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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2011年01月24日

夜泣地蔵と茶釜石が見下ろす踏切

 前回(12月5日)の№45の”お東踏切”から371m西にある”榎踏切”です。

 中山道で言うと、五料の茶屋本陣を過ぎて250mで右折すると
  この踏切を渡ります。
  それを左に折れると、丸山坂にかかります。

 この坂の途中の左手に”夜泣地蔵”その足元に”茶釜石”があります。 








  (茶釜石)

 太田蜀山人の狂歌で有名です。 
        ”五料(五両)ではあまりに高い茶釜石
          ね(音)うちを聞いて通る旅人”

 空の茶釜を打つような音色は中山道の名物でしたとさ。 
 



  (夜泣地蔵尊)

 馬の背に乗せられて深谷まで連れられて、 
  ”五料恋しや”と夜な夜な泣いたのは、
  この地蔵の首だったとさ。

  


Posted by 捨蚕at 22:23
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2010年12月05日

五料茶屋本陣に行く踏切(踏切シリーズ19)

    
前回(10/27)の№44・山岸踏切から482m西にある”お東踏切”です。
          


 中山道とほぼ平行に走る線路の北に、大きな民家が二軒あります。
    その正面が”お東”さん、その左に”お西”さんがあります。


  茶屋本陣は、五料・横川・刎石・山中にあった
           公用旅行者のための休憩施設でした。   
       そう上豊岡にもありましたね。      



   平成16年に死んだ父の後を継いで”お西お東ともの会”の個人会員になったのですが、
   会費未納のため期限切れになってしまいました。
   来春には再入会の予定です・・・・。


   線路はさらに371m先の、№46榎(えのき)踏切をめざします。
  


Posted by 捨蚕at 11:56
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2010年10月27日

№44 山岸踏切

          西松井田駅を出て最初の踏切です。

    R18を越えて、山際を梨ノ木、高墓へと行く道との交差点です。

           まもなく、上りの電車が通過します。




       踏切際に石碑があります。

      ”中島長吉”の碑のようです。

         楫取県令の長男道明等とともに          
         台湾の日本教育に尽力した人とのこと、
         明治29年1月1日台北周辺にて      
         25歳で土匪の蜂起により殺されたとのことです。


      大正5年の慰霊碑の除幕の写真です。

      
      次の踏切は五料茶屋です。      

      高崎駅から25K112Mの地点でした。


  

Posted by 捨蚕at 12:02
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2010年10月07日

もうすぐ横川駅です

        久々の踏切シリーズです。

   確か5月31日の№15の第九中仙道踏切までで、停車のままでした。

      今日は、最終№の№50から発車したいとおもいます。


① 50番 第十五中山道踏切

  板鼻の九からここまでに六箇所の中仙道踏切があるのでしょうか。           

  ここは、例の磔河原の場所。

  信越線を渡った中仙道はここから山際を横川の関所に向かいます。

② 第49番 高墓踏切

  五料村にある11の枝郷の一つが高墓です。

③ 第48番 御所平踏切

  徒歩以外には渡れない小さな踏切でした。

    小学生が通学に通る踏切かもしれません。

  
タグ :高墓御所平


Posted by 捨蚕at 21:56
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2010年07月17日

№のない踏切・(踏切シリーズ13)



先日この上豊岡踏切が№10ではないかという指摘をうけました。 

確かに№9の”お堂踏切”と群馬八幡駅のすぐ西の№11の八幡踏切の間にあります。 

でも写真のようなプレートしかありません。 

№も、距離表示もありません。 

どう考えたらいいのでしょうか。







№13となるべき”西馬場踏切”です。 

SLマニアのカメラが並ぶ地点です。 

八幡大門通りの小字名は馬場です。ここはその西にあります。

西馬場(にしばんば)に”馬毛(ばけ)の井戸”という伝説があります。 

八幡太郎義家が八幡宮に参拝の折に、神社の門前に繋いでおいた白馬が手綱を切り大暴れ。 


あげくの果てに、西馬場の民家の井戸に落ちて死んでしまいました。 
慌てて、井戸を埋め知らぬ顔をしてましたが、その後西馬場で井戸を掘ると白馬の毛が出てきて飲料にならなかったそうです。

