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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年07月31日

散歩の途中で・・・”

①並榎町の390番地辺り    ”仁王の首二つ”  ”あ・うん・の門”
   常仙寺の石段下にある天守閣のある家の門
  

























































②並榎町の300番地辺り    ”猫と戯れる老人”   ”戯猫庵”
 ”水道みち”とよばれた道と分かれてR354を渡って常仙寺に下る
      小道添いの右側の家の門 

  

2010年07月30日

たぶん神聖なもの

   何だろう・・・仏具・・・香炉・・・たぶん神聖なもの

     露天の古物屋さん・・・真言密教の・・・・チベットの・・・梵字かも 

             でも、間違いなく、神聖なものです。













































  

2010年07月30日

鳥(バード)

   ”鳥と女”  吉原英雄(1931・1・3~2007・1・13) 
         版画50/366    1966作品
                 (6.7x6.3cm)









































      恐竜は絶滅しましたが、鳥となって甦ったそうです。
          つまり、鳥の祖先は恐竜でした。     
  


   家の前の電柱に 
   夕方になると 
   二羽、三羽と 
   鳥が集まってきます  

   やがて、 
   物凄い数になって 

   しばらくして 
   見上げると 

   一羽もいませんでした。 
  何処へいったのでしょうか・・・。
   
タグ :吉原英雄


2010年07月29日

ここは廃寺跡・椿町あたり











































ここは椿町と思ったら、なんと本町三丁目でした。かつて、”ステーキのブロンコ”のあった辺りです。その前は昭和元年創業の和洋菓子店”きよ香”があったそうです。 

この本町三丁目の交差点は明治11年9月の明治天皇の行幸までは、十字路でなくT字路でした。 
明治5年11月に廃寺になるまで、ここには真言宗の”普門寺”がありました。天正三年(1575年)の開山といいますから、なんと三百年近くも、ここは境内355坪の玉田寺の末寺の”蓮光山福寿院普門寺”でした。
本尊は大日如来の木像、南向きの山門にして本堂、不動堂、護摩堂があり、北には”遠構え”が東西に走っていました。

3月14日の記事の”弁天さまのいた学校”の弁天堂も普門寺の持分でした。

  


2010年07月28日

場所と時間と私と


私がいる場所は 


 北緯36度20分11秒
 東経38度59分54秒
 標高99M55CM


ここが私がいる場所です。 


 西小の校庭です。



(私は散歩の途中です)







  東西南北の標示と 

   ”基準点№23”と  

  ”ストーン・サークル” 

  この地球の中で 

  この場所は”ここだけ”   

  特別な一地点です

 何故なら私が今いるからです。








 
 時間は午前7時頃  

 ほぼ正確です。

 50年前に、小学生の私がここにいました。 

 25年前に、二人の子供とここにいました。 

 そして今、散歩途中の私がいます。 

 宇宙の時空の座標軸の 

   交差する場所の  

 一点に私が立っています。 

  (でも、私は散歩中です)  


Posted by 捨蚕at 09:41
Comments(2)数字のある風景

2010年07月27日

大橋六号井・スイングの近く









































    5月13日に”大橋七号井”を紹介したままでした。 
      ところが、昨日偶然に散歩中に”大橋六号井”を発見しました。




 ここは並榎町 
 高前バイパスの高架下


 信越線と長野堰と
  旧室田街道を 
   跨いでいます。

 実はこの大橋井 
 4・5・6・7・8は 
 見つかっていますが、 
 その全体像も
 1~3号井のことも  
 何も解っていません。 

 ただ散歩途中の
”数字のある風景”です
 



 
   (余談です )
 話は変りますが
  すぐ東は 
    ジャズ喫茶 
     ”スイング”です  

 閉店の噂を聞きました 

 あまり行けませんでしたが 
 寂しいですね。 

 もう20年も前のことですが 
  ことの成り行きから
 ジャズピアノと津軽三味線の        
ジョイントを企画したことがあります。    
   50枚位チケットを売りました。 

  
タグ :スイング


Posted by 捨蚕at 09:00
Comments(0)数字のある風景

2010年07月26日

三つの看板


      ①小ジャレた看板ですね・たぶん九蔵町です。











































     ②自転車て、質草になったんですね・山田町です。










































     ③ご存知珍竹林です・立派に田町です。
  

2010年07月25日

請地堰(十九の堰の物語Ⅴ)










































