明和八年の、残り二つの道祖神の話です。場所は長野堰が、新室田街道と交わるところ、稲荷橋交差点の南がわです。三角形の空き地に二基の道祖神があります。ものの本によりますと、明和八年十二月吉日護国寺一元拝書と書かれているそうです。石が摩滅と苔で私にはどうしても読めません。一元とは名刹天龍護国寺の中興の祖にして、かの並榎八景絵図の完成者です。ここで不思議なことに気付きました。一元が護国寺にきたのは、寛政七年、つまり明和八年は二十四年前なのでした。 年表風にまとめると
1) 明和八年(1771) 道祖神三基造立
2) 天明三年(1783) 一元豊岡薬師寺の九世となる
3) 天明五年(1785) 2月6日護国寺焼失
4) 寛政七年(1795) 一元護国寺十六世となる
5) 享和三年(1803) 護国寺再建
6) 文化元年(1804) 並榎八景絵巻の完成
となります。4)から1)をひくと24ということです。これが謎でなくてなんでしょうか。
ところがです。高崎の石造物という本をみて、すべてが氷解してしまいました。謎はいとも簡単に解けました。
二基のうち右は、上並榎 松東野啓書 明和八年十二月吉日とあり、左は、新建明和八年、再建亨和三年護国寺一元拝書とありました。つまり護国寺の再建時に道祖神もまた再建したということでした。
大変お騒がせいたしました。ひらにご容赦を。