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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2011年08月02日

一つの記憶として

突然にスーパーが無くなりました。

あまり行かなかったけれど、カードはありました。

ポイントはほとんどありませんでしたが・・残念です。

 そう云えばライブドアの一株券も、

  祖父が残した戦時国債券も、

   親父が残した美峰酒類の私名義の小額株券も、

まあいいか、だから、このカードも永久保存とします。

ささやかな、私の歴史の記憶として・・・。

  

Posted by 捨蚕at 08:25
Comments(1)上並榎シリーズ

2011年03月23日

煙出て見よ

   海が怒ると津波になります、山が怒ると噴火します。
   妻が怒ると私は萎縮します、私が怒っても何も起きません。   

   ところで、この句碑は上並榎のテニスコート脇の坂道に、
   白浅間を睨んで建っています。
   裏面に昭和35年9月17日建立とありました。 

   昭和13年9月17日に並榎の自宅にて73歳で亡くなりました。
   
   この碑も当初は”かっての筏場河原、現在の君が代橋際、
    並榎坂下交番脇に建てられてある”
         と高崎の散歩道に金井先生が書いています。
   すると、その後君が代橋児童公園内に、
          その後に現在地へと移転したようです。


   独立峰の美女である白浅間も、羽鳥一紅の”文月浅間記”にあるように、
   時として、憤怒の形相となること度々でした。

         ”ドンとして 東火薬所 西浅間”  
        死んだ祖父が、よく言っていましたつけ・・・・。




  

Posted by 捨蚕at 02:55
Comments(0)上並榎シリーズ

2011年03月10日

かくありなん

   井伊直政の築城時もかくありなん
        (市庁舎)



  並榎八景絵図の”烏川の帰帆”もかくあらん
     (一紅の養子羽鳥麦仙)




    橋わたる西瓜泥棒かくもありなん
      (豊岡は西瓜の名産地)

    創建時の奈良の都もかくあらん
      (天龍護国寺の門前)


    京の都の嵯峨野の川もかくありなん
      (この川の名前は佐賀野川)


    こんな高崎がすきです
  

Posted by 捨蚕at 21:34
Comments(2)上並榎シリーズ

2011年02月11日

雁田川に沿って(1)

 その川はこの堰で南下します。  
 名前は北部排水路、昭和27年に完成しました。
 それ以前ここには、雁田川が流れていました。

 その昔三国街道の上飯塚村より西は雁田と呼ばれる低湿地帯でした。
 ヨシやアシの生い茂る、雁の一大生息地でした。 



 今の住宅地図を見ると、ここは並榎町の一番地でした。
 ここより北は全て下小鳥町、西は上並榎町、東は飯塚町。
 この川に沿って、細長く並榎町は南下して行きます。





  並榎八景絵図の景六に雁田の落雁(らくがん)があります。
  この絵図は文化元年(1804)に上並榎村の護国寺の一元上人の主催で、  
  本郷の狩野派の画人神宮守満によって描かれました。

    ”秋はまず をのが名にあふ田のもとや  
            ここにおちきて あさる雁がね” 
                知恒(ともつね)

  大沢知恒の本名は大沢佐市、高崎田町の大商人でした。





  たまに合鴨や、白鷺をこの汚れた川に見かけることがあります。
    この生物の遺伝子は、かつて生まれ育った場所を記憶しているのでしょうか・・。
    私のDNAもこの雁田を記憶しているのかも知れませんね。  


Posted by 捨蚕at 12:18
Comments(0)上並榎シリーズ

2010年09月28日

見捨てられた年号たち

           例えば神社(日枝神社)の隅に、
      無造作に捨て置かれた、壊れた鳥居の石柱。

   よく見れば、享保(1716~1736)の文字、 
      十三年四月、戊申(つちのえさる)、寄進、
           と読めます。
 *すぐ隣の護国寺の焼失は天明五年(1785年)の二月六日の夜の事でした。    



      例えば、寺院(天龍護国寺)のはずれには、 
   無縁仏の墓石がひとかたまりに集めてあります。


    よく見れば、文化(1804~1818年)
            文政(1818~1830年の文字。


*現在の本堂は享和三年(1803年)十月の再建、落成でした。



  


Posted by 捨蚕at 22:54
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2010年09月12日