  十三番は請地堰、あの有名な新井堰の次の堰です。
  すぐ上流を、チンチン電車が大川を渉った場所でした。

 
ここから分水した水路は 
一路南下して 
北小方面に向かいます。  

ここは赤坂村の字請地(うけち) 

長野堰の北は向請地(むこううけち) 

向請地は昭和にはいって昭和町となりました。 

また請地町には長野堰土地改良区の事務所もあります。
  

Posted by 捨蚕at 22:00
Comments(0)十九の分水堰

2010年07月25日

せ・わはし











































 
 ここは山田町と末広町と
 
 高砂町の境界地点 


 ”う”が消えてしまっていて  

 ”せうわはし”こと”昭和橋”  

   昭和6年1月竣工  

そのころ川沿いにあったのは 
染物工場と米屋の水車 

 橋の模様も水車の模様かな  

懐かしいのは橋のたもとの 
 ”寺西精肉末広支店”  

Posted by 捨蚕at 17:13
Comments(2)橋シリーズ

2010年07月25日

創立のわかる看板



九蔵町の金物屋さん 

”中山道高崎宿史”には

安永年中創立とのこと 

安永年中とは 

1789年~1800年

だとすれば 

Since1700とは・・・・・







 

新町(あらまち)の石屋さん 

弘化2年とは1845年のこと 


たとえば、お茶の豊田園は 
文化年中創立という 
(1804年~1817年) 

たとえば、藤崎総兵衛商店は 
宝永6年(1769年)  


大通りを看板を見ながら歩いていたら 
とりあえず、二つの創立を見つけました。  

2010年07月23日

るなぱあくの木馬(昭和ノスタルジー)

   上毛新聞の記事です。7回連載の最終回でした。 

   木馬は昭和29年の開園当初からあり全国最古だそうです。 

   昔は”前橋児童遊園地”という名称だと記憶してます。

   2007年には国の有形文化財に登録されたそうです。
 









































何時もの癖で新聞の切り抜きを、遡って始めましたが揃いません。 
②が前橋の”呑竜マーケット”③が桐生明治館の”蓄音機”⑥が伊勢崎境の銭湯”さくら湯”⑦が今回の”るなぱーく” 
①と④と⑤は何だったんでしょうか。気になります。  

2010年07月21日

上野十二社(延喜式)

 










































昭和六年八月二十八日、二十九日に十一台の自動車に分乗した六十三名の神職により十二社の巡拝がおこなわれた。


① 一の宮  貫前神社(ぬきさき) ”神秘的な祭事”
         富岡市一ノ宮
         経津(ふつ)主神・比売(ひめ)大神
           

② 二の宮  赤城神社(あかぎ) ”勢多の赤城のからやしろ” 
         宮城村三夜沢   
         赤城神・大己貴命・豊城入彦命・  

③ 三の宮  伊香保神社(いかほ) ”伊香保姫の説話”
         伊香保温泉 
         大己貴命・小彦名命・ 

④ 四の宮  甲波宿称神社(かわすくね) ”穢れをかわに流す神”
         渋川市川島 
         ハヤアキツシノ命・ハヤアキツヒメノ命・ 

⑤ 五の宮  大国神社(おおくに) ”大国主命の伝説”
         境町下淵名 
         大国主命 

⑥ 六の宮  榛名神社(はるな) "神仏集合の霊地”
         榛名町 
         火産霊神・埴山姫神 

⑦ 七の宮  小祝神社(おぼり) ”古代片岡郡の総鎮守”
         高崎市石原町 
         少彦名命  

⑧ 八の宮  火雷神社(ほのいかずち) ”那波氏の神事” 
         玉村町下之宮  
         火雷神  

⑨ 九の宮  倭文神社(しどり) ”織物と養蚕の信仰”
         伊勢崎市東上之宮町          

⑩ 十の宮  宇芸神社(うげ) ”甘楽郡・小一座” 
         富岡市神成
         倉稲魂命

⑪ 十一の宮 賀茂神社(かも) ”源義家ゆかりの古社” 
         桐生市広沢町 
         別雷神ほか20神

⑫ 十二の宮 美和神社(みわ) ”古代豪族三輪氏” 
         桐生市宮元町 
         大国主命 

平安時代に上野の国司は毎年正月に十二社を巡ることから一年の仕事が始まったと、何かの本で読んだ気がする。  
タグ :上野十二社


2010年07月21日

瑠璃庵(るりあん)

赤城山のふもとにある庵です。年に数回ですが”のら人”が集まります。 
今回は”お抹茶”と、”うどん”と、”てんぷら”の会です。
行き場の無いノラ猫が庭をうろうろしてます。












