西馬場では他の村から飲料水を仰ぎ明治、大正まで及んだといいます。


 

  №14にあたる踏切です。  
  
 踏切を渡ると、この道は信越線に添って西馬場踏切まで繋がっています。 
 途中から未舗装の畦道風になってはいますが。 
 古い道のような気がします。


 欠番の10,13,14に、№のない踏切がはまりました。 
 コメントをいただいた”散歩人”さんの考えで、いいような気がしてきました。
 有難うございました。




      さて、つぎは№16の野殿踏切からです。 
      №50の横川駅手前まで何時たどり着けますか、 
             乞う御期待です。   


Posted by 捨蚕at 19:54
Comments(2)踏切シリーズ

2010年05月31日

中山道と交差するあたり(踏切シリーズ№12) 

 
(踏切シリーズ・№リスト)
№1     前橋街道  
№2     金井  
№3     飯塚   
№4     三国街道 
№5     紡績  
№6     西小学校前  
№7     室田街道 
№8     南 
№9     お堂  
№10      
№11    八幡 
№12    八幡大門  
№13     
№14   
№15    第九中仙道
 



これまで順調に進んできた、この踏切シリーズですが、二つばかり問題点が発生しました。 

第一番目は№10,13,14の踏切の不存在の問題です。  
二番目には”第九中山道”の第九の意味です。

高架などによって踏切が廃止になった場合、欠番となるルールはあるようです。
日本橋からここまでの間に、高崎線を渡る踏切が八箇所あると言うことなのでしょう。 

この二点に関しては、今後具体的に確認したいとおもいます。

当初の鉄道計画では、中山道に沿って高碕、板鼻、安中、原市、松井田、横川の順だったそうです。
江戸日本橋から14番目の板鼻宿は、中山道上州七宿のうちで、最も栄えたといわれます。
板鼻駅の計画もあったそうです。
ところが黒煙が、桑の生育によくないなどの理由で反対運動があり、
板鼻、安中の宿を避け碓氷川の南を西に向かうことになったそうです。 
今まで、中山道の北を走っていた線路は、この板鼻入口で中山道と碓氷川を渡ります。 

最後に”中山道”と”中仙道”、どちらも”なかせんどう”と読みますが、正徳六年の幕府の指令により”中山道”が正式な名称になりました。が写真は中仙道です。仙道のほうが風雅ですね。

         (高碕駅より8K389M)
  

Posted by 捨蚕at 09:56
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2010年05月19日

八幡さまが見下ろすところ(踏切シリーズ№11)


高崎には有名な八幡様が、二つあります。 

板鼻八幡宮(天徳元年・957年)と、 

山名八幡宮(文治年間・1185~1190年)です。 

前者は旧碓井郡八幡村で、”八幡の八幡さま” 

後者は旧多野郡八幡村で、”山名の八幡さま”  

今回は前者、
”上野国一社八幡宮”の 

”八幡の八幡さま”です。 



(地主神社のこと)
八幡さまの西北隅にいまも地主稲荷神社があります。
創建伝説の”青目竹”によると、かってここは稲荷社の森でした。 

ある時、衣冠正しき老翁が、対岸の鼻高から、香煎(麦こがし)をご馳走になりながら、稲荷の森にむけて竹の杖を投げたそうです。杖は翼のある矢のごとく飛んで、逆さに根付き、この地に八幡様が鎮座したそうです。

いまでも毎年、八幡宮に香煎が献じられますが、まず地主稲荷神社に献納されるそうです。


(別当寺のこと) 
八幡様のすぐ東に真言宗の大聖護国寺があります。 
建保二年(1214年)の開山から少なくとも寛永期(1624~44年)まで別当寺でした。 

  突然ですが、東京の小石川音羽の護国寺をご存知ですか。 
  一度、お茶会の道具持ちで仙台平の袴で行きましたが、すごいお寺でした。 
  三条実美、大隈重信、山縣有朋、團琢磨親子、野間清治等々の墓所が
  ありました。 

