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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年05月31日

中山道と交差するあたり(踏切シリーズ№12) 

 
(踏切シリーズ・№リスト)
№1     前橋街道  
№2     金井  
№3     飯塚   
№4     三国街道 
№5     紡績  
№6     西小学校前  
№7     室田街道 
№8     南 
№9     お堂  
№10      
№11    八幡 
№12    八幡大門  
№13     
№14   
№15    第九中仙道
 



これまで順調に進んできた、この踏切シリーズですが、二つばかり問題点が発生しました。 

第一番目は№10,13,14の踏切の不存在の問題です。  
二番目には”第九中山道”の第九の意味です。

高架などによって踏切が廃止になった場合、欠番となるルールはあるようです。
日本橋からここまでの間に、高崎線を渡る踏切が八箇所あると言うことなのでしょう。 

この二点に関しては、今後具体的に確認したいとおもいます。

当初の鉄道計画では、中山道に沿って高碕、板鼻、安中、原市、松井田、横川の順だったそうです。
江戸日本橋から14番目の板鼻宿は、中山道上州七宿のうちで、最も栄えたといわれます。
板鼻駅の計画もあったそうです。
ところが黒煙が、桑の生育によくないなどの理由で反対運動があり、
板鼻、安中の宿を避け碓氷川の南を西に向かうことになったそうです。 
今まで、中山道の北を走っていた線路は、この板鼻入口で中山道と碓氷川を渡ります。 

最後に”中山道”と”中仙道”、どちらも”なかせんどう”と読みますが、正徳六年の幕府の指令により”中山道”が正式な名称になりました。が写真は中仙道です。仙道のほうが風雅ですね。

         (高碕駅より8K389M)
  

Posted by 捨蚕at 09:56
Comments(1)踏切シリーズ

2010年05月31日

お寺つながり


今日父の七回忌を善勝寺でおこないました。
① 秀関山善勝寺 
(しゅうかいざんぜんしょうじ)
 天正四年創建(1576年) 
 開山 白庵秀関禅師  
 (はくあんしゅうかん)  
 だから山号は秀関山です。 

② 秀関といえば龍廣寺  
 ここも開山は秀関さん

 慶長三年建立(1598年)
 山号はなんと”高崎山” 
 なぜなら高崎の名付け親 
 
③ 龍廣寺といえば僧三さん
 十八世卍庵層三大和尚 
  当代一の文学僧 
 僧三詩抄・高碕名勝二十景 
  
 
④ 僧三さんといえば常黙庵 
 常黙庵といえば千部供養塔 
  千部塔の文字は僧三筆
 (1月23日 続飯塚城参照)  

⑤ 千部供養塔といえば
   百足屋さんや松屋さん
  塔の施主は本町の商人 
  百足屋弥七
  松屋伊平
  ほか十四名 
 (3月1日本町一丁目参照)  


多少、強引でしたが、 
なにせ父の七回忌、
ご勘弁のほどを・・・・    (完) 

  


Posted by 捨蚕at 00:28
Comments(0)号外

2010年05月29日

山名八幡物語(九)・中村俊達のこと(3)

 

① 中村元良    
    安政四年三月三日

② 中村俊達・46歳    
  元冶元年十一月十六日 
     
   みほ(妻)・64歳  
   明治十八年十二月二日

③ 中村元信・43歳    
  明治二十四年六月十五日  


時宗・光台寺
(高崎市山名町甲310)
中村家の墓の過去碑の一部です。 




①~③で三世です。俊達さんが死亡した年は、父親(元良)の七回忌の翌年で、妻(みほ)42歳、息子(元信)15歳でした。
碑文によりますと、中村家は代々医者で、ご先祖の玄益さんのころは、”山本の里”といいますから、”山ノ上碑”のある村に住んでいたそうです。 
元良さんの性格は、”豪放にして人を遇するに貴賎を分かたず”とあります。また後進の指導を善くし、その名声は近遠に鳴り響き、学びにくる人も多かったそうです。高碕や吉井の城主が高禄で召抱えようとしても、固く辞して教導をもって生涯を通したそうです。