いろんな看板が・・・

  タバコを買いにいったらいろんな看板がありました。

       タイム・クリップのショーウインドに、
           ヘヤーサロンですかね、 
       最近模様替えのパスタ屋さん、
             どんなものが出る店ですかね、 
        イタリアの地図がありました。






  

Posted by 捨蚕at 11:49
Comments(1)上並榎シリーズ

2010年09月09日

バス・ストップの名前から・・

今も家畜市場前という名前のバス停があります。
北高崎駅前を出て三番目の停留場です。 
西小学校前・県営住宅前・家畜市場前と、続きます。

もちろん、50年前には高前バイパスは存在していません。
”高崎家畜保険衛生者社”とあるところに、バイパスができました。

スギ薬局とその東の空き地が高崎家畜市場でした。
子豚市の日には、よくトンビが上空を旋回してました。

  (実はこれ1月11日の無映像ブログ・家畜市場前のカバーブログです)




焼失した大谷食堂が市場の前にありますね。
今は”ラーメン清香”があります。(ビールセット千円がお得です)

食堂の北を走る道は、かって飯塚村と上並榎村を結ぶ重要な道でした。
”追川通り”ともよばれる長泉寺の前まで通じている道です。

 
この地図は昭和36年版、作成が35年とすると、右下にある我が家は34年に大橋から移転しました。 
県営住宅(右下の込入っているところ)の出来たのは、昭和33年のことだと思います。  

気が付いたら半世紀まえの話をしてる訳なんですね。
  
タグ :家畜市場


Posted by 捨蚕at 20:56
Comments(3)上並榎シリーズ

2010年08月23日

古風な月

 
      高圧線の鉄塔に
      月がでています赤い月。 

          おとぎ話にあるような
          古風な月が出ています 

       忘れたことを思い出す 
       そんな月です今宵の月は。

           萩の叢ある小庭には 
            虫がジイジイ鳴いてます 
             赤い月みて泣いてます。


            なにが悲しく泣いてるの 
                       あまりに月が赤いから・・・
                        あまりに古風な月だから・・・。


  

Posted by 捨蚕at 20:05
Comments(1)上並榎シリーズ

2010年08月18日

気になる樹・①(並榎三木のこと)

”並榎三木”とは、いちょう(公孫樹)、ぼだいじゅ(菩提樹)、えんじゅ(木偏に鬼)の樹でした。 
場所は天龍護国寺の西隣の日枝神社の周辺にありました。 
日枝神社は天龍護国寺の守護社として、近江国坂本から分社されこの地に祀られました。 
その時に、三本の若木が移植されたと云われています。
護国寺の創建が864年と謂われてますので、なんと1146年も前のことです。 

この”山王様の森”に、いつ頃まで並榎三木は存在していたのでしょうか。 
最初に無くなったのは、菩提樹でした。残りの二本は戦後までありました。 
”山王様の大銀杏”は、高崎随一の古木、名木、大木でした。

昭和32年秋、落雷のため樹齢千百年の大木は無くなりました。 

写真のとおり、残りの一本は健在です。(樹齢の程は分かりませんが)

             (”えんじゅ”の大木に花がさいています)




榎保育園の裏庭にあったという、銀杏の大木の残骸を探して見ました。 
子供の頃、父に連れられて見た記憶があるのですが・・・。
少し違うような気がしますが、とりあえず、この樹とすることにしました。

            (保育園の裏庭に、子か孫の銀杏の切株がありました)
  


Posted by 捨蚕at 14:54
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年08月18日

”水道みち”とよばれた道

      かなり大きな鉄板の蓋です。
       ここは滝谷不動のすぐそば、
        お地蔵さまのいるテニスコートの上、  
      
  かって”水道みち”とよばれた道がありました。 
     (今もありますが、あまり聞かなくなりました)

明治の末に、剣崎から豊岡を経由して烏川を潜り、ここ上並榎の滝谷に上陸した上水道は本町を通り、高崎市街地に供給する上水道のまさに本管でした。

 高前バイパスに中断されてしまいましたたが、
   一直線に走るこの道は、まさに”水道みち”です。

  
タグ :水道みち


Posted by 捨蚕at 08:17
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2010年08月02日

道の記憶・(神さま・仏さま)

