グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年06月30日

どちらがお好き(その2)



(1926・6・1~
      1962・8・5)

大正25年生まれ
    享年36歳
今生きていれば84歳


モンローのX線写真 
45000ドルで落札

3枚組で1954年の撮影









どちらでもいいようなものですが、しいていえば、ヘプバーンかもしれません。 
何故かといわれても、単に好みの問題ですから・・・・・。


 

(1929・5・4~
     1993・1・20) 


昭和4年生まれ
   享年63歳 
今生きていれば81歳

ローマという名前の 
すぱげっちー屋さんの壁に  
”真実の口”と一緒にありました。 


5月22日のブログを是非 
ご覧ねがいます。  


Posted by 捨蚕at 21:16
Comments(0)小発見シリーズ

2010年06月28日

キーコーヒーの缶

 
このの缶を売っているのことを、知ってましたか。 

 実は、空き缶を捨てようとしたら、 
 妻に聞かれました。 
 この缶をスズランで売っているの知ってる・・・・と。  

デパ地下で確認しました。 
間違いなく、売ってました。
なんと300g缶で、420円。

店員さんに聞くと、たまにお買いになる方がいらつしゃるとのこと。

一応 
  ”あつぱれ”ですか。  


Posted by 捨蚕at 21:39
Comments(0)小発見シリーズ

2010年06月28日

”倭人伝に書かれていたアメリカ大陸”のこと

 
 








































  ご存知”魏志倭人伝”です。 
  正式名は”三国志魏書東夷伝倭人条1988文字"
  でも、私の関心事は邪馬台国さがしではありません。 

  後ろから三行目の、それは下記の十八の文字です。 
   ”又有裸国黒歯国 (また裸国・黒歯国あり)   
    復在其東南   (またその東南にあり)
    船行一年可至” (船で一年で至るべし) 


” アメリカ大陸の存在は当時の倭人の共通の認識”

  昭和46年発行の、古田武彦著”邪馬台国はなかった”の衝撃です。 
   
 (根拠) 
  ①倭人は一年に二回、歳をとりました。したがって船行半年です。 

  ②東南の方向に海流に乗れば必ず到達できる巨大な陸地、という海洋知識。 

  ③日本列島から北米大陸までヨットで三ヶ月、
   南米北・中部までさらに三ヶ月で計六ヶ月。 

  ④エクアドルで発見されたBC・3200年の縄文土器。


 あれから約40年、すでに常識となつているのだろうか。  

Posted by 捨蚕at 01:15
Comments(1)小発見シリーズ

2010年06月27日

続・滝田ゆうの世界











































    夕焼けと影法師、
      気がつくと ”自転車泥棒”の夕焼けでした。
        気がつくと 長い影(影の法師という名前)

   使わなくなった枕木を利用した柵、 
        針金の間から線路を横ぎれました。

   煙を吐く汽車は
     ちがう世界にいつか自分を運んでくれる魔法の箱、






  キヨシの家は
  飲み屋さん
  そのわりには
   ”しつけ”が厳しい


  朝食の前には 
  みんなの前に
   両手を突ついて 
  一人づつ朝のご挨拶 
 
  それをやらないと、 
  ゴハンにありつけません。












 カラカラと 
 まわってましたね。


  お便所の臭気を 
  除去してました。


  
 物干し台がありました 

 隅に屋敷稲荷のある家が 
 ありましたっけ・・・・











  ベイゴマに 
  夢中です。 

 
 おねえさんは
  銭湯です。 

  名前はなぜか
   ”松の湯”です。
  
  
 木の電柱には 
  広告が・・・








 
 さて、ネコのタマのことです 

 空襲警報が鳴り
 B29が空を覆い 
 一瞬にして焼け野原
 ”東京大空襲”です 


 焼け跡に 
 立て札が二つあります。 

 ①移転先・墨田町丹野様方 
      重太郎  
 ②移転先・グンマ県・・・・・・ 
   タマ へ きよし 

 家族は知人宅へ
 きよし は学童疎開へ 
 タマは行方不明と
      なりました。 
  
タグ :東京大空襲


2010年06月25日

”滝田ゆう”の寺島町奇譚・”ぬけられます”


 少年・キヨシは 
  ”玉の井”育ち。
 場末の色町の 
     ど真ん中。


人情下町ドブ板小路 
  メンコ、ベエゴマ、 
  ビー玉、ケン玉、 
悪漢探偵 
  三角べース、 
”ぬけられます”の 
    電気看板


キヨシの家はスタンドバー 
  ”和洋酒のドン” 