元良さんには子供がなく、剛毅・英邁で見識の卓越した吾妻郡出身の俊達君を養子に迎えたそうです。 
おそらく、お弟子さんの中から選ばれたような気がしてなりません。 
それにしても、奥さんの止めるにもかかわらず医師の数が少ないという理由で志願従軍を瞬時に決断してしまう行動力には、驚かされます。  


当時15歳の一子・元信さん。明治になり教職につくかたわら防疫に功績があったと碑文にあります。 
その性格は清廉潔白にして篤実とありました。生徒達に惜しまれつつ明治24年に病死とありました。  


最後になりますが、
”中村家三世ノ碑”が建立された時の山名八幡宮の宮司は高井菊水氏でした。 
下仁田戦争のときの宮司はその父親の高井信重氏でした。 
幕末・明治の激動をどんな思いで過ごしたのでしょうか。
  

Posted by 捨蚕at 06:15
Comments(0)山名八幡物語

2010年05月28日

山名八幡物語(八)中村俊達のこと(2)













































”中村家三世の碑”です。青梅の実のなる崖に東を向いて碑があります。 
石碑には四百数十字の漢字が、ビッシリと刻まれていました。
生前に父が書き下し文にした俊達の部分を、以下に抜粋してみます。

 名声は嘖々(サクサク)として、
 郷党は敬仰(ケイギョウ)せり
 江戸幕府の末造 (マツゾウ)に会し、
 海内(カイダイ)騒然たり  
 水府(スイフ)武田好耕雲斎 
 具徒を率いて高碕を過ぐ、
 藩主松平右京亮これを追撃す。   
 君奮して従軍し下仁田に至り 
 昼夜にわたり格戦す、
 藩軍不利にして救療(キュウリョウ)のことに従いて捕らえらる。
  敵将その才を惜しみ従軍せしめんと欲す、
 君まなじりを決し叱咤(シッタ)していわく、
 ”志士あに羞辱のもとに頭を屈して生をもとめんや。
 汝ら烈士の終焉を見よ”と、
  従容と端座して屠腹す。 


その性格は英邁にして剛毅の俊達さん、11月15日の山名近くを通過する天狗党追討軍の高崎藩兵の隊列を見て、医師の少ないのに驚き、出願従軍医師として隊列に加わりました。
11月16日の早朝、高崎藩の本陣の救護班で他の医師と負傷者の手当てをしていた俊達さん、乱入してきた敵と白兵戦のすえ袈裟懸けに二太刀を浴びて、深手を負い捕らえられてしまいました。

11月16日昼過ぎ、南牧川と西牧川の合流する青岩河原。 
七人の高碕藩士等は、近所の家から持ってきた畳の上に列座され、首を刎ねられました。
    
     1) 二木助五郎    48歳    捕らわれて息子(千代之助)首と対面
     2) 高月鎗三郎    19歳    両腕骨折にて捕らわれる
     3) 関口定七     不明    富屋の屋号で田町の旅籠屋、隠密とし
                          て下仁田に潜入し、捕らわれる。
     4) 竹内喜平治    59歳    二番目の高齢者・第二番手甲士徒士
     5) 田上繁蔵     52歳   第一番手の先手足軽
     6) 山崎磯平     42歳   第一番手の足軽目付
     7) 中村俊達     46歳   医師

翌17日本誓寺に仮埋葬された遺体を引き取りに、高碕から犠牲者の家族や藩士がやって来てました。 
同日、三十六個の棺をのせた荷車は高碕に到着しました。 

俊達さんの遺体は、山名の時宗の寺”光台寺”に埋葬されました。 
次回は”光台寺”から始める予定です。 


ところで、一人気になる人物がいます、田町の旅籠屋関口定七さんのことです。 
”とみや”の屋号のため富屋定七とも呼ばれていました。 
天狗党の宿営する下仁田に火を放つ目的で、商人姿で潜入し巡回兵に怪しまれて捕らえられました。 

この旅籠は昭和の初期まで”富屋定七旅館”として存続したそうです。 
”高碕繁盛記”に”旅店 田町 富屋号 関口定七”と確認できました。 
(ちなみに、安国寺に供養塔があります)  


