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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年04月10日

お地蔵さまは恋人同士?(小発見シリーズ41)

   





















(かくも無残な花魁地蔵)             (追分のゴルフ練習場・殺害現場) 


さて前回の続きの新聞記事です。

”其の地蔵は酒家(酒飲み)とみえ、傍らに壺を置き、参詣の輩は酒を携え壺に入れ、その酒を用いて地蔵を洗い、帰る際に 
その酒を持ち帰りて、戴けば下病平癒するとのこと”
”左近地蔵尊伝記”と話が少し違いますね。 
そして、最後にこんなオチで終わっています。 ”地蔵の縄縛とはハテ奇妙院” 
その後、長泉寺二十四世の中興悟山心夢大和尚が、黙秘し続けた地蔵の身柄を引き取ったとのことです。 

写真のお地蔵さま、首がありません。高崎の散歩道には首のある花魁地蔵が載っています。この三十数年間で首切りにあいました。もつとも、この笠間八万石のお姫様、右の写真あたりで村人に発見された時も首がなかったそうです。

昨年の10月2日のブログの名探偵迷道院の推理おみごとです。 

二人の恋人は、別々の場所で、跡部重兵衛等の剣客に殺害されたと思います。 
島崎左近進は左近の森で、お姫様は三国街道沿いの追分あたりで。 

そうなのです、左近地蔵と花魁地蔵は、恋人同士だったのですね。 

左近地蔵は、まだ沖田塚とも呼ばれていた左近の森に埋められて、出てきたところを捕縛され、ようやく本堂脇におちつきました。花魁地蔵は、渋川街道の道路拡幅のため、山門脇に。おまけに、首まで無くしてしまつて。 
 
数奇な運命をたどって、二人は同じお寺にいます。が、
同じ長泉寺にいながら、安国寺から移築した山門が邪魔して、お互いが見えません。 
なんとかしてやりたいと、思うのが人情というものではないでしょうか。 

是非、花魁地蔵の首は右側への見返り風の首にお願いいたします。      (完)  

Posted by 捨蚕at 15:14
Comments(0)飯塚村のこと

2010年04月07日

お地蔵さまは前科者?(小発見シリーズ39)

  




















飯玉山最勝院長泉寺です。飯塚の愛燐保育園の東隣なりです。 
本寺は下横町の興善寺、その第五世勝山全最大和尚により、慶長六年(1601年)に開山されました。 

このお寺には、有名なお地蔵様が二つあります。
一つは、追分のゴルフ練習場の西側から、山門の脇に移ってきた花魁地蔵。 
(ちなみに、この山門は、慈光ビルのあのまっ黒くろ助の、安国寺さんから移築したものだそうです)

もうひとつが、本堂脇にある上の写真、満開の桜の下で花見をしている酒呑地蔵、または縛られ地蔵です。  

明治九年六月九日の郵便報知新聞に、”迷信のかどにより飯塚村の地蔵さま捕縛”の記事があります。 
六月五日に、巡査が出張してきて、地蔵および世話人数名を捕縛したとあります。  

記事の冒頭は、”熊谷県下群馬郡飯塚村の市右衛門といえるものは”と始まります。 
調べみると、明治九年八月二十一日までは、高崎はなんと、熊谷県なんですね。 

記事によると、この市右衛門さん、村内の左近の森を開墾していて、一箇の石地蔵を掘り出したそうです。 
一旦は家に持ち帰った市衛門さんですが、地蔵が本の場所に戻せと、夜毎に泣くため、左近の森に安置したそうです。

ところが、写真にある地蔵横の”左近地蔵尊伝記”によりますと、 
村の呑平な百姓が、夢のお告げにより川底(貝沢堀)から、この左近地蔵を掘り出した、とあります。  

伝説なのですから、川底でも森でもと、お思いでしょうが、私説に引きずり込むためには、新聞記事のほうが、より都合がいいんです。

そこで、左近の森です。三十年ぐらい前は確か井田家のお墓でした。今、微かに残るのは、”左近ビル”の看板と貝沢堀までの”字左近”という小字の地名だけです。(この辺のことは迷道院さんの、昨年の十月アタマのブログを御参照ください)