 

 むかし高碕の柳川町や  
   前橋の榎町あたりで 
 こんな風景を見たような、
 見なかったような。 


 吉行淳之介が 
 滝田ゆうの絵の特徴は 
 いまいち分からない 
 ”吹きだし”の小さな絵と 
 いっていました。
 

  最初の絵の 
   犬のコウモリと 
   兵隊さんの  
   ジョウロのことです。






 

昭和7年3月1日 
旧向島区寺島町5丁目
本名 滝田祐作 

昭和43年12月号より 
 ”寺島町奇譚シリーズ”始まる 
 第一話は”ぎんながし” 

昭和53年 
 きもの普及賞受賞 
昭和62年 
 日本漫画家協会賞大賞受賞 

平成2年8月25日 
 肝不全のため逝去。
  


2010年06月25日

ダイニングバー”じょう庵”



”タカタイ”の6月25日掲載 

”和食中心の多国籍料理”


今年の四月に

大橋から移転しました。 

こじんまりしてますが、

派手さはありませんが、

それでいて、どこかシャレた 

そんな落ち着いた小店です。 





実は、この”じょう庵”で小中学校の”同窓会らしき定例の呑み会”が
開店以前から続いています。 
出たり入つたりのメンバーですが、
毎月4~5名が飽きもせずに今も集まります。
でも皆61~62歳です。同級生ですから。






それとなく 

こんなものが 

ありました 



















灰皿かわりに 

置いてありました。

















 

是非いちど・・・ 
予約制ですが。 






岩田くん橋爪くん今月は行くよ。 
実は先月は無断欠席でした。  

Posted by 捨蚕at 09:15
Comments(2)じょう庵

2010年06月24日

続・江戸切絵図(小栗上野介№3)

 ①奥さんの実家

 ここは神田明神下 
 播州一万石藩主 
 建部内匠頭の屋敷です。
 (たけべたくみのかみ)

 嘉永二年(1849年)
 建部家の息女”みち”と結婚

 神田明神下といえば 
 銭形平次がいたところ。

 江戸総鎮守の神田明神  
 そのお祭は、一名”天下祭”  

 文久元年九月十五日付の
 自筆の勘定帳によりますと、 
  ”神田祭礼見物ニ付
       座敷料・二分”  
 の出費がみられます。 
 




 ②世界一周の旅の出発地(軍艦操練所)

 安政七年(1860年)
 一月十八日 
 軍艦ポーハタン号に
 乗船し世界一周の旅へと
 出発しました。
 
 実は、このポーハタン号 
 嘉永七年(1854年)の
 ぺりーの再来航時の 
 七隻の軍艦のの一隻でした。 



  遣米使節団 
   正使・新見豊前守正興 
   副使・村垣淡路守範正 
   監察・小栗豊後守忠順
 



批准書の交換は、”日本安政七年申四月三日、千八百六十年五月二十二日”の日付で行われましたが、この日付は存在しない日付となりました。
安政七年三月三日の”桜田門外の変”により”安政”は”万延”と変っていました。


③自宅周辺(日下部数馬と中川飛騨守)
 
 前回忠順の父親である忠高が二軒隣の中川飛騨守宅から養子にきたとお話しました。 

 皮肉なことに、この忠高が家督を継いだあとに、小栗家十代目忠清に男子が誕生しました。

 忠清の次男として届けられたこの子は、日下家に婿養子に入り、日下数馬と名乗りました。 

 少し、見ずらいですが写真中央の小栗家の二軒左にその名があります。 

  


2010年06月21日

江戸切絵図(小栗上野介邸)

 
尾張屋清七板”江戸切絵図” 
 飯田町駿河台 小川町絵図  
 (嘉永二年初刷)     

 神田川の川岸から 
 駿河台下に向かう坂道 
 この道に面して 
 川岸から五軒目にある 
 武家屋敷が、小栗邸です。

 正保図(1644年刷)には 
 水道橋の”小栗坂”に 
 ありましたが、 

 文政十年(1827年) 
 二月十二日の早朝 
 産声をあげたのは 
 この小栗邸でした。 




名前が”豊後守”ですね、この絵図が出版された時は、まだ上野介ではありませんでした。 

安政六年(1859年)十一月二十一日
遣米使節団の”監察・目付”に伴い、従五位下諸太夫に任命され豊後守を拝命。 

文久二年(1862年)六月五日 
勘定奉行就任に伴い、ようやく”上野介”が誕生しました。


小栗忠順(ただまさ)これが上野介の本名です。父親は小栗忠高(ただたか)です。新潟奉行をした人です。 
この忠高さん、じつは二軒隣の家から養子に入っています。 
道をはさんで、”金五郎”の字があります。ここが朝比奈さんの家、その隣に中川飛騨守という名の旗本の家があります。 
ここの忠英さんの四男が、嫡男のいない小栗家の長女”くに”と一緒になりました。 