    散歩の途中に気になる場所がありました。 
         ここは上並榎町のテニスコート場の上あたり。












































 ここは道の辻 
 だから 

 猿田彦大神 
 そして 
 馬頭観世音 

ここの字(あざ)は滝谷  
  もしくは屋敷前

 虚空蔵山古墳や 
  庚申山古墳が 
    あったあたり

 もしかすると
 この道は”水道みち”か・・

 少し行くと”滝谷不動”
 



文久元辛酉年(1861年)十二月吉日の滝谷不動明王の像。
  桜の咲く頃がお祭です。 
道はその記憶を神さま・仏さまに託して、変貌し続けるのでしょうか・・・・・・。
  


Posted by 捨蚕at 04:37
Comments(0)上並榎シリーズ

2010年06月14日

梵字塔(並榎八景シリーズ①)




ここは天龍護国寺の墓地。 

当寺の代々の住職の墓石。  

その中に変った墓石を見つけました。                 

丸石の中央には五文字、 

密教の宇宙の五大要素である、 

   ”空・風・火・水・地・”

の梵字(サンスクリット語)です。




             ”当寺十四世、智廣上人”

         ”寛政七年(1795年)正月十八日建立”


         


1783年(天明三年)  一元上人慈縁・豊岡薬師寺九世となる。
1785年(天明五年)  二月六日夜、大風のため出火、護国寺焼失。
1795年(寛政七年)  一元上人、上並榎護国寺第十六世となる。
1803年(享和三年)  十月護国寺再建、落成。 
1804年(文化元年)  並榎八景絵図の完成。

”文月浅間記”は”天明三年水無月の末の九日”とはじまります。 
そうです、この年は”浅間焼け”の年でした。浅間山が大爆発しました。 
天明の大飢饉は、天明八年頃まで続きました。 

そんな経済混乱の最中、一夜にして護国寺は焼失してしまいました。 
そして十年後、護国寺再建のため豊岡から一人の僧がやって来ました。 
その最初の仕事が、この梵字塔の造立だつた気がします。 

護国寺中興の祖、信州生まれの一元上人慈縁さん、 
風流の道に造詣が深く、当地一流の文化人でした。 

また高崎城下の風流人である大商人とも深い交流がありました。 
例えば中山道佐野村粕沢茶屋の花岡義旭さん。 
例えば本町の問屋名主の梶山与惣右衛門さん。 
例えば田町の絹商人の羽鳥四郎兵衛さん。

この強い人脈が、護国寺の再建に大きく貢献したはずです。 

ところでこの奇抜なデザインのお墓、一元さんの意気込みを強く感じます。
そして、その意気込みは九年後の並榎八景絵図に集大成されました。 

                              (続く)
                  


Posted by 捨蚕at 09:22
Comments(0)上並榎シリーズ

2010年06月11日

ひとつ間違えれば・”小京都”・

佐賀野川と天龍護国寺(高崎市上並榎町)
               嵯峨野と天龍寺(京都府右京区)
                   似てますね。   
                     


①佐賀野川(別名・佐の川) 
  深い川です 
 北から南へ流れてます。 
 カルガモが飛び出しました。  

 ここは天龍護国寺の東 
 旧室田街道と平行してる
 ところです。       




 実はこの川は 
 上並榎城の濠でした。
 
 川はこの先で 
 90度東に転向します。







 ②転向した川は 
  長野堰の放水路と 
   合流します。  

  この放水路の堰 
  ”十九の堰の物語”の 
  八番の上野堰かもしれま
  せん。 
  いずれにしても、
  七番の高小田堰と 
  九番の上鳥羽堰の間
  にあります。 
  

 









③”余水吐水口”から 
  西流した川は 
  旧室田街道をわたり、 
  竹林の中に
  消えてしまいます。
  
  この竹林の西奥に 
  ”くさや”とよばれる 
  家がありました。 

  馬をたくさん飼っていて 
  馬車で室田街道を下り、 
  十五連隊に軍馬の飼料を
   納めていたそうです。 

 また旅芝居の一座が来ると、 
  芝居小屋にもなったとか。
  







④竹林から現れた川は 
 ここで合流します。 
 そこで方向転換をして 
 ふたたび南下します。 

 三の丸、二の丸を 
 右手にみて本丸、 
 信越線の線路へと 
 向かいます。


  ここは 
  並榎将監と 
  並榎庄九郎の城 

  並榎氏は 
  武蔵国の児玉党  
  和田氏の騎馬衆







⑤以前みた馬頭観世音です 
 金田水車で紹介しました。

 かって、この川沿いには 
 数台の水車がありました。 

 村に響く水車の音は 
 まさに村の鼓動でした。 

 人力が主体の時代の 
  ”水車と馬車” 
 特別な、大切なものでした。  
 

 