群馬県の地名という本によると、飯塚村には,社(やしろ)が四つ、寺が二つ、庵が三つ、あったそうです。
また、高崎市誌の中世資料編によりますと、四ヶ所の城郭址が載っています。 
つまり、この13のポイントを繋ぎ合わせたい訳です。これが本音です。 

より具体的には、社は飯玉、雀鏡、稲荷、厳島。寺は真言宗常福寺と曹洞宗長泉寺。庵は日蓮宗の妙信庵と広布庵、それに曹同宗の常黙庵。城郭址は上飯塚城、長泉寺、鼠屋敷と飯塚左近屋敷です。 

社を除いて、シリーズ12で、常福寺・常黙庵・上飯塚城・が繋がりました。 
城郭址の長泉寺は、長泉禅寺となりました。残るは、二つの庵と二つの屋敷です。 

また新聞記事中に”村内に奇妙院といふ法印ありて地蔵の護りをはじめしが”とあります。
この”妙”の字が、妙に日蓮宗ぽい気がします。妙信庵と左近屋敷と奇妙院が、繋がると面白いですね。 
                                                           (次回をお楽しみに・続く)  

Posted by 捨蚕at 11:03
Comments(4)飯塚村のこと

2010年03月11日

鼠屋敷てなんですか(小発見シリーズ26)

 飯塚町字鼠屋敷(ねずみやしき)と言う所です。 
何故にその名前になったかはわかりません。  

長泉寺の南、高崎貨物の敷地に一部重なります。  
ここに方形の館があったと、高崎市史にあります。時は十六世紀、70m四方の複郭の館だったそうです。   


実は、これとまったく同じの館が、道をはさんで、北にありました。今は飯玉山最勝院長泉寺です。 
下横町の興禅寺の末寺で、慶長六年(1601年)の開山です。 
それ以前には、十一面観音堂があったそうです。  


箕輪城の落城は永禄六年(1566年)と云われています。 
それ以前に、上飯塚城(常福寺・常黙庵跡)の南に、ほぼ一直線に、二つの館があった訳です。 
東北に本郭備えた二つの館でした。  

鼠屋敷の西隅に、長泉寺の墓地が高崎貨物の敷地に囲まれてありました。 
雪化粧をして、ひつそりと、鼠屋敷跡の西北にありました。 

それにしても、気になる名前の、ネズミ屋敷でした。
  

Posted by 捨蚕at 11:20
Comments(1)飯塚村のこと

2010年01月27日

小発見シリーズ(13) 続続飯塚城

写真は飯塚の東の薬師です。約二百米、西にある薬師様と向かい合っています。誰云うか飯塚の夫婦薬師と云われています。ともに、箕輪城主長野業政公によって大永三年(1525年)に祀られたとあります。飯塚城(別称北城)も常福寺もこの夫婦薬師にも長野氏の影がちらつきます。
さて、東の薬師です、享保年間に小平与惣治という人が眼病の平癒のお礼に堂を再興したと由来の表示にあります。
ここで、誤謬の小発見です。表示板には享保年間 (1755)とあります、享保年間なら1716から1735年であり1755年なら宝暦五年ではないでしょうか。
東の薬師様に向かって左手前に、奉納薬師如来と書かれた石塔がありました、年号は判読できませんが、三月大吉日当村、小平左平治倅、小平佐右衛門と読めました。小平与惣治さんの御子孫なのでしょうか。
さらに時代は下って昭和の始めの頃、内山信次氏によると畑にするために小さな塚を崩していると、薬師仏を見つけ昭和八年に堂を建てたとあります。また近くに庵があったとの言い伝えもあったとのことです。内山氏は飯塚に小庵の名前を三つあげそのうちの一つを想定しています。
ところがです、前回紹介した常黙庵がその中の一つだったのです。つまり、三つから二つに絞り込めたのです。これは偉大なる小発見でした。
最後に内山氏等の一所一勝運動による指定の結果、今の薬師堂が再建されたそうです。

話が飯塚城から遠ざかってしまいました。が、この城には城主がみあたりません、下之城同様による和田氏直轄地だったであろう、とのことです。いずれにしても外堀をぐるぐる巡るだけで本丸に入れません。もっとも入ってもどうせ空き地なのですが。まだ続きますゾクゾクするような話をしたいと思います。飯塚常仙かな。
  