2500石どり直参旗本の小栗忠高、忠順の誕生の時29歳。母くに17歳でした。 
領地はこの時点で上野・下野・上総・下総にまたがる十三か村でした。 
                                        (未完)  


2010年06月20日

むかし僕らには”ヒーロー”がいた



父の形見の赤胴を 

手にし、お江戸は 

 お玉川が池の

北辰一刀流の千葉道場

少年画報連載の 

ご存知”真空斬り”

 ”少年剣士”

名を名のれ

   ”赤胴鈴之助”だ






  昭和29年8月号より連載開始の”赤胴鈴之助”


  昭和33年2月24日より放送開始の”月光仮面”



 

どこの、だれだか 

知らないけれど 

誰もがみんな、知っている。 


 白いマントにサングラス

 白いバイクに二丁の拳銃


 わが名は月光

         ”月光仮面”






  


Posted by 捨蚕at 21:26
Comments(0)号外

2010年06月19日

田島弥太郎(高崎人物図鑑・3)

 
”TAKATAI”に掲載
 (6月18日) 
 
 日本絹の里の初代館長  
 境町出身・農学博士  
 昨年96歳にて天寿を全う 

腰に三角缶 
 手製の虫取網 
  麦わら帽子 

   そして、少年の 
     緊張の一瞬   

梅雨が終わると
また、あの長かった  
少年時代の夏が
やってきます。   

Posted by 捨蚕at 04:12
Comments(2)高崎人物図鑑

2010年06月18日

妖怪”汽車喰われ”












































碓氷川沿いの公民館の脇に”天満宮”と書かれた、祠を見つけました。 
覗くとこんなすごい菅原道真さんがいました。 

聞くところによりますと、かってはもつと南の線路脇にあつたそうです。 
ところが、この祠の蔭から線路への飛び込みが多く、
やむなく、ここに移したとのことです。


  常木村の由来に、天満宮を筑紫の常木から移したとあります。
  別当寺も旧地同様に、常香山安楽寺と号したそうです。 

ところが、正徳二年(1712年)に火災のため安楽寺は谷津村に移ってしまいました。 
多分、天満宮はそのまま常木村に残ったのでしょうか。

”汽車喰われ”のことを考えると(確認出来ていませんが)そんな気がしてなりません。

なにせ、道真さんの怨霊ときたら、京の都を震いあがらせたそうですから。
それはそれは、強い力の怨霊だつたそうです。



 

  庚申供養塔

  元文五年(1740年)十月
  吉日   

   同・十七人

  常木村  

祠の脇にこんな庚申塔がありました。 
お寺が移った後のことですね。  


Posted by 捨蚕at 02:04
Comments(1)小発見シリーズ

2010年06月16日

浅間山・真楽寺(俳句№15)



北佐久郡御代田町塩野にある真言宗の古刹です。山号は”浅間山”。

群馬から見る浅間山とは別の姿をした浅間山が、寺の背に拡がっています。 


ここは前回ご紹介した”中山道を行く”の北野寺の心海さんの故郷の地です。

このお寺は用明天皇により”火を噴く山”を鎮めるために建てられました。





お寺の前身は、
”木花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)”の浅間神社かもしれません。 
全国に1300社ある浅間神社。富士山と浅間山ともに”火を噴く山”でした。



 ”龍神の
    首もたげたる
         泉かな” 


仁王門の右手に”甲賀三郎伝説”で有名な大沼池があります。 


”湧く玉”のあいだから青銅の龍神が顔を出しています。

今は諏訪湖に住む、龍神さまの誕生の地です。







樹齢千年の神代杉、応永二年の茅葺仁王門、風雪ニ百余年の三重の塔、源頼朝ゆかりの逆さ梅、芭蕉句碑、菊紋の本堂、  とにかく見所満載です。



  

 ”かやぶきの 
   山門うつす 
      植え田かな” 

もしくは

 ”萱ふきに 
   仁王はおわす 
     植田かな”  


お寺の周りには、田植えの終えたばかりの水田が拡がっていました。  


Posted by 捨蚕at 06:03
Comments(4)俳句のすすめ

2010年06月14日

心海さん・中山道を行く(Ⅰ)











