Posted by 捨蚕at 09:01
Comments(2)山名八幡物語

2010年05月26日

山名八幡物語(七)・中村俊達のこと(1)

 
中村俊達(なかむらとしたつ)

観音山・清水寺の田村堂にある”高崎藩三十六勇士”の木像の一つです。   


木像堂由来には、

”元治元年武田耕雲斎等
攘夷を唱えて水戸藩を脱して京都に向かうや
幕命により高崎藩士
これを下仁田町の小坂に討ち
三十六名の戦士者を出す、
ここにその木像を安置して
忠誠を永遠に伝えるものである”
     とあります。 

(大正二年、下仁田戦争五十周年を記念し、戦死者の木像が祭られました) 


明治29年11月16日上野鉄道の開通の除幕式の日、 
下仁田の小学生が二列に並んで、こんな歌を合唱しながら行進したそうです。 
        
         元治元年 霜月の   
         十六日の 朝まだき 
         高崎藩の 二百人 
         筑波おろしの 武田勢 
         一千余人の 戦いに 
         打出す砲声 ものすごく 
         鎬(しのぎ)を削る 太刀かぜに 
         打死なせし その数は 
         合わせて 三十余人なり



またこの戦争には、高碕藩から三人の医師が従軍します。 
そのうち、二人が戦死しました。 
(正確には、共に負傷者の手当て中に、一人は戦死、もう一人は捕らえられて下仁田青岩河原にての切腹でした)
下条元理(34歳)と、今回の主人公である山名村の医師、中村俊達です。

元冶元年(1864年)十一月十六日のことでした。
明治になる、ほんの四年前の出来事でした。


山名八幡宮には大正十五年四月十五日建立の”中村家三世ノ碑”があります。 
石段の左手の社務所の裏に、傾きかけてひっそりと、この石碑があります。 
子爵・大河内輝耕の撰ならび書とあります。 
高崎藩最後の藩主、大河内輝声の三男の方とのことです。 

  (続きはこの碑にそった話になる予定です)  


Posted by 捨蚕at 12:15
Comments(5)山名八幡物語

2010年05月25日

気になるシリーズ⑧・潜る

 























烏川の河川敷でこんな標識を見つけました。 
つまり、直径450mmの上水道管が、烏川の底を約300m潜ってるということ。 

”水道みち”と呼ばれた道があったそうです。 

明治43年、矢島初代市長のもと、剣崎浄水場から里見経由室田街道沿いに豊岡まで埋設された上水道管は、 豊岡側から烏川の底を潜って上並榎側に上がりました。 
この上水道管は、本郷経由の旧室田街道の南を一直線に”水道みち”の下を本町まで施設されました。


でもそれは、十二鉄橋の下流とのこと、 ここは鉄橋の上流です。 
でも多分”平成の新水道みち”が、ここから始まっているのでしょうね。
  


Posted by 捨蚕at 20:30
Comments(0)小発見シリーズ

2010年05月24日

青春時代の姿



”TAKATAI”掲載(5月21日)

錦絵高崎人物図鑑 
   第二回 蝋山政道  
   政治学者・議会政治家
   (1895~1980年)

    作 清水英寿


第一回は長野業盛でした。 
第二回は蝋山政道です。 


同紙に実弟六郎氏死去の記事を見ました。






今春、記事にある蝋山六郎さん(政道氏の末弟)の葬儀に参列させていただきました。
亡父が”美峰酒類”時代に御世話になった関係でした。 
お父さんそっくりの、二人の息子さんでした。




 
明治30年2月発行の”高崎繁昌記”です。 

明治26年政右衛門、政次郎父子が、 新潟より移り住み、蝋山酒造をはじめました。 

政道氏は、政次郎氏の御長男です。 


(詳しくは4月23日の迷道院氏の”煉瓦つながり”を参照ねがいます)  


Posted by 捨蚕at 10:37
Comments(3)高崎人物図鑑

2010年05月22日

どちらがお好き


      昭和9年 
     
       サッポロビール
   
       札幌麦酒



















 
     昭和10年 
     
     キリンビール 

     麒麟麦酒  

2010年05月21日

もしかしたら・高崎炎上 (十九の堰の物語Ⅳ)・新井堰

 




















