。ここで、田町が終わって、北通町になります。
いまから、五十年前の八間道路でした。あなたは、いくつの店をしっていますか、思い出の店は、どの店でしたか。
少し疲れましたので、今日はここまで、何が小発見か?ですって。それは五十年後の今、あなたが自身が発見するはずですが。
  

Posted by 捨蚕at 01:21
Comments(3)小発見シリーズ

2010年01月16日

俳句のすすめ( 四) 鎌倉道

'この道をいざ鎌倉と犬ふぐり, (平成十九年春 捨蚕)
かって、鎌倉道が山名八幡宮のすぐ裏を走っていたそうです。小さな小川が集まりやがて、大河になるように、無数の小道が、山の尾根を、崖下を、川添いを走っていたことでしょう。
山名義範もまた頼朝の挙兵に応じて、鎌倉へとむかったのでしょう。寺尾城にいた父親の新田義重の意志に反してのいざ鎌倉だったのでしょうか。
野の道には、小さな紫の花をつけた、この滑稽な名前の花が、はるか鎌倉の方までつづいていたことでしょう。
平成十九年春、市議会選を前にして、作った一句でした。
  

Posted by 捨蚕at 11:22
Comments(1)俳句のすすめ

2010年01月15日

小発見シリーズ上並榎(6) 金田水車

小発見シリーズ其の弐で、紹介したNO7とNO8の踏切の間、上並榎城の濠であった佐賀野川が信越線を潜る手前、妙に、気になるポイントがありました。
つい数年前まで深い堀添いに竹藪しかも黒竹が這えていて、小屋があり、北から流れて来た川がカーブするように鉄路を潜りそのさきで烏川に落ちていました。
今は小屋はなく更地で売地と看板にあります。
気になる訳は、もう五十年以上前に祖父と散歩していた時 ゛ここに、水車があってな・・゛なにかを言おうとして、少し悲しそうな顔のまま口籠もったような記憶が、この景色と重なっていたからです。
もしかしたら、その後しばらくたってから、父から聴いた祖父の子供時代の話がその記憶を鮮明に保ち続けさせたのかも知れません。
川を見下ろすかの様に、馬頭観音の石塔がありました、その横にもあるのですが読めません、前に小銭と茶碗がおいてありました。
馬頭観世音の文字の左横に金田水車とありました。
そう確かに水車の字が確認できました。

どのくらいの昔から水車はあったのでしょか。明治18年の高崎、横川間の開通時は多分、水車は回っていたでしょう。汽車の窓から見えたことでしょう。もしかさたら、昭和の初めまで回っていたかもしれません。祖父は、その後は国鉄勤務でしたので、汽車の窓から見ていたかも知れません。
今回は、自分の微かな記憶を証明したセンチメンタルな、小発見でした。
  

Posted by 捨蚕at 02:56
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年01月14日

山名八幡物語( 二) 宝刀天国

山名八幡宮は、山名義範が文治年間(1185ー1190)に、宇佐八幡宮を勧請したと伝えられています。
前回の境内全図の中の八幡宮略縁之記には勿論、天保九年の神主高井和泉藤原光重による縁起によっても、確認できます。
山名義範の父は、新田義重、その祖父は、源義家です。天保九年の縁起書によると、その義家が当宮に後朱雀天皇(1037ー1045)の代に参籠とあります。
宇佐八幡宮を勧請する百数十年前に義家が参籠した宮はなんの宮だったのだろうか。また文治年間とは、源頼朝の挙兵に応じた山名義範の台頭の時期とまさに一致しています。

(ぶらりたかさき)の内山氏によると、上野国神名帳の従三位物部明神に山名八幡宮を比定されています。
物部氏は、古代の西上州に東国経営の尖兵として、布留(ふる)の御魂の神を奉じて戦いました。布留の神は石上(いそのかみ)、太刀を抜く時のフッと言う無清音の神格化です。
つまり、義家が参籠したのは物部の神であり、その曾孫の一人である義範が、八幡神に替えたのです。
山名八幡宮に諸刃の天国(あまくに)の剣が一振り昔から伝わっています。天国とは日本刀工史上の古代名工です。
内山氏は、この剣が八幡宮遷座以前の布留の神の御霊代だとは申しませんが、このことが地主神と何処かでつながっている気がしてならない。とむすんでいます。
また裏の八幡山から縄文時代の土偶のビーナスが出土したと聴いています。地形的にも縄文以来のひもろぎの場であったのでしょう。

今回はここまでとします。
  

Posted by 捨蚕at 00:22
Comments(3)山名八幡物語

2010年01月13日

捨蚕の俳句のすすめ 其の参

゛くくられた尾崎豊のいた夏日゛( 20年8月18日の上毛新聞の郷土誌の欄、俳句誌の紹介の片隅に)

