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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年11月23日

内村鑑三(高崎人物図鑑第8回)

            ”昭和三年十月十九日の日記より抜粋"  

十月十九日(金)晴。上州高崎光明寺に妻と共に先祖の墓に参る。墓参を終へて後に烏川の畔に至り、遥かに榛名碓氷の連峰を眺めながら我が少年時代のこと共を思い出した。
柳川町に我が父の家の跡をたずねた。初めて手習いに行きし白井老先生の邸宅の前を過ぎた。熊野神社は我が迷信時代の崇拝物である。この日丁度その祭礼であった。凡てが六十年前のことである。山の形はかわらず、川は依然として流れる。
そのなかに我が少年時代の友なる淡水魚類は棲む。ただ漁に耽る我を誡める父の声を聞かない。

     
            昭和五年三月二十八日朝死亡。 
             妻は三度目の妻である”シズ”。
            札幌農学校では水産学を専攻し
             北海道開拓使勧業課漁猟科に勤務。   

              光明寺は若松町にて真言宗。
              熊野神社は高崎神社のこと、
              10月19日は秋の例大祭。



       ”明治六年の旧高崎藩貫属明細短冊帳上巻”です

  鑑三の父は内村宣之、祖父は内村善八、
            高祖父は内村丑之助その父は内村杢兵衛。 

  第五区小一区百三十六番屋敷とは上記の柳川町の父の家。

  文久元年三月二十三日に江戸小石川鳶坂の藩武家長屋生まれ。

  父の謹慎に伴い柳川町に移り住んだのは慶応二年十二月、鑑三五歳の時。

  明治六年には、東京外国語学校入学のため東京へ出ています。

  その間に父の石巻県への赴任等もあり、高崎に居たのは
               70歳の人生のうち約5年間だけのようです。

  

Posted by 捨蚕at 20:35
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2010年10月15日

井上房一郎(高崎人物図鑑第7回)

            TAKATAI(2010.10.15掲載)

       遠い日の 五月の晴れた正午ごろ

       チョキン チョキンと薔薇の枝を切る音

         部室の窓から見ると 帽子をかぶった老人

          薔薇の香りと初老の紳士

       黙々と薔薇を手入れしていたとおもったら 

             不意に黒い車で帰ってしまう。 

              
      あれから、どの位の時間がたつたのでしょうか

      激流のように流れ去った時間のなかで

       そこだけが不思議に時間が佇んでいます・・・・。


  

Posted by 捨蚕at 08:20
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2010年09月17日

村上鬼城(錦絵・高崎人物図鑑第6回)

          TAKATAI(1040号・2010・9・17)掲載


いつも年寄りの鬼城を見てましたので、ビックリしてしまいました。

慶応元年七月神田明神近くの鳶坂の鳥取藩邸の生まれだそうです。
  
  神田明神といえば平将門。

将門を強く意識した若き軍人志望の、自由民権運動家の若き日の鬼城のイメージだそうです。

      ちなみに今日は鬼城忌、鬼城の命日です。

   



  


Posted by 捨蚕at 11:10
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2010年08月20日

山田かまち(錦絵・高崎人物図鑑5)


             TAKATAI(1036号・2010・8・20)掲載

               生きていると今年で50歳だそうです。

                 ”野生小動物の突然の死”               
                   そんな気がします。

   

          (江戸歌舞伎の”四天”という衣装だそうです)  

Posted by 捨蚕at 06:27
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2010年07月16日

徳川忠長(高碕人物図鑑4)



  ”TAKATAI”
     7月16日掲載 

信長に酷似と言われてます。 

母方の祖父は浅井長政 
祖母は信長の妹の
  ”お市の方”

幼名は国松にして 
 通称”駿河大納言”


聡明な名君か 
それとも 
ご乱行の大納言か





”関口コウ”さんの忠長卿 
 幻の三代将軍です 

寛永九年十月二十日
   高崎城に幽閉 
寛永十年十二月六日 
 高崎城下大信寺にて自刃 
 
私見ですが、
竹千代(家光)の乳母の 
  春日局  
信長似の忠長が 
嫌いだったのかも、 

なにせ、このお局(つぼね)さん 
光秀と一諸に六条河原で斬首された斉藤利三のお子さんですからね・・・。 



 
葵の御紋の唐門

昭和20年8月14日 
空襲により焼失  

延宝三年(1675年) 
”たたり”を恐れてか 
廟所が造営されました。 

 五輪の墓と拝殿 
唐門と東西二十二間の 
板塀と、

戦前までは高崎の
名所随一だったそうです。

”北の隣の大信寺 
 遺愛の松に葵の紋” 
(高崎唱歌37番より)
  


Posted by 捨蚕at 16:07
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2010年06月19日

田島弥太郎(高崎人物図鑑・3)

 
”TAKATAI”に掲載
 (6月18日) 
 
 日本絹の里の初代館長  
 境町出身・農学博士  
 昨年96歳にて天寿を全う 

腰に三角缶 
 手製の虫取網 
  麦わら帽子 

   そして、少年の 
     緊張の一瞬   

梅雨が終わると
また、あの長かった  
少年時代の夏が
やってきます。   

Posted by 捨蚕at 04:12
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2010年05月24日

青春時代の姿



”TAKATAI”掲載(5月21日)

錦絵高崎人物図鑑 
   第二回 蝋山政道  
   政治学者・議会政治家
   (1895~1980年)

    作 清水英寿


第一回は長野業盛でした。 
第二回は蝋山政道です。 


同紙に実弟六郎氏死去の記事を見ました。






今春、記事にある蝋山六郎さん(政道氏の末弟)の葬儀に参列させていただきました。
亡父が”美峰酒類”時代に御世話になった関係でした。 
お父さんそっくりの、二人の息子さんでした。




 
明治30年2月発行の”高崎繁昌記”です。 

明治26年政右衛門、政次郎父子が、 新潟より移り住み、蝋山酒造をはじめました。 

政道氏は、政次郎氏の御長男です。 


(詳しくは4月23日の迷道院氏の”煉瓦つながり”を参照ねがいます)  


Posted by 捨蚕at 10:37
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2010年04月17日

長野業盛(ながの・なりもり)小発見43

 

”TAKATAI”に掲載(4月16日) 
   
錦絵高崎人物図鑑 
     第一回  長野業盛
   
       
     清水英寿氏作   
         辻村寿三郎に師事 
         高崎在住の人形制作家 












永禄九年(1566年)九月二十九日、箕輪城の落城した日といわれています。 

”その身は持仏堂に入り,父の位牌に三礼し、鎧ぬぎすて一首書く、念仏唱え、腹かき切り自害したりけり”

それも比較的最近のことで、それ以前は永禄六年二月二十二日でした。
箕輪軍記、関八州古戦録、甲陽軍鑑等すべてこの日付だつたためです。 

たとえば、昭和36年4月発刊の”群馬の古城跡”によると、”はなはだしいのは落城を永禄九年とする説もあるくらいで”とあります。それが、昭和50年代以降の発刊の本には、永禄九年説に変っています。

根拠はほぼ次の二点のようです。 
一つは永禄八年二月七日の、上諏訪神社への信玄自筆の箕輪城落城の願文。 
もう一つは、永禄十年三月七日の、下室田長年寺の受連の覚書です。 

特に、長年寺文書の、”永禄九年九月廿九日箕輪落居之上”は、ほぼ決定的となった様です。 

長野業盛さん、43ヶ月寿命が延びたと理解してよいのですかね。  

Posted by 捨蚕at 07:07
Comments(2)高崎人物図鑑