天明元年(1681年)に創建されたこの音羽の護国寺の初代管主亮賢(りょうけん)は、ここ八幡の大聖護国寺の第24代住職でした。徳川綱吉から生母桂昌院の祈願寺の開山を命じられたそうです。寺領三百石でした。 

別当寺はその後、天台宗神徳寺に、幕末の焼失後はその本寺の板鼻の称名寺が別当を勤めたそうです。 (それで、地主神社の手前に日枝神社がある理由が、理解できました) 


          (高崎駅より6K983M)  


Posted by 捨蚕at 13:49
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2010年05月14日

群馬八幡駅(踏切シリーズ・10)

 

前回は№9の"お堂踏切”でした。
本来なら、№10踏切ですが、存在しません。
ただ”上豊岡踏切”が、群馬八幡駅の手前にあります。

№も距離の表示も有りませんが、小さな白いプレートに名前だけがあります。
(4月26日の”SLが行く”の写真を見ていただくと分かりやすいのですが)  


群馬八幡駅を過ぎて直すぐの所に、この№11踏切はあります。



群馬八幡の駅は大正十三年十月に開業しました。 

高崎~横川間の開通時(明治18年10月)には、この駅は存在しませんでした。 
飯塚駅(北高崎駅に大正8年8月に改称)の次は安中駅でした。 

(エピソード①)榛名登山の出発点 
父が高商の学生の頃、幾人かで榛名登山キャンプをしたそうです。今で言うと卒業旅行ですね。なにせ昭和初期のことです。
群馬八幡駅に集合して、二泊三日の登山でした。沖、本郷、室田、榛名神社を経由して湖畔でキャンプ。
帰りは”ガラメキ”温泉で一泊して箕輪経由で群馬八幡駅に戻ったそうです。当時ガラメキには旅館があったそうです。 
もう二十年前になりますが、子供を連れて”ガラメキ探検”をしました。土管のなかに確かに温泉が湧いてました。
もちろん旅館はありませんでしたが、それらしい石垣や植木がありました。

(エピソード②)カンナの咲く駅 
小学生の夏休み、何度か家族で信州旅行をしました。父の出張に託けての一泊旅行でした。
行き先は松本や松原湖や野沢温泉でした。 
行きは楽しくて興奮状態ですが、帰りの汽車は寂しくて、夏休みが終わるのが寂しくて。 
群馬八幡の駅にカンナの花が、赤や朱色や黄色の花が鮮やかに咲き乱れていました。
次は降りなければならない駅。
そして、一つの夏がまた終わって行きました。 



       (高崎駅から6K531M)  


Posted by 捨蚕at 03:14
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2010年05月07日

観音様が見守る踏切(踏切シリーズ9)

  






















烏川を渡って最初の踏切は、”お堂踏切”という名前でした。 
名前を見て、内心ほつとしました。いい名前ですね。

”下台の薬師堂”という場所です。
が、公民館とお墓はあつても、お堂らしきものは見つかりません。 
公民館のなかに、薬師様が祀られているのでしょうか。

ただ、前庭には石仏や石塔が数多く散在しています。 
写真は”如意輪観音像”です。
 頬杖を突いて、一見横着そうな観音様ですね。 

像には、女人講中、両台、両藤川、文化十三年十月吉日と書かれています。 
踏切手前に、藤川が流れてます。ここの道を進むと上台公民館があります。

古い道筋を思わせる場所、
のどかな、日当たりの良い少し高台の住宅地が続いています。  
剣崎まで続くこの道は、もしかして古い草津街道なのでしょうか。


観音様に見守られたこの踏切が、十二鉄橋を越えた最初の踏切でした。 

       (高崎駅から4K949M)


