ここは、浄土宗善念寺(元紺屋町)。ここの北に隣接してかって、
真言宗の”真応寺”がありました。
写真では、お墓の左上の駐車場あたりかとおもいます。

安政三年の絵図を見ると
八軒町から参道が南下しています。
昔の”いさみ寿司”と”上野医院”の間の
足銀駐車場へ抜ける路地、おそらくこれが参道だったでしょう。
明治30年の地図をみると、
入口は、北通町通りに面しています。
それは、昔の杉田青果店と須藤技芸学院の間の路地か、と思いますが。

箕輪から移ってきた寺の多いなか、
真応寺は寛永十一年(1834年)の創建と云われてます。
藩主は安藤の二代目重長の時代でした。
また”高崎更生旧事記”に”鞠垣・揚弓会場あり”
とあります、蹴鞠と弓道場のことです。
今で言えばスポーツ・クラブ施設でしょうか・・。
安藤氏の神社仏閣重視とお公家趣味
多少とも分かったような気がします。
柴崎町・光明寺の阿弥陀如来坐像(市重文・S62・2・16)
台座の銘文によると、①享保二年(1717年)に制作されたこと。 ②施主は西上州群馬郡高崎城下清玉山真応寺吽清(うん せい)。 ③製作者名は、江戸神田住・冶工河合兵米部藤原周徳です。
この金銅仏は銘文により、造仏の由来、年代、鋳物師が明確です。
つまりこの坐像は1717年から1908年(明治41年10月)までの、
約200年あまり田町の真応寺の境内にありました。
”山門の内の右にあり”と書かれています。
そして明治41年の廃寺以後は本寺であるこの光明寺の境内に、約100年間
安座されているという訳です。
(南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ)