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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年04月07日

お地蔵さまは前科者?(小発見シリーズ39)

  




















飯玉山最勝院長泉寺です。飯塚の愛燐保育園の東隣なりです。 
本寺は下横町の興善寺、その第五世勝山全最大和尚により、慶長六年(1601年)に開山されました。 

このお寺には、有名なお地蔵様が二つあります。
一つは、追分のゴルフ練習場の西側から、山門の脇に移ってきた花魁地蔵。 
(ちなみに、この山門は、慈光ビルのあのまっ黒くろ助の、安国寺さんから移築したものだそうです)

もうひとつが、本堂脇にある上の写真、満開の桜の下で花見をしている酒呑地蔵、または縛られ地蔵です。  

明治九年六月九日の郵便報知新聞に、”迷信のかどにより飯塚村の地蔵さま捕縛”の記事があります。 
六月五日に、巡査が出張してきて、地蔵および世話人数名を捕縛したとあります。  

記事の冒頭は、”熊谷県下群馬郡飯塚村の市右衛門といえるものは”と始まります。 
調べみると、明治九年八月二十一日までは、高崎はなんと、熊谷県なんですね。 

記事によると、この市右衛門さん、村内の左近の森を開墾していて、一箇の石地蔵を掘り出したそうです。 
一旦は家に持ち帰った市衛門さんですが、地蔵が本の場所に戻せと、夜毎に泣くため、左近の森に安置したそうです。

ところが、写真にある地蔵横の”左近地蔵尊伝記”によりますと、 
村の呑平な百姓が、夢のお告げにより川底(貝沢堀)から、この左近地蔵を掘り出した、とあります。  

伝説なのですから、川底でも森でもと、お思いでしょうが、私説に引きずり込むためには、新聞記事のほうが、より都合がいいんです。

そこで、左近の森です。三十年ぐらい前は確か井田家のお墓でした。今、微かに残るのは、”左近ビル”の看板と貝沢堀までの”字左近”という小字の地名だけです。(この辺のことは迷道院さんの、昨年の十月アタマのブログを御参照ください)


群馬県の地名という本によると、飯塚村には,社(やしろ)が四つ、寺が二つ、庵が三つ、あったそうです。
また、高崎市誌の中世資料編によりますと、四ヶ所の城郭址が載っています。 
つまり、この13のポイントを繋ぎ合わせたい訳です。これが本音です。 

より具体的には、社は飯玉、雀鏡、稲荷、厳島。寺は真言宗常福寺と曹洞宗長泉寺。庵は日蓮宗の妙信庵と広布庵、それに曹同宗の常黙庵。城郭址は上飯塚城、長泉寺、鼠屋敷と飯塚左近屋敷です。 

社を除いて、シリーズ12で、常福寺・常黙庵・上飯塚城・が繋がりました。 
城郭址の長泉寺は、長泉禅寺となりました。残るは、二つの庵と二つの屋敷です。 

また新聞記事中に”村内に奇妙院といふ法印ありて地蔵の護りをはじめしが”とあります。
この”妙”の字が、妙に日蓮宗ぽい気がします。妙信庵と左近屋敷と奇妙院が、繋がると面白いですね。 
                                                           (次回をお楽しみに・続く)  

Posted by 捨蚕at 11:03
Comments(4)飯塚村のこと