  


Posted by 捨蚕at 07:12
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2010年05月01日

城址と鉄橋のあるところ(踏切シリーズ8)

 




















      ”№8踏切”                    ”十二鉄橋”



最初に私を踏切マニアにさせた、記念すべき”№8南踏切”です。 
東西70m南北100mの長方形の本郭は、線路で南北に分断されています。 
幅10m、深さ3~4mの堀をめぐらし、南は烏川の崖です。
この本郭を第二郭が囲み、さらに第三郭が北に並び付いていたそうです。


通称十二鉄橋、今は使われなくなった橋桁が、西に向かってそびえています。 
おそらくほぼ明治18年の開通当時のものと思われます。  
この橋の向こうは異郷の地、昭和30年まではなんと松井田とおなじ行政地区の碓氷郡豊岡村でした。

      
        ”高崎駅より3K842M”  続きを読む
タグ :十二鉄橋


Posted by 捨蚕at 20:34
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2010年04月30日

”左しらいわ はるな”道(踏切シリーズ7)

 




















                               (室田街道起点地)

かって明治時代、高崎市街地から信越線を跨ぐ三本の主要道がありました。①の前橋街道④の三国街道、そして今回紹介の⑦室田街道でした。

現在室田に行くバス路線に里見経由と本郷経由の二路線があります。前者は草津街道、後者は室田街道と呼ばれていました。室田街道は草津街道の脇街道として発展しました。

北高崎駅から高崎経済大学までは、新道として明治の末に拓かれました。旧道の起点は相生町でした。
写真は相生町の信号のある交差点の西側部分です。(昭和30年代頃ここには、塩沢酒店、大野理髪店、武井理髪具店、宮川魚店が四隅にありました) 

相生町には木戸(三国街道口)があり、木戸を出て西に左折すると、稲荷横町とよばれる小路があります。
小路の左手に、正一位宝福稲荷大明神があります。
ここが三国街道との追分であり、室田街道の起点でした。  

街道は上和田、下並榎、上並榎と進み、この室田街道踏切を越えて、左折して天龍護国寺の門前を過ぎて、高経大の東に出ました。 

この左折する角に”左しらいわ はるな”の明和八年の道陸神が、あったと想定します。(2月23日のさ迷える道陸神を参照願います) 

上並榎村は三辺を古墳に囲まれた、名刹天龍護国寺のある村でした。また一時期は、下之城とならぶ和田城の支城、並榎将監・庄九郎の居城でした。 

そして、”並榎八景絵図”にあるように、まさに景勝の地でもありました。 

            (高崎駅まで3k550m)  


Posted by 捨蚕at 17:26
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2010年04月26日

SLが行く(踏切シリーズNO・14の予定)

 





















4月25日午前9時46分、”SL列車・碓氷”が行きます。 

場所は群馬八幡駅と安中駅の間、詳しくいうと、”西馬場踏切”と”第三中仙道踏切”の間です。 

余計に解らなくなりましたね。 国道18号線が安中市板鼻に入った辺りです。  

右の踏切表示板、今までと違いますね。
NOも距離表示もありません。ただ名前はあります。 

”西馬場”です。八幡八幡宮の西の馬場という意味でしょうか。  

Posted by 捨蚕at 10:01
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2010年04月26日

我が母校(踏切シリーズ・6)

 



信越線no・5は”紡績踏切”ですが、 

またまたですが、4月3日の”紡績てなあに”に掲載済みのため、  

ひと踏切飛び越えて、信越線no・6”西小前踏切”です。 

(なお、紡績てなあに、は”踏切シリーズ5”に変更しました)





写真の上部、新室田街道(高経大通り)との交差点は、かって丁字路でした。 
何時からかと、聞かれると困るのですが、私が三山幼稚園と西小に通う頃は、間違いなく丁字路でした。 (多分昭和の終わり頃だとおもいます) 


写真の左下が西小、右下が三山幼稚園です。校長は深堀三郎さん。園長は清水吾一さん。 
西小は昭和25年創立だそうです。すると三山幼稚園は昭和30年頃だとおもいます。 
何故かというと、私は名誉ある第一回の卒園児ですからして。(だからなんだ!) 