  

 ⑥水車を回した水は 
  線路を潜り 
  本丸の東を下り 
  やがて、滝となり 
  烏川に落ちていきます。  

  砦というより立派にお城  

  ”さ川”もしくは”佐賀野川” 

  竹林と水車  

 新比叡山天龍護国寺の甍  

 もしかしたらここは 
 小京都だったかも 
 そんな気がししてなりません。


    


Posted by 捨蚕at 06:54
Comments(3)上並榎シリーズ

2010年02月23日

さ迷える道陸神( 上並榎9)

2月5日の道祖神の謎(一)の続編です。

現在この道しるべ道祖神はD地点にあります。元区長さんの話によると、平成になってすぐに移動したとのことです。いまから20年前のことです。それ以前はC地点にありました。写真の地図も10歳の私の記憶もC地点です。姉と一所に写った写真があると思います。

いつからC地点にあったのでしょうか。85歳の地元の人の話では子供の頃はB地点にあったそうです。戦前までは少なくともB地点にあったとおもわれます。高崎の散歩道でも、もとは室田街道の道端にあったといわれている、とありました。 

確かにB地点は室田街道の道端です。道が交差する地点です。左へ道しるべどおりにいつても白岩、榛名方面にはいけます。 ただ上並榎城の二ノ丸と三の丸の間に入り、堀や土塁のため複雑な地形となり、室田街道に再び出るのも大変です。 

そこでA地点を、B地点以前の本来の地点と想定します。室田街道が左折して天龍護国寺の門前にでる角にあるのが、自然だとまた当然だとおもいます。多分そのT字路の少し削られた道の角に当初、道陸神は、あったとおもいます。 

1771年に造立された、この道しるべ道陸神は、239年の間どうさ迷い移動したのでしょうか、正確にはわかりません。  
たかが二百数十年で記録は消えてしまうものなのですか。  

Posted by 捨蚕at 16:22
Comments(0)上並榎シリーズ

2010年02月19日

気になるポイント(上並榎8)























気になる場所(ポイント)があります。1月15日の金田水車で紹介した場所です。右の写真がその時に載せられなかった馬頭観世音です。金田水車と読めましたでしょうか。
さて左の写真はそこから、南西を撮ったものです。上並榎城の土塁跡と紹介した場所です。
ここが高崎市史( 昭和44年版第一巻)に、古墳として紹介されていました。

昭和37年に芋穴を掘っていて石室を発見したそうです。水害のため形が古墳らしくなく登録もれとなっていたものとあります。確かに昭和十年の古墳総覧にはありません。載ったとすれば、六郷地区第24号稲荷塚、円墳、上並榎字南857と載ったことでしょう。

出土品として、直刀三振、刀鍔一個、曲玉六個、金環二個、矢尻五、石宝六、糸紡ぎ石、人骨、歯、管玉一個が出ました。
古墳の成立は、七世紀中頃のものと推定しています。

この場所のことを整理してみましょう。 御紹介したように、まず円形の古墳でした。そして戦国時代には並榎庄九郎なるものの、城の二の丸の東端の土塁となりました。その後農家の屋敷稲荷と竹薮となりました。

そして、目の前を、水車が回り、やがて汽車が走るようになりました。

祖父と散歩した五十年前には、古墳は未盗掘だったのです、そうですその時にはまだ石棺の中に人骨があった訳です。
もしかして、その死者のDNAを持つた二人を見守る古墳だつたのかも知れません。

それにしても、あの時祖父は何を言いかけたのだろうか、水車のあった、汽車の線路脇の、石棺に入ったままの死者の見下ろすこの谷のほとりに立って、何かを言おうとして口ごもった祖父。          

私にとって気になるこのポイントは謎めいたままの表情で、五十年いや、一千年前と同じままに、今私の前にあります。
否、私の中に流れるなにかが、長いあいだこの景色を見続けていたのかもしれません。  