括るとは、1)一つにまとめて束ねる 2)絞り染めにする 3)首をしめる、くびる、と辞典にある。
くくられた夏、とはある人にとっては、特攻隊員の夏、学生運動の夏、カッパビアの監視員バイトの夏、様々な、ただ忘れられない、自分にとって凝縮したひと夏のこと。
尾崎豊氏については、門外漢、(24歳さん是非コメントを)ですが、野外コンサートのドキュメンタリイでその熱狂ぶりをテレビでみました。
この人達にとって、この夏もまた、一つの括られた夏だったのは、確かでしょう。
最後に辞書にあった3)首をしめる、くびる、が気になります。゛くくられた、を、くびられた、にしたらどうだったのでしょうか。

俳句は貧乏人の玩具です。ではまた。
  

Posted by 捨蚕at 11:18
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2010年01月12日

捨蚕の俳句のすすめ 其の弐

青き眼の羅漢も見やる冬の蝿・・(12月25日付 タカタイ俳壇入選作)

この羅漢は、室田山長年寺の陶器の五百羅漢です。さまざまな表情と視線の羅漢像、その中に青い眼の羅漢様がいます。イラン系か、トルコ人系か、いてもまったく不思議では無く、動きの鈍くなった冬の蝿をじっと、見つめていました。
狭い堂内に泣き、笑い、怒り、そして欠伸をしている、数百の羅漢達。
窓の外には、銀杏の葉が風も無いのに、散っています。

毎月第四金曜日にタカタイ俳壇は発売です。
  

Posted by 捨蚕at 21:30
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2010年01月11日

捨蚕の俳句のすすめ・ その壱

゛ゆさとしてもののけ通る萩の暮れ。゛
(11月27日 タカタイ俳壇入選作)
黄昏れ時、鬱蒼とした萩の原を、秋の風が吹きわたる。ゆさゆさと、巨大な恐竜の歩みのように、萩の原がきしむように、揺れ動く。物の怪の移動のように。ルドンの一つ眼の怪人のように。
それにしても、もののけ姫はよかった。
松井田の五料に、萩の館がある。高台にある家の周りをぐるりと萩が囲んでいる。ひと抱えもふた抱えもある萩の株が、あたかもそれぞれの意志で揺れ動いているかの様だった。壮観であった。  

Posted by 捨蚕at 22:30
Comments(1)俳句のすすめ

2010年01月11日

小発見シリーズ 其の七家畜市場前

我が家の近くのバス停にすでに無くなって数十年経つのに、いまだにバスストップの標識が家畜市場前とあるのにきずいた。

本郷回り室田行き、北高崎から三つ目の停車場の事です。先日、図書館でコピーした昭和36年度の住宅地図をひろげてみる。何故に昭和36年度かというと、これが一番古い住宅地図、正確には34年度があったのですが、一冊に高崎と前橋が載っていて旧市街地だけ、勿論手書きです。

地図をみます。高前バイパスは存在しません。高崎家畜市場がありました、大谷食堂がその前にあります。ホルモン焼きが有名で、子豚市の日は特に繁盛していました。が、火事で焼けてしまいました。寒い時季の事だったとおもいます。その東に、バイバス上に高崎家畜保健衛生社とあります。
隣が菓子店、理髪店、自動車修理工場、材木店、そして我が第四中学校とつづいています。新室田街道は勿論、バラス道。
ふと気付くと五十年前の話をしている訳なんですね。家畜市場前バス停の名前の永久保存を進言します。
せめて、名前だけでも過去の記憶を、とおもうのは捨蚕だけでしょうか。

話はとびますが、下小塙歳時記とう本に、昭和初期のバス停風景として二軒家停留所のことが、書いてありました。
今の高経大のところです。山王様の森(護国寺の西の日枝神社)から二軒家までは淋しい一本道だったそうです。
とある生け垣に赤い旗を立てておき、アガリハナで、お茶を飲みながら世間話に興じていると、バスの警笛がして、時には車掌さんか、呼びに来てくれたそうです。
その停車所は多分、家畜市場前から二つ目だとおもいます。
  

Posted by 捨蚕at 16:50
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年01月11日

小発見シリーズ 上並榎周辺( 5)