新・旧の室田街道を結ぶこの道を”西小通り”と名付けます。何故なら両方の街道に”西小入口”のバスストツプがあるからです。
多分、開校と同時に道ができ、踏切ができたと思われます。

拡幅とせずに、”道ができた”としたのには理由があります。  
旧室田街道から長野堰まで西小通りに沿って西側に、小道が北上してます。それも家一軒の間隔で平行しています。 

同級生の清君によると、鳥羽橋もかつて、10m位上流にあつたといいます。 
この道が、元の道だと推定できます。もちろん昭和25年以前のことですが。 


私事ですが、あと数年で親子三代で”西小学校前踏切”にお世話になる予定です。 
 
       高崎駅まで2K927M     

Posted by 捨蚕at 09:54
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2010年04月24日

飯塚停車場(ステーション) 踏切シリーズ・4

 


   橋をわたれば大橋町  

    渋川行きの馬車鉄道 

   長野直江津方面に 

    飯塚駅のステーション 

     
      
     明治41年発行 
      ”高崎唱歌24番” 
        深井小五郎著
 




渋川街道でなく三国街道が良いですね。 
なぜなら、高崎の御城下から四ツ谷の木戸を北上する道は、昔から三国街道ですから。


明治18年(1885年)10月15日に高崎~横川間が開業しました。 
中間駅は、飯塚、安中、磯部、松井田の四駅。
一日4往復で運行時分 は1時間20分。
旅客運賃は、上等1円、中等60銭、下等30銭。    


この踏切も北高崎駅も、正確には大橋町なんです。この場所だけ北に突き出して大橋町なんです。 
それも、幸楽苑のラーメン屋 さんまで、どんな理由があったんでしょうか。


北高崎から電車にのると、4分で高崎駅に着きます。それもたったの140円。 
飲み会の時の、私の最寄り駅です。 

      高崎駅まで2K424M  
   

Posted by 捨蚕at 18:18
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2010年04月24日

電車山のあったあたり(踏切シリーズ3)

 

信越線NO・2踏切は、金井踏切です。 


が、小発見シリーズ21”女学校西通”で、紹介済(2月19日)のため、  

今回はNO・3踏切の飯塚踏切です。 


(なほ、小発見シリーズ21は、踏切シリーズ2に変更させていただきました)







かって、この踏切と北高崎駅の間に電車山がありました。昭和30年に電車軌道は廃止されたそうです。 

ただし、電車山はその後もしばらくありました。写真の樹の向こう側あたりだと思います。

同級生の、のぼる君が、電車山から落ちて腕の骨接のためにしてきた包帯の白さが、勲章のように思えた記憶があります。 

母は何度か、私を連れて渋川の親戚の家に行ったといいますが、残念なことに、いくら思い出そうと思っても、乗車した記憶がありません。 


この踏切を北に行くと、清水内科の裏に字鼠屋敷をみて、長泉寺(愛隣保育園)です。
さらに北上すると飯塚村の中心地の、飯玉神社や常福寺のある、飯塚城跡にでます。 

高崎駅から2K095Mの距離にある、飯塚踏切でした。  

Posted by 捨蚕at 13:27
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2010年04月21日

鉄路の辻(踏切シリーズ・1)前橋街道踏切

  



















新前橋街道踏切  NO・3                   前橋街道踏切  NO・1      
    76K484M                                1K501M    
    上越線                                   信越線   



二つの違いがわかりますか。前橋方向に向かって、手前が前橋街道踏切、清水橋をわたって、次が新前橋踏切。 
上越線のNO・1踏切は、多分いまは無き伊勢崎街道踏切(開かずの踏切)だと思います。 
上越線のNO・2踏切は、大類里道踏切(75K684M)です。(09・12・23のコメント参照) 

