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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年08月14日

ここは廃寺跡・新紺屋町の金剛寺

①新紺屋町にこんなレンガ塀をみつけました。 
 最初は横浜銀行のレンガ倉庫跡かなと思いましたが、



②昭和30年代ここは東宝映画館の北側、斉藤化粧品問屋の倉庫の西塀でした。 
 かつての東宝も今は駐車場となっています。



③明治初年までここは、諏訪明神の祠と金剛寺という天台宗のお寺がありました。 
 慶長四年に、箕輪より諏訪社の別当寺として移ってきました。
 
 明神は、あら町の”下ノ諏訪”に対して、”上ノ諏訪”と呼ばれていました。
 お寺の山門は北向き、本堂は南向き、境内491坪とあります。 
  
 まさにこのレンガ塀のあるところ辺りが山門だった気がします。




④江木町の公民館は、無縁堂跡と云われています。
 そして、この無縁堂こそ、金剛寺の持分でした。 
 安藤氏の時代に出来たそうです。
 無縁堂とは、城下の荼毘(だび)所すなわち火葬場のこと。
 そしてここはまた刑場でもありました。
 
 金剛寺は明治2年に、この無縁寺に合併され、
 明治8年に法輪寺兼務となり廃寺となりました。

 
  


2010年08月09日

ここは廃寺跡・田町四丁目の真応寺

ここは、浄土宗善念寺(元紺屋町)。ここの北に隣接してかって、
真言宗の”真応寺”がありました。
    写真では、お墓の左上の駐車場あたりかとおもいます。










































 安政三年の絵図を見ると 
八軒町から参道が南下しています。 

昔の”いさみ寿司”と”上野医院”の間の 
足銀駐車場へ抜ける路地、おそらくこれが参道だったでしょう。 

明治30年の地図をみると、 
入口は、北通町通りに面しています。
       
それは、昔の杉田青果店と須藤技芸学院の間の路地か、と思いますが。






箕輪から移ってきた寺の多いなか、 
真応寺は寛永十一年(1834年)の創建と云われてます。

藩主は安藤の二代目重長の時代でした。

また”高崎更生旧事記”に”鞠垣・揚弓会場あり” 
とあります、蹴鞠と弓道場のことです。 

今で言えばスポーツ・クラブ施設でしょうか・・。
安藤氏の神社仏閣重視とお公家趣味
 多少とも分かったような気がします。





     柴崎町・光明寺の阿弥陀如来坐像(市重文・S62・2・16)
 台座の銘文によると、①享保二年(1717年)に制作されたこと。 ②施主は西上州群馬郡高崎城下清玉山真応寺吽清(うん せい)。 ③製作者名は、江戸神田住・冶工河合兵米部藤原周徳です。
 
   この金銅仏は銘文により、造仏の由来、年代、鋳物師が明確です。 

 つまりこの坐像は1717年から1908年(明治41年10月)までの、 
 約200年あまり田町の真応寺の境内にありました。  
 ”山門の内の右にあり”と書かれています。

 そして明治41年の廃寺以後は本寺であるこの光明寺の境内に、約100年間 
 安座されているという訳です。
 
                     (南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ) 
  


2010年07月29日

ここは廃寺跡・椿町あたり











































ここは椿町と思ったら、なんと本町三丁目でした。かつて、”ステーキのブロンコ”のあった辺りです。その前は昭和元年創業の和洋菓子店”きよ香”があったそうです。 

この本町三丁目の交差点は明治11年9月の明治天皇の行幸までは、十字路でなくT字路でした。 
明治5年11月に廃寺になるまで、ここには真言宗の”普門寺”がありました。天正三年(1575年)の開山といいますから、なんと三百年近くも、ここは境内355坪の玉田寺の末寺の”蓮光山福寿院普門寺”でした。
本尊は大日如来の木像、南向きの山門にして本堂、不動堂、護摩堂があり、北には”遠構え”が東西に走っていました。

3月14日の記事の”弁天さまのいた学校”の弁天堂も普門寺の持分でした。