高崎志に”用水掘ハ当住吉町ノ北西ノ背ヨリ支水ス、是ヲ新井堰ト呼ブ、スナワチ駅内ノ用水ノ源ナリ”とあります。   

元冶元年11月に天狗党が高崎に近付いた時も、明治2年10月の五万石騒動の時も、”新井堰の水の手を止めて城下に火を放つ”という、噂がまことしやかに流れたそうです。 
当時の人々にとっては、周知のことだったんですね

もしも、長岡藩や会津藩のように、高崎藩が薩長の官軍と戦ったとしたら。 

官軍はまず、新井堰を占拠し、城内への水の手を押さえたでしょう。
そして北西からの風を期して火を放したことでしょう。
さらに七口のうちの、中山道の常磐町口から、室田街道と三国街道からの隊は相生町口に、また一隊は江木新田口から怒涛のように攻め寄せたでしょう。

ここ新井堰は、まさに攻城の要所であり、最大の激戦が予想されます。 

敗れた藩主等は、西の丸あたりから烏川を下り、舟で江戸へむかつたかもしれませんね。

高崎城下が灰燼に帰さなかったことを、先人に感謝しなければとおもいます。 


  大きな樹が、長野堰を見下ろしています。 
  三本の大樹ですが、一つに見えたり、二つに見えたりします。 
  場所により一本に見えるこの巨大な樹は、
  堰のほとりで、様々な時の流れを見続けたことでしょう。 

              (十九の堰のうちの第十二番の堰です)  続きを読む


Posted by 捨蚕at 20:59
Comments(0)十九の分水堰

2010年05月21日

かるがも

 








































かるがもの親子をみつけました 

    大川の請地堰のところでした。 

     小さな男の子とお母さんが 
      
          覗き込んでいました。

この、ほほえましい風景の 

        いつまでも続くことを祈りつつ 

                   とおりすぎました。  

Posted by 捨蚕at 06:53
Comments(2)小発見シリーズ

2010年05月20日

映るものたち(気になるシリーズ⑦)

 
堤防を歩いていると 

巨大な 

スクリーン・ミラー 


河原と青空と白い雲と 

ちいさな自分と 

右から三つ目

下から二つ目


これは高経大の校舎   

堤防上の散歩道





  

Posted by 捨蚕at 13:31
Comments(0)小発見シリーズ

2010年05月19日

八幡さまが見下ろすところ(踏切シリーズ№11)


高崎には有名な八幡様が、二つあります。 

板鼻八幡宮(天徳元年・957年)と、 

山名八幡宮(文治年間・1185~1190年)です。 

前者は旧碓井郡八幡村で、”八幡の八幡さま” 

後者は旧多野郡八幡村で、”山名の八幡さま”  

今回は前者、
”上野国一社八幡宮”の 

”八幡の八幡さま”です。 



(地主神社のこと)
八幡さまの西北隅にいまも地主稲荷神社があります。
創建伝説の”青目竹”によると、かってここは稲荷社の森でした。 

ある時、衣冠正しき老翁が、対岸の鼻高から、香煎(麦こがし)をご馳走になりながら、稲荷の森にむけて竹の杖を投げたそうです。杖は翼のある矢のごとく飛んで、逆さに根付き、この地に八幡様が鎮座したそうです。

いまでも毎年、八幡宮に香煎が献じられますが、まず地主稲荷神社に献納されるそうです。


(別当寺のこと) 
八幡様のすぐ東に真言宗の大聖護国寺があります。 
建保二年(1214年)の開山から少なくとも寛永期(1624~44年)まで別当寺でした。 

  突然ですが、東京の小石川音羽の護国寺をご存知ですか。 
  一度、お茶会の道具持ちで仙台平の袴で行きましたが、すごいお寺でした。 
  三条実美、大隈重信、山縣有朋、團琢磨親子、野間清治等々の墓所が
  ありました。 

天明元年(1681年)に創建されたこの音羽の護国寺の初代管主亮賢(りょうけん)は、ここ八幡の大聖護国寺の第24代住職でした。徳川綱吉から生母桂昌院の祈願寺の開山を命じられたそうです。寺領三百石でした。 