不思議なことがあります、上越線は高崎駅ー宮内駅(長岡市)162・6kmとあります。
76・484kmは意味が解りません。どう考えても大宮からの距離です。 
(ちなみに高崎線は大宮駅ー高崎駅で、74・7kmです。) 

右の写真は、信越線最初の踏切です。 (高崎駅から1501mの地点です)

終点横川駅に向ってシリーズを発車します。乞うご期待。  

Posted by 捨蚕at 22:12
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2010年04月03日

紡績てなあに(踏切シリーズ5)

 





















紡績てなあに。
きつと、紡績工場があったんですね。 

大正13年の地図にはなにも、ありません。 
昭和5年の地図には、ありました。 
女学校西道のほぼ、中央から西に道が延びています。 
北四条通と、名付けられています。
長野堰をはさんで、南に工業試験場、北に上州絹糸紡績、発見しました。 
これが、紡績踏切の語源でした。 
戦後、私が子供の頃は、東部通信がありましたね。

右の写真は、当時の事務所の跡なのでしょうか。
いまは商科大のグランド内になっています。 
よく見ると、レトロでいいですね、北海道みたいで。 

     高崎駅まで2K738M  

Posted by 捨蚕at 10:36
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2010年02月19日

女学校西通(踏切シリーズ2)












               










左の地図は、大正13年のものです。女学校西通の字が見えるでしょうか。長野堰が西から東に流れています。橋があります。薬師橋です。その脇にいまも長野堰堰改修碑が立っています。すぐ下流に柿の木薬師があります。
高崎中央銀座通りから成田町を通って図書館の西を北に向かう道です。実践女学校(のちの高市女)はまだありません。

明治三十二年に開校の末広町の群馬県立高等女学校の西ということです。 ハイカラさんが通るような名前のこの女学校西通も、
じつはまだ幅1.8mで一貫堀川には丸太橋がかけられてあるだけの耕作道でした。大八車や馬車は三国街道を迂回して飯塚方面へいったそうです。 

昭和4年に金井新道と呼ばれ道が、開通します。高崎市と飯塚村との合併条件の一つだったそうです。高崎市と飯塚村を結ぶ期待の新道です。信越線を渡ると大字金井、だから金井踏切となります。道は三国街道から長泉寺の前を通る道と交差する地点まで伸びます。さらに昭和6年9月には碓氷社の高崎工場が道沿いに進出しました。

昭和9年の10月には、宮本町にあった実践女学校の新校舎が落成します。この道を挟んで南北のずれはあっても、両側に女学校が出来たわけですね。まさに両手に女学校通りですね。もしかして両手に女学校通り踏切となったかも知れませんね。

昭和町の歩みという本を参考にさせていただきました。

最後に、地図の長野堰に沿っての道を、橋より左を請地小路一号、右を向請地小路一号と書かれていたのに気が付きました。  

Posted by 捨蚕at 04:13
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2009年12月20日

捨蚕の小発見シリーズ其の弐

踏切にNOと名前と距離数の書いてある看板がある事を知っていましたか。 信越線を例にしますとNO4は三国街道踏切 、NO5は紡績踏切、NO6は西小学校前踏切、NO7は室田街道踏切、と言う具合になっています。
NO4 道路は渋川街道ですねNO5 かって紡績工場あり
NO6 西小開校以前は?
NO7 旧室田街道の事です 以上ほぼ納得できたのですが、NO8の南踏切これにはまいりました。が発見!小発見!
高崎市史の並榎城の多分、山崎一氏の地図に本郭の小字が南とある。つまり並榎城の本丸が信越線に分断されたその場所の小字名を付けたのです。よく考えれば当たり前ですね。ちなみに宿、山王前、追手、井戸、等の小字もあるようです。この踏切を過ぎると十二鉄橋を渡り豊岡です。以上お粗末な小発見でした。
  

Posted by 捨蚕at 23:49
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