     嘉永五子八月二十二日 
     信州佐久郡塩野村真楽寺格末 
     同郡中山道小田井宿宝珠院発足ニテ
     郷原村自性寺法類ニ付止宿 
     同二十三日安中妙光院登山 
     同二十四日当寺隠居江初之対顔 
     弐本入扇子箱 菓子料金百疋

             (北野寺所有 井伊家御継目記より)

  

安中市下後閑に北野寺という寺があります。 
この寺の住職の快秀さんが隠居しました。 
後任に信州小田井宿の宝珠院の住職である、 
心海さんが選ばれました。 
この心海さん生まれは安中の嶺村でした。 

1852年8月22日に小田井宿を早朝に出発、 
追分宿・沓掛宿・軽井沢宿・碓氷峠を越えて、 
坂本宿・松井田宿を通り郷原村に着きます。 





8月22日の何時に郷原村に着いたかは分かりませんが、関所の閉門が暮れ六つ(午後6時)ですので、 
それ以前に横川を通過したのは間違いありません。 
翌日23日安中の本寺である妙光院に挨拶し、24日に北野寺隠居快(31世)と対面してます。 
その時に扇子2本と銭2500文を手土産としてます。 

さて心海さんこのあとが大変です、江戸の井伊屋敷まで挨拶に行かなければなりません。 
その話は、またの機会にお話したいと思います。
  


2010年06月14日

梵字塔(並榎八景シリーズ①)




ここは天龍護国寺の墓地。 

当寺の代々の住職の墓石。  

その中に変った墓石を見つけました。                 

丸石の中央には五文字、 

密教の宇宙の五大要素である、 

   ”空・風・火・水・地・”

の梵字(サンスクリット語)です。




             ”当寺十四世、智廣上人”

         ”寛政七年(1795年)正月十八日建立”


         


1783年(天明三年)  一元上人慈縁・豊岡薬師寺九世となる。
1785年(天明五年)  二月六日夜、大風のため出火、護国寺焼失。
1795年(寛政七年)  一元上人、上並榎護国寺第十六世となる。
1803年(享和三年)  十月護国寺再建、落成。 
1804年(文化元年)  並榎八景絵図の完成。

”文月浅間記”は”天明三年水無月の末の九日”とはじまります。 
そうです、この年は”浅間焼け”の年でした。浅間山が大爆発しました。 
天明の大飢饉は、天明八年頃まで続きました。 

そんな経済混乱の最中、一夜にして護国寺は焼失してしまいました。 
そして十年後、護国寺再建のため豊岡から一人の僧がやって来ました。 
その最初の仕事が、この梵字塔の造立だつた気がします。 

護国寺中興の祖、信州生まれの一元上人慈縁さん、 
風流の道に造詣が深く、当地一流の文化人でした。 

また高崎城下の風流人である大商人とも深い交流がありました。 
例えば中山道佐野村粕沢茶屋の花岡義旭さん。 
例えば本町の問屋名主の梶山与惣右衛門さん。 
例えば田町の絹商人の羽鳥四郎兵衛さん。

この強い人脈が、護国寺の再建に大きく貢献したはずです。 

ところでこの奇抜なデザインのお墓、一元さんの意気込みを強く感じます。
そして、その意気込みは九年後の並榎八景絵図に集大成されました。 

                              (続く)
                  


Posted by 捨蚕at 09:22
Comments(0)上並榎シリーズ

2010年06月11日

ひとつ間違えれば・”小京都”・

佐賀野川と天龍護国寺(高崎市上並榎町)
               嵯峨野と天龍寺(京都府右京区)
                   似てますね。   
                     


①佐賀野川(別名・佐の川) 
  深い川です 
 北から南へ流れてます。 
 カルガモが飛び出しました。  

 ここは天龍護国寺の東 
 旧室田街道と平行してる
 ところです。       




 実はこの川は 
 上並榎城の濠でした。
 
 川はこの先で 
 90度東に転向します。







 ②転向した川は 
  長野堰の放水路と 
   合流します。  

  この放水路の堰 
  ”十九の堰の物語”の 
  八番の上野堰かもしれま
  せん。 
  いずれにしても、
  七番の高小田堰と 
  九番の上鳥羽堰の間
  にあります。 
  

 