集まる人は、他称
小説家や俳人や画家です。 
 
例えば、”カッパ・ノベルス”から 
こんな小説をだした人もいます。 

実はこの本は第二作目で 
デビュー作は、 
”明治九年の謀略”でした。 


確か明治の大警視の 
川路利良が主人公 
のようです。

秩父が生む予定の 
偉大な小説家






  瑠璃色は 
 薬師様の色 


 東は薬師
 西は阿弥陀 

 
 ほととぎす 
  ひぐらし 
 ほたる 
  すずめばち  

 鍋割山がみえます。
 
 つい最近まで近くに 
 俵萌子さんがいました。





 
ここの庵主がまたすごい 

藤原業平の子孫にして 
昔はイケメン今ツケメン 

長野業平の子孫にして 
 言動は粗暴 

羽鳥一紅の子孫にして 
 俳句と絵の師匠 

繊細と豪快と 
 人好きと人嫌いと 
猥雑と高貴と 
 一瞬と永遠と 

凡人から見ると
”ごっちゃまぜ”  




     そんな野良猫の集会所のような場所ですが 
       何時しか大切な場所になってきた今日このごろです。  

2010年07月17日

№のない踏切・(踏切シリーズ13)



先日この上豊岡踏切が№10ではないかという指摘をうけました。 

確かに№9の”お堂踏切”と群馬八幡駅のすぐ西の№11の八幡踏切の間にあります。 

でも写真のようなプレートしかありません。 

№も、距離表示もありません。 

どう考えたらいいのでしょうか。







№13となるべき”西馬場踏切”です。 

SLマニアのカメラが並ぶ地点です。 

八幡大門通りの小字名は馬場です。ここはその西にあります。

西馬場(にしばんば)に”馬毛(ばけ)の井戸”という伝説があります。 

八幡太郎義家が八幡宮に参拝の折に、神社の門前に繋いでおいた白馬が手綱を切り大暴れ。 


あげくの果てに、西馬場の民家の井戸に落ちて死んでしまいました。 
慌てて、井戸を埋め知らぬ顔をしてましたが、その後西馬場で井戸を掘ると白馬の毛が出てきて飲料にならなかったそうです。

西馬場では他の村から飲料水を仰ぎ明治、大正まで及んだといいます。


 

  №14にあたる踏切です。  
  
 踏切を渡ると、この道は信越線に添って西馬場踏切まで繋がっています。 
 途中から未舗装の畦道風になってはいますが。 
 古い道のような気がします。


 欠番の10,13,14に、№のない踏切がはまりました。 
 コメントをいただいた”散歩人”さんの考えで、いいような気がしてきました。
 有難うございました。




      さて、つぎは№16の野殿踏切からです。 
      №50の横川駅手前まで何時たどり着けますか、 
             乞う御期待です。   


Posted by 捨蚕at 19:54
Comments(2)踏切シリーズ

2010年07月16日

徳川忠長(高碕人物図鑑4)



  ”TAKATAI”
     7月16日掲載 

信長に酷似と言われてます。 

母方の祖父は浅井長政 
祖母は信長の妹の
  ”お市の方”

幼名は国松にして 
 通称”駿河大納言”


聡明な名君か 
それとも 
ご乱行の大納言か





”関口コウ”さんの忠長卿 
 幻の三代将軍です 

寛永九年十月二十日
   高崎城に幽閉 
寛永十年十二月六日 
 高崎城下大信寺にて自刃 
 
私見ですが、
竹千代(家光)の乳母の 
  春日局  
信長似の忠長が 
嫌いだったのかも、 

なにせ、このお局(つぼね)さん 
光秀と一諸に六条河原で斬首された斉藤利三のお子さんですからね・・・。 



 
葵の御紋の唐門

昭和20年8月14日 
空襲により焼失  

延宝三年(1675年) 
”たたり”を恐れてか 
廟所が造営されました。 

 五輪の墓と拝殿 
唐門と東西二十二間の 
板塀と、

戦前までは高崎の
名所随一だったそうです。

”北の隣の大信寺 
 遺愛の松に葵の紋” 
(高崎唱歌37番より)
  


Posted by 捨蚕at 16:07
Comments(0)高崎人物図鑑

2010年07月15日

追加版”駅からウオーク”

7月5日の上毛新聞の”駅からウオーク”の私的追加版です。
 北高崎周辺の8枚の写真が掲載されています。
   とりあえず、2枚ばかり追加させていただきます。

 両方とも信越線の南の側にあります。


①(上州絹糸紡績の事務所跡)