天龍護国寺には、延長六年(928年)醍醐天皇の勅命により、小野道風の真筆による勅額がある。(平安の三跡の一人にて野跡と云う)創建の六十四年後、勅額は京より東山道を下って運ばれました。機内、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、それぞれの国府へと通じる官道である東山道は 、信濃国の最後の駅(うまや)である長倉の駅を過ぎると碓氷の峠。越えると上野国。坂本、野尻、群馬、佐位、新田の五駅がある。野尻駅は今の安中、板鼻から北上し若田原を通って烏川へ、ほぼ今の県道安中前橋線にそって、国府、そして群馬(くるま)駅へと延びていたとおもわれる東山道。
ここで、一休みがてら上小塙の稲荷山古墳の上に立ってみましよう。一千年以上の昔を思いつつ、想像力だけを全開にして。参考までに、この古墳の上が烏子(すなえご)神社です。迷道院さんの11月25日のブログの記事を参照ください。
さて、延長六年の景色です。東山道が一直線に国府に向かって延びています。そのさき北東の方向に高さ60メートルもある塔がみえます。前橋市庁舎に匹敵する高さは、そうです上野国分寺七重塔です。その先を利根川が流れ、赤城山が裾野をながく、横たわっています。南の方向には、我が天龍護国寺が、烏川の辺に八堂伽藍と僧坊三百を配し、京都比叡山の方に向いて建っています。もちろん四辺の古墳上に護国鎮国の四社を配してです。
そして、三百六十度、数多くの古墳が、大小の人造構造物が、点在しているのが、見渡せるはずです。

多少とも一千年以上前の風景をイメージできましたら、幸いです。
では、これにてひとまず上並榎周辺の小発見を幕といたします。ああしんど。
一応一句・・貧乏人地図みて遊ぶお正月。
  

Posted by 捨蚕at 12:30
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年01月09日

小発見シリーズ 上並榎周辺(4)

旧室田街道を北上、踏み切り(シリーズ其の弐の信越線NO7踏切)手前を左折して約五十米で滝谷不動公民館に着く。南は上並榎テニスコート場、そして烏川。
この公民館わきに、滝谷不動明王がある。文久元年十二月吉日とある。周りにも、古そうな不動尊が数体、東を向いて鎮座している。かっては、烏川にごうごうと滝が流れ落ちていたのでしょう。
さて例の虚空蔵古墳ですが、滝谷不動のすぐ東、高前バイパスの手前の字屋敷前にあったそうです。出土品として石祠有りとあります。ちなみに、不動明王も虚空蔵菩薩も右手に剣を持っています。両地とも、護国寺の南東に当りますが、距離的には、他の三社の二倍近くあります。寺の四方に社を配し、には方角はともかく不動だけ離れすぎています。
まあ、一千年前の事だし、文献も特に無い事だし、と言い訳をぶつぶついいつつ踏み切りを渡り北進する捨蚕であった。
ところが長野堰の放水川をわたり、旧室田街道が、護国寺の山門に出るために左折する手前に、不動尊があったではありませんか!
くるわ不動とあります。ここから西側一体は並榎城の郭(くるわ)になります。深い谷は、さ川(現在は佐賀野川という名前)城の堀の一部です。滝があり、不動があってもなんら不思議ではありません。この近くを想定すると、距離的に都合がいいのですが。
とりあえず、天龍護国寺を囲む四社巡りの旅は、これにて、ひとまず筆をおきます。
それにしても、何故に上並榎なのか?謎は謎を呼びます。次回は、もっと、鳥瞰的にみた上並榎周辺を考えてまとめとしたいとおもいます。
  

Posted by 捨蚕at 12:02
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2010年01月07日

小発見シリーズ 上並榎周辺(3)

四社のうち、残るは北野と不動の二つのみ。上小塙の北野神社、上並榎の滝谷不動を地図上で想定している。とりあえず、北野神社をめざす。
場所は北部小学校の東、塙保育園の西ある。護国寺の北東約1KMか、少し高台になっており、高札場(御触書の掲示場所)跡もあり、いわば昔の村のメインストリート。祭神は、かの菅原道真公。神社の右手奥の由来文に、天満宮、北野天神、火雷天神、天満天神、すべて菅原道真を祀るとある。また、後鳥羽天皇の御代に京都の北野天満宮を勧請とある。ここで年表風にまとめてみょう。
794年 平安京遷都 805年 最澄、唐より帰朝天台宗をつたえる。
864年 天龍護国寺創建。 901年 菅原道真、左遷。903年 道真死亡。 935年 平将門の乱
993年 道真に太政大臣を追贈。
1004年 一条天皇により初の北野行幸
1183年から1198年 後鳥羽天皇在位期間
1184年 兵火により天龍護国焼失。

ここまできて、本当に上小塙の北野神社か?そんな疑惑が頭をかすめる捨蚕。
時間的にも距離的にも、気にいらない。なにか別にないか。勧請の時期が1004年頃なら納得できるのに。

前回に紹介した上毛古墳総覧を再度見た、あった!二十一号古墳、名称は天神山、形状は円型、所在は上並榎山王前1157。住宅地図によると護国寺の南西約三百米、天神川の東、愛宕推定地の真南。
古墳総覧をもう一度みてみる。六郷村の古墳が二十三基載っている、何順に並べたかは不明、ただ最後の四基はすべて上並榎、20号虚空蔵山、21号天神山、22号愛宕山、23号稲荷山。
著者の意図が明確ではないだろうか。それとも偶然か。
次回は最終回、乞う御期待。  

Posted by 捨蚕at 00:19
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