Posted by 捨蚕at 23:48
Comments(4)上並榎シリーズ

2010年02月05日

小発見シリーズ上並榎(7) 道祖神の謎( 二)


明和八年の、残り二つの道祖神の話です。場所は長野堰が、新室田街道と交わるところ、稲荷橋交差点の南がわです。三角形の空き地に二基の道祖神があります。ものの本によりますと、明和八年十二月吉日護国寺一元拝書と書かれているそうです。石が摩滅と苔で私にはどうしても読めません。一元とは名刹天龍護国寺の中興の祖にして、かの並榎八景絵図の完成者です。ここで不思議なことに気付きました。一元が護国寺にきたのは、寛政七年、つまり明和八年は二十四年前なのでした。   年表風にまとめると  

       1) 明和八年(1771)    道祖神三基造立
       2) 天明三年(1783)    一元豊岡薬師寺の九世となる
       3) 天明五年(1785)    2月6日護国寺焼失      
       4) 寛政七年(1795)    一元護国寺十六世となる   
       5) 享和三年(1803)    護国寺再建    
       6) 文化元年(1804)    並榎八景絵巻の完成

となります。4)から1)をひくと24ということです。これが謎でなくてなんでしょうか。
ところがです。高崎の石造物という本をみて、すべてが氷解してしまいました。謎はいとも簡単に解けました。  
二基のうち右は、上並榎 松東野啓書 明和八年十二月吉日とあり、左は、新建明和八年、再建亨和三年護国寺一元拝書とありました。つまり護国寺の再建時に道祖神もまた再建したということでした。
大変お騒がせいたしました。ひらにご容赦を。  

Posted by 捨蚕at 18:06
Comments(1)上並榎シリーズ

2010年02月05日

小発見シリーズ上並榎(7) 道祖神の謎(一)

明和八年ここ上並榎村に道祖神が三基建てられました。一つは道しるべ道祖神、他は文字道祖神です。
まず、この道しるべ道祖神です。場所は長野堰が信越線を潜り抜けたところ、信越線を渡る歩道橋のわきにあります。     道陸神、明和八年、卯正月吉日、左しらいわ はるな。 とあります。                                  かつては、信越線の北、約100米上流にありました。おそらく昭和50年頃までは長野堰に架かる小橋のたもとにありました。 しらいわ とは、坂東三十三番札所の十五番白岩観音のことです。正式には白岩山長谷寺です。ちなみに十六番は水沢観音です。三十三のうち群馬にあるのは、この二つだけと記憶してます。                                   さてこの道陸神は、もともと何処にあつたのでしょうか。室田街道沿いには、違いありません。そもそも室田街道は本町一丁目から稲荷横丁、台町、上和田、下並榎、上並榎、我峰、沖、本郷、室田と続く道でした。信越線の室田街道踏切をわたると、長野堰放水路をわたり、新室田街道の手前を左におれて、護国寺の山門前を通過して高経大の東にでる道でした。  この左に折れる角にあると、解かりやすいのですが。直進すると上小塙をへて箕輪にむかいます。       元来道祖神は、村の入口や辻道、街道端に立てられましたが、道祖神祭りで、小屋を建てて燃やす関係から田んぼのそばに移転させられるものが多いとききます。 この道陸神もなんどか、移転を繰り返したのでしょう。  

Posted by 捨蚕at 14:00
Comments(1)上並榎シリーズ

2010年01月15日

小発見シリーズ上並榎(6) 金田水車

小発見シリーズ其の弐で、紹介したNO7とNO8の踏切の間、上並榎城の濠であった佐賀野川が信越線を潜る手前、妙に、気になるポイントがありました。
つい数年前まで深い堀添いに竹藪しかも黒竹が這えていて、小屋があり、北から流れて来た川がカーブするように鉄路を潜りそのさきで烏川に落ちていました。
今は小屋はなく更地で売地と看板にあります。
気になる訳は、もう五十年以上前に祖父と散歩していた時 ゛ここに、水車があってな・・゛なにかを言おうとして、少し悲しそうな顔のまま口籠もったような記憶が、この景色と重なっていたからです。
もしかしたら、その後しばらくたってから、父から聴いた祖父の子供時代の話がその記憶を鮮明に保ち続けさせたのかも知れません。
川を見下ろすかの様に、馬頭観音の石塔がありました、その横にもあるのですが読めません、前に小銭と茶碗がおいてありました。
馬頭観世音の文字の左横に金田水車とありました。
そう確かに水車の字が確認できました。