③”余水吐水口”から 
  西流した川は 
  旧室田街道をわたり、 
  竹林の中に
  消えてしまいます。
  
  この竹林の西奥に 
  ”くさや”とよばれる 
  家がありました。 

  馬をたくさん飼っていて 
  馬車で室田街道を下り、 
  十五連隊に軍馬の飼料を
   納めていたそうです。 

 また旅芝居の一座が来ると、 
  芝居小屋にもなったとか。
  







④竹林から現れた川は 
 ここで合流します。 
 そこで方向転換をして 
 ふたたび南下します。 

 三の丸、二の丸を 
 右手にみて本丸、 
 信越線の線路へと 
 向かいます。


  ここは 
  並榎将監と 
  並榎庄九郎の城 

  並榎氏は 
  武蔵国の児玉党  
  和田氏の騎馬衆







⑤以前みた馬頭観世音です 
 金田水車で紹介しました。

 かって、この川沿いには 
 数台の水車がありました。 

 村に響く水車の音は 
 まさに村の鼓動でした。 

 人力が主体の時代の 
  ”水車と馬車” 
 特別な、大切なものでした。  
 

 








  

 ⑥水車を回した水は 
  線路を潜り 
  本丸の東を下り 
  やがて、滝となり 
  烏川に落ちていきます。  

  砦というより立派にお城  

  ”さ川”もしくは”佐賀野川” 

  竹林と水車  

 新比叡山天龍護国寺の甍  

 もしかしたらここは 
 小京都だったかも 
 そんな気がししてなりません。


    


Posted by 捨蚕at 06:54
Comments(3)上並榎シリーズ

2010年06月09日

お地蔵さまのいる橋



はるな白川を渡るところに、
お地蔵さまがいました。

和田山へ行く道です。 


和田合戦に敗れた和田氏
鎌倉から、ここ白川郷和田山に移住しました。

閑喜二年(1230年)和田氏、赤坂に進出。

和田山から和田城(赤坂の荘)へ移りました。








 (お地蔵様の台座の
        道しるべ) 
     


        右 
         いかほ 
         みのは 

 左 
  志らいわ 
  しらかわ


     と読めました。










 

永禄九年(1566年)九月 
おびただしい数の甲軍が、 
白川を逆上っていきました。 
武田軍の箕輪城総攻撃開始でした。 




慶長三年(1598年)     
井伊直政は城を 
箕輪から高崎に移しました。 
神社も寺院も町並も 
ここを下って高崎へ往ってしまいました。 

もしかしたら、この橋のほとりの 
  お地蔵様 
そんな時間と、水の流れを、 
見続けてきたのでしょうか。  


Posted by 捨蚕at 09:21
Comments(2)橋シリーズ

2010年06月07日

”土門拳の昭和”の一部分

 

  ”しんこ細工” 

    浅草雷門  
      昭和29年  


それにしても、なんと  
インパクトのある顔 

いま60歳ぐらいですね 
どこでなにしてるのかな。 

ところで関心は、ハサミです。 
和鋏(わばさみ)です。 

私の祖母は使っていました。  
鯨尺の物指と一諸に。  


それと”木製の引き出し”です。紙芝居屋さんにもありましたね。 
小引き出しの付いた箪笥(タンス)状の箱 
まさに、ドラエモンのポケットみたいでしたよ。
  


2010年06月07日

いつからあるの

     



  あまり 
  意識しません 
  でしたが

  トイレのドアーに 
  
  ずっとありました。












                    





  あとの

  ふたつとは
  
  仲良く
  
  階段の途中 
  
   にあります。









       





   すくなくも 

   
   35年は
   あります。 

  なぜあるか
    考えたことは
     
   ありませんでした。  
  

2010年06月06日

ビスケットの箱の絵









































        ”Cafe La Mille”という店で買ったビスケツトの箱の絵です。 
           ブルターニュ ミルク ビスケツト 
              (リトル ベル)とありました。  


もう三十年も前、家の離れにブルターニュ生まれの女(ひと)が住んでいました。 
 シャギーという名前の犬と、ペルシア猫と、日本人の男と一緒でした。 
    二人の息子が物心が付いた頃のことでした。 


       今その家で”坂本龍馬”を見ています。    


Posted by 捨蚕at 20:52
Comments(0)表紙絵シリーズ

2010年06月06日

権田の東善寺

 


   米軍艦
   ポーハタン号

   遣米使節目付 
    安政七年(1860年)


   小栗上野介忠順
    慶応4年閏4月6日
        午前11時 
  烏川の水沼河原にて斬首 
      享年42歳    


      (トイレの窓です)





         曹洞宗 諏訪山 東善寺 高浜長信寺末
         開山は寛永十年(1633年) 存察大和尚 

 



    ”ふろしき観音”  

フロシキを背負った観音様

   (上野介像の裏です )