別当寺はその後、天台宗神徳寺に、幕末の焼失後はその本寺の板鼻の称名寺が別当を勤めたそうです。 (それで、地主神社の手前に日枝神社がある理由が、理解できました) 


          (高崎駅より6K983M)  


Posted by 捨蚕at 13:49
Comments(4)踏切シリーズ

2010年05月18日

第一番堰・我峰(十九の堰の物語Ⅲ)

   





















水神様の足元から突然に、水がゴウゴウと流れ出していました。  

上流の烏川の取水口から”白川ノ水底埋樋ニテ通”と古い書物にもあります。  

まさにここが高崎を横断して流れる、長野堰の始発点でした。

水の流れは意外に早く、早足でないと追いつきません。 

高関の円形分水までどの位の時間でいくのでしょうか。

写真の滝状の地点が我峰堰と思われます。





  

Posted by 捨蚕at 16:32
Comments(0)十九の分水堰

2010年05月17日

号外版・お香のすすめ(Ⅱ)

 






















  (今朝の上毛新聞の県央版に、この記事が載りました)

新聞の写真で香を聴いている女の子(七歳)は、六人の正解者のひとりでした。


高崎藩主大河内氏のご先祖の源頼政にちなんだ、”新菖蒲(あやめ)香”です。 

御家流の家元は、大河内氏の前の高崎藩主の安藤三代の御子孫です。 

両家とも譜代大名ですが、大河内氏は新参譜代、安藤氏は三河譜代と区別されるそうです。 

そう講話される堤克政氏は、大河内高崎藩の家老の御子孫にて、頼政神社の総代をなさっております。 


   鵺(ぬえ)退治で有名な源三位(げんざんみ)頼政卿(きょう)は、
   鬼(酒呑童子)退治で有名な源頼光の曾孫さんです。
 

    ”五月雨に池のまこもの水まして 
                 いずれあやめと引きぞわずらふ” 

   この一首で頼政は菖蒲御前の心を射止めたとか。 


源氏香、七夕香、三夕香、除夜香、と様々な香立てがありますが、その背景には膨大な古典の知識の山脈がありました。 

お香は、たんに臭覚の問題だけでは、どうも収まらないようです。
  
タグ :三位


Posted by 捨蚕at 23:19
Comments(5)号外

2010年05月16日

奪衣婆(だつえば)・俳句№14

 

”ふところに
   銭六文の
      梅雨(つゆ)の旅”    
  (平成16年6月 捨蚕) 

”青梅を 
  六つ供えて 
       一回忌” 
 (平成17年6月 捨蚕)  


"丹念に
  摘む青梅や
    三回忌
 (平成18年6月 捨蚕)   

 


(飯塚の常福寺の山門左にあります)


三途の川を渡るのには、六文の銭が必要だそうです。 
銭のない亡者は、この奪衣婆に衣類を剥がされてしまいます。  
剥ぎとられた衣類は、懸衣翁(けんえおう)によって、 
衣領樹(えりょうじゅ)の枝にかけられます。  
その重さはまた、業(ごう)という罪の重さだそうです。 


今年の6月6日は父の七回忌です。
  

Posted by 捨蚕at 08:34
Comments(3)俳句のすすめ

2010年05月15日

号外版  ”お香のすすめ・Ⅰ” (第13回市民文化祭)

 

歴史講話   頼政神社  
        総代 堤克政氏  

香道体験会  ”新菖蒲香” 

 於     山名八幡宮  

主催    瑞香会
      (安藤家・御家流) 

後援    山名八幡宮 
       高崎市文化協会 


日時   5月16日(日) 
      午前10時より 
      正午 まで   


    香席券は満席ですが、見学は可能です。




  

Posted by 捨蚕at 08:52
Comments(0)号外

2010年05月14日

群馬八幡駅(踏切シリーズ・10)

 

前回は№9の"お堂踏切”でした。
本来なら、№10踏切ですが、存在しません。
ただ”上豊岡踏切”が、群馬八幡駅の手前にあります。

№も距離の表示も有りませんが、小さな白いプレートに名前だけがあります。
(4月26日の”SLが行く”の写真を見ていただくと分かりやすいのですが)  