Posted by 捨蚕at 18:24
Comments(4)飯塚村のこと

2010年01月23日

小発見シリーズ(12) 続飯塚城

シリーズ其の四で飯塚城跡に潜入した時に奇妙なものを、発見してしまいました。写真の首座像です。城の西半分占める常福寺に背を向けて東の空地と梅林を見続ける石仏と塔でした。
ぐんまのお寺と云う本の中からの小発見です。その空き地は常黙庵という名の小さな庵寺跡でした。曹洞宗飯玉山長泉寺を本寺とする尼寺だったのです。創建は文化年間とあります。
つまり、長野氏が和田城の北の守りとして築城したであろう飯塚城は、その後本郭の西半分を常福寺、東半分を常黙庵としてつい最近まで存在していました。
さて、僧型石像は五代続いた庵主のうちの四代目庵主、泉底観亮尼の首座像で大正六年に建立されました。
塔は正面に千部供養塔、高崎山三書とあります。
解釈の間違いを恐れず読みます。供養のため大乗妙典一千部を尼僧四十五名によって読経したようです、しかも五十日かけてです。
撰文は長泉寺の第十九世恵鎮素明、文字は高崎山龍廣寺十八世僧三。したがって高崎山三書です。ちなみに、常黙庵の本山が長年寺、その本山が龍廣寺と続きます。
背面には文政十年(1828年)猛夏十八日、二世庵主智鏡尼が発願し之を立てる、とあります。また読経参加の尼僧四十五名を連記しています。
基壇上には施主として、十六名の本町の商人の名、基壇下に村役人・世話人として、二十一名の地元の名氏の名が記してあります。
文政十年夏のある日、ここ飯塚村の常黙庵の庭に大勢の人が集まっています、そう今日は供養塔の建立記念法要の日です。
まず四十五名の尼僧が目につきます、本町の大店の旦那衆、穀屋さん、百足屋さん、松屋さん、それに佐渡屋さんまで。
そんなに集めて大丈夫かって、境内は三百十六坪、なんとかなるでしょう。また゛まだ、井田さん、阿久津さん、植原さん、飯塚村のお歴々。
なんと、華やかな賑わいでしょうか。
平成二十二年正月は、何もありません、首座像と供養塔と、その後ろに石仏の残骸が少々在るのみです。
今日はここまで、
合掌
次回は完結編の予定です。
  

Posted by 捨蚕at 09:30
Comments(1)飯塚村のこと

2009年12月25日

捨蚕の小発見シリーズ其の四飯塚城

高前バイパスを前橋にむかってドンキホーテを右折すぐの道をさらに右折し南進すると左手奥にホテル、その南にホテルの駐車場ぞいに東西に約50メートルの藪と言うか森と言うか、が連なっている。
この地こそが、めざす飯塚城址の北側土塁、゛行くぞセルバンチョフ!(ちなみに漸く買ったデジカメのことヤマデンで)
堀・土塁・堀の形式にて和田下之城と同じ永禄頃のもの、との事。
堀は埋まり土塁は崩れ雑木林に踏み込んだよう、欅の大樹が数本、冬ぞらに伸びていた。そこを抜けるとひらけて梅林、ここが本郭の東半分、西半分は常福寺である。
平らでもお寺の門は山の門、山の名前は長野山。

すぐ傍の夫婦薬師(別名は西の薬師、もちろん東の薬師も数百メートル先に存在します)の看板に大永三年長野業政公によって祀られた、とある。
長野さまさま西上州
そんなことより発見は?ありました小発見!寺の西に南北に側溝状の川。白の看板が無名のまま、この堀は内町堰です、旧飯塚城の西・南を流れています。
近くの方が建ててくれたのでしょうか・・感謝、感謝です。なぜなら現地でようやく飯塚城と言う文字と出会えたからです。
またもや小発見、意気揚々とセルバンチョフを伴に鼻歌まじりに帰途につく捨蚕であった。鼻歌はもちろん しあわせてなんだっけ です。では懲りずに一句・・古城址それがなんだと 冬木立・  続きを読む

Posted by 捨蚕at 17:41
Comments(5)飯塚村のこと