 その後は東部通信でした 
 
 剣道の道場がありました 
 
 今は商科大のグランドです


 木造のペンキ塗りの事務所 

 大樹と長いアプローチ 

 ”北の国”を連想させます。





 
②(吉田御殿)  


 通称”吉田御殿"です。 

 30年位前はたぶん 

中紺屋町あたりにありました。 

大橋町に移築したんですね。 

 二階の窓から 

三味線の音がきこえそうですね。  

Posted by 捨蚕at 11:05
Comments(0)小発見シリーズ

2010年07月14日

武田家滅亡

 








































選挙速報ではありません、戦国速報です。 
今日(7月12日)の上毛新聞によると、武田が滅亡しました(大敗北どころではありません) 
なぜか総天然色です(本日限定のようです、翌日は白黒でした) 

信長が馬に乗っています。 
真田昌幸が信長に送りました。

武田家の滅亡により上野国は信長配下の滝川一益の支配となりました。 
ですが上信にまたがる北辺は、元武田家臣の真田昌幸の支配下でした。 
すなわち、沼田城、岩櫃城、砥石城のラインです。 

葦毛の駿馬に跨りご満悦の信長も、 
本能寺まで、あと2ヶ月あまりの命でした。  


2010年07月11日

陶枕(とうちん)






  陶製の枕です 

硬いけれど涼しいです 

老子や荘子になつた気分 

仙人や詩人になつた気分


冷酒を手に陶枕をならべて 

初恋と天下国下を一緒に 

語り合いましょう。








両サイドには 

”鶴は千年、亀は万年”や 

”ツバメに松竹梅”の絵 




この曲がり具合が 

微妙かつ絶妙






 

”天壽を全うする”の”天壽”  


私の父の名は國壽(くにひさ) 

兵隊で中国に行つた時  

いい名前だと誉められたそうです。 

村の”学者くずれ”の人が 

命名したと聞いています。  


昼寝には陶枕を 

どんな夢をみるかな・・・。
  
タグ :陶枕


2010年07月10日

龍馬と関わった人達(1)



佐久間象山(1811~1864) 

洋学の第一人者
  通称・啓之助

門弟には、勝海舟・吉田松陰・河井継之助・坂本龍馬・等々。 


元治元年七月十一日、
攘夷派により三条木屋町で
暗殺される。

”西洋かぶれ”の象山さん 
供も連れずに白馬に跨り  
京の町を往来してました。








 山内容堂(1827~1872) 

 晩年は
 山谷堀の料亭有明楼で
 遊興三昧
 別名は”酔侯”
 もしくは”鯨海酔侯”


 ”酔えば勤皇
   醒めれば佐幕”














 陸奥宗光(1844~1897)

 通称 陽之助 
 後には”カミソリ陸奥”

 私見ではありますが、 
 龍馬の後継者は 
 この人かもしれません。 

 若かりし頃の陸奥は、 
 雑踏の仲を他人と 
 ぶっかることなく
 すり抜けることに 
 たけていたそうです。









 

 板垣退助(1837~1919) 

 幼名 乾猪之助 
 
迅衝隊(じんしょうたい)総督
東山道先鋒総督府参謀兼任 

土佐勤皇党の流れを汲む 
この迅衝隊約600名は 
慶応四年一月十三日に 
前年の九月に龍馬が土佐に回漕したであろうライフル銃、壱千挺を手に東征軍として土佐を出発します。

三月六日に甲州勝沼で甲陽鎮撫隊を破ります。

そのころに乾退助から板垣退助に名を変えています。 
なんでも、ご先祖が信玄の武将板垣信形だという理由だそうですが。  


Posted by 捨蚕at 07:45
Comments(0)小発見シリーズ

2010年07月09日

鹿鳴館の花

 ”幕末明治の肖像写真”から勝手に選ばせていただきました。
   (なほ、順不同でありますことを最初に、ことわらせて頂きます)


  伊藤梅子

  伊藤博文夫人    

  馬関の元芸者

  明治10年頃

















 三島みね子

 ”鬼県令”とよばれた
 三島通庸(みちつね)令嬢

 明治20年頃


















 陸奥宗光夫人"恭子” 

 元新橋芸者”小鈴” 

 絶世の美女とのこと


















  

 山川捨松 

 会津藩家老 
 山川尚江重固の末娘 

 日本初の女子留学生 

 大山巌夫人    


  


Posted by 捨蚕at 01:52
Comments(0)小発見シリーズ