どのくらいの昔から水車はあったのでしょか。明治18年の高崎、横川間の開通時は多分、水車は回っていたでしょう。汽車の窓から見えたことでしょう。もしかさたら、昭和の初めまで回っていたかもしれません。祖父は、その後は国鉄勤務でしたので、汽車の窓から見ていたかも知れません。
今回は、自分の微かな記憶を証明したセンチメンタルな、小発見でした。
  

Posted by 捨蚕at 02:56
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年01月11日

小発見シリーズ 其の七家畜市場前

我が家の近くのバス停にすでに無くなって数十年経つのに、いまだにバスストップの標識が家畜市場前とあるのにきずいた。

本郷回り室田行き、北高崎から三つ目の停車場の事です。先日、図書館でコピーした昭和36年度の住宅地図をひろげてみる。何故に昭和36年度かというと、これが一番古い住宅地図、正確には34年度があったのですが、一冊に高崎と前橋が載っていて旧市街地だけ、勿論手書きです。

地図をみます。高前バイパスは存在しません。高崎家畜市場がありました、大谷食堂がその前にあります。ホルモン焼きが有名で、子豚市の日は特に繁盛していました。が、火事で焼けてしまいました。寒い時季の事だったとおもいます。その東に、バイバス上に高崎家畜保健衛生社とあります。
隣が菓子店、理髪店、自動車修理工場、材木店、そして我が第四中学校とつづいています。新室田街道は勿論、バラス道。
ふと気付くと五十年前の話をしている訳なんですね。家畜市場前バス停の名前の永久保存を進言します。
せめて、名前だけでも過去の記憶を、とおもうのは捨蚕だけでしょうか。

話はとびますが、下小塙歳時記とう本に、昭和初期のバス停風景として二軒家停留所のことが、書いてありました。
今の高経大のところです。山王様の森(護国寺の西の日枝神社)から二軒家までは淋しい一本道だったそうです。
とある生け垣に赤い旗を立てておき、アガリハナで、お茶を飲みながら世間話に興じていると、バスの警笛がして、時には車掌さんか、呼びに来てくれたそうです。
その停車所は多分、家畜市場前から二つ目だとおもいます。
  

Posted by 捨蚕at 16:50
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年01月11日

小発見シリーズ 上並榎周辺( 5)

天龍護国寺には、延長六年(928年)醍醐天皇の勅命により、小野道風の真筆による勅額がある。(平安の三跡の一人にて野跡と云う)創建の六十四年後、勅額は京より東山道を下って運ばれました。機内、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、それぞれの国府へと通じる官道である東山道は 、信濃国の最後の駅(うまや)である長倉の駅を過ぎると碓氷の峠。越えると上野国。坂本、野尻、群馬、佐位、新田の五駅がある。野尻駅は今の安中、板鼻から北上し若田原を通って烏川へ、ほぼ今の県道安中前橋線にそって、国府、そして群馬(くるま)駅へと延びていたとおもわれる東山道。
ここで、一休みがてら上小塙の稲荷山古墳の上に立ってみましよう。一千年以上の昔を思いつつ、想像力だけを全開にして。参考までに、この古墳の上が烏子(すなえご)神社です。迷道院さんの11月25日のブログの記事を参照ください。
さて、延長六年の景色です。東山道が一直線に国府に向かって延びています。そのさき北東の方向に高さ60メートルもある塔がみえます。前橋市庁舎に匹敵する高さは、そうです上野国分寺七重塔です。その先を利根川が流れ、赤城山が裾野をながく、横たわっています。南の方向には、我が天龍護国寺が、烏川の辺に八堂伽藍と僧坊三百を配し、京都比叡山の方に向いて建っています。もちろん四辺の古墳上に護国鎮国の四社を配してです。
そして、三百六十度、数多くの古墳が、大小の人造構造物が、点在しているのが、見渡せるはずです。

多少とも一千年以上前の風景をイメージできましたら、幸いです。
では、これにてひとまず上並榎周辺の小発見を幕といたします。ああしんど。
一応一句・・貧乏人地図みて遊ぶお正月。
  

Posted by 捨蚕at 12:30
Comments(2)上並榎シリーズ