
”ぼうせんかく ” なつかしい響きの、この場所のお話です。
高級な住宅地の代名詞と、おおよその場所として以外、あまり考えたことはなかった望浅閣でした。
高崎の散歩道に”望浅閣とは、室田街道から南へ分かれて、中山道の君が代橋に通じる野中の途中、五輪坂の上に建てられた、歌川町の小島家の別荘である。その名の通り、烏川を眼前にして浅間山を望む景勝の地であった。”
ドングリを拾いにいった思い出はあるものの、知識は上記の数行だけでした。
ひよんなことから、もと料亭、望浅閣の経営者の息子さんに当たる方から話を聞くことができました。
昭和初期に小島家の別荘を買いうけて、日本庭園のなかに十三の独立した家屋のある料亭、を開業したそうです。
高崎の街中で、魚屋さんを手広くしていたそうですが、その店を親戚に譲っての開業だったそうです。
貨車で軽井沢から浅間石を大量に運び入れ、積上げた滝が二つあつたそうです。レンガ積みの温室もあったといいます。
すぐ前を烏川が流れ、屋形舟を浮かべたそうです。 沢蟹もたくさん捕れたそうです。
昭和9年11月15日付の群馬県知事からの感謝状を拝見しました、11月13日の陸軍特別大演習の際、高級将校が多数宿泊したそうです。たしか牛島中将という有名な人も泊まったとのことです。
望浅閣の目と鼻の先に昭和3年に村上鬼城が移り住んでいます。
浅間山の 煙出てみよ けさの秋
もしかして、望浅閣の名前も、鬼城さんがとおもいましたが、確認できませんでした。
高崎市街地から旧室田街道を、旦那衆を乗せたハイヤーや、芸者衆を乗せた人力車が、土埃をたてて、並榎にむかったことでしょう。
その後、戦局の悪化に伴い、賑わいは薄れ、ふたたび小島鉄工のものになったそうです。
戦後、護念寺の所有に、そのほとんどが成りましたが、庭にその面影があちこちと、残っているとのことです。
望浅の 館は五輪の 坂の上