群馬八幡駅を過ぎて直すぐの所に、この№11踏切はあります。



群馬八幡の駅は大正十三年十月に開業しました。 

高崎~横川間の開通時(明治18年10月)には、この駅は存在しませんでした。 
飯塚駅(北高崎駅に大正8年8月に改称)の次は安中駅でした。 

(エピソード①)榛名登山の出発点 
父が高商の学生の頃、幾人かで榛名登山キャンプをしたそうです。今で言うと卒業旅行ですね。なにせ昭和初期のことです。
群馬八幡駅に集合して、二泊三日の登山でした。沖、本郷、室田、榛名神社を経由して湖畔でキャンプ。
帰りは”ガラメキ”温泉で一泊して箕輪経由で群馬八幡駅に戻ったそうです。当時ガラメキには旅館があったそうです。 
もう二十年前になりますが、子供を連れて”ガラメキ探検”をしました。土管のなかに確かに温泉が湧いてました。
もちろん旅館はありませんでしたが、それらしい石垣や植木がありました。

(エピソード②)カンナの咲く駅 
小学生の夏休み、何度か家族で信州旅行をしました。父の出張に託けての一泊旅行でした。
行き先は松本や松原湖や野沢温泉でした。 
行きは楽しくて興奮状態ですが、帰りの汽車は寂しくて、夏休みが終わるのが寂しくて。 
群馬八幡の駅にカンナの花が、赤や朱色や黄色の花が鮮やかに咲き乱れていました。
次は降りなければならない駅。
そして、一つの夏がまた終わって行きました。 



       (高崎駅から6K531M)  


Posted by 捨蚕at 03:14
Comments(0)踏切シリーズ

2010年05月13日

大橋七号井(数字のある風景①)






 





















”数字のある風景”という言葉が頭に浮かぶ。 
テレビだとおもうが、内容はすでに忘れている。

七号井戸があるということは、一号から六号まで、あるということ。 
どこにあるのだろうか。 

なぜか気になるが、水道局に聞く気はまったくない。 

ただ、漠然と気にしている自分がいるだけ。
  


Posted by 捨蚕at 07:08
Comments(2)数字のある風景

2010年05月12日

高おた(十九の堰の物語Ⅱ)・稲荷橋あたり

 




















子供の頃、私は不幸にして”おた”という言葉を、口にした記憶はありません。 


ただ、高崎市街地周辺の子供にとって、”おた”と”やま”は身近な言葉だったようです。 

”おた”とは堰のこと、水遊びの場所、川遊びの場所、そして少し危険な場所。 

”やま”とは例えば、坊主やま、電車やま、ドングリやま、稲荷やま、虚空蔵やま、

棒を持って仲間が集まる場所、野遊びの場所、冒険心をそそる場所。 



”高おた”は十九堰の第七番目の高尾田堰ですが、写真では高小田堰です、

尾田も小田も、おたです。たぶん”落差のある堰”のことなのでしょう。

  

Posted by 捨蚕at 07:59
Comments(2)十九の分水堰

2010年05月11日

閉店した質屋さん(気になるシリーズ⑤)

 





















もう十年も、ホトトギスが、啼き続けています。 
 
戦後に質屋さんを、始めたと聴きます。 

先日紹介した”芙三恵酒場”の道前です。 

踏切脇には長い間、交番(大橋町巡査派出所)がありました。 

古い地図には、松村質流店、松村中古自転車販売、しずかはぎれ店、横田青果店、大橋食堂、外内時計店、高崎魚菜市場と商店が続いていました。 



ところで、この句どこかで聞いた気がします。

 ”啼き捨てて いずこへ飛ぶか ほととぎす” 
 武雅(本名大沢松五郎 上並榎字南の名主)の辞世の句でした。  
 ”並榎八景の筏場の夕照”の作者です。

この質屋さんの店主もその数年後に、亡くなったと聴きます。




  


Posted by 捨蚕at 09:57
Comments(1)小発見シリーズ