
前回の上信日記に、さかのぼる事三十三年前、一人の国学者が金井沢の碑を訪れています。
その著書名を山吹日記といいます。江戸の国学者奈佐勝皐(かつたか)が天明六年四月十六日から五月二十三日まで、上野国内を調査見学した、旅日記です。
五月六日富岡をでて曾木、福島,金井、長根、吉井、と過ぎ。多胡の碑をみます。そして金井沢の碑へとむかいます。
一部抜文します。
すへて一里はかりをこえぬれは金井沢にいたれり。この沢水にそいて、二つの山あいを七八町もやきぬらん、いたうおくまりたる山陰の賤かふせ屋の庭もせに、神亀三年の古き碑たてり。
このかたわらより、近きころ掘り出しとかや。
是も今は八幡宮に斎ひたるは高崎の宮部義正がいいすすめてかくしたるとそ。相ともに是を摺えたり。石の面高さひくさありてよくもうつらす。
何度読み返しても碑が二つあると読めます。 最近掘り出した神亀三年の碑が金井沢にある。 山名八幡宮にも宮部義正の薦めで碑が祀られている。両方ともに拓本にしたが、よく写らない。 と読めないだろうか。
例えば昭和44年の高崎市史には、古碑の移動つまり金井沢から山名八幡への移動が書れています。では天明六年時点には碑はどちらにあったのでしょうか。それとも、五月時点では金井沢に、江戸に戻り、清書もしくは校正の時点は山名八幡に、という意味なのでしょうか。 では相ともに、とはなんなのでしょうか。
さらに気になることがあります。同じ高崎市史の古京遺文のなかにあります。 碑は旧山下の村民弥一の家の側にあつた、そして洗濯板として使用していたが、罰が当たったためか、一家が絶えてしまい、これを恐れた村民は、この碑を山下に移したとあります。
そのすぐ後に、明和年間に烏川の崖の崩壊により出土したものはこの碑のことではない、と書かれています。
貴方はどうおもいますか。金石題跋にある明和年間に崖崩れにより出土した石とは別のものがあると、確かにあります。
この時点で、確かに碑は二つ存在していました。
もう一つの金井沢の碑は、今どうしているのでしょうか。
もしかして、山名八幡の境内に埋もれているのかもしれませんね。