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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2011年02月19日

雁田川(2)

  川はさらに高前バイパスを越えて、並中の東を南下します。  

  並中は昔は四中でした、たぶんニ中と三中が合併して高松中になった時分、
  ”四から並”になったのでしょう。
  それにしてもここの桜並木は一見の価値があります。







  室田新道(高崎経済大学前通り)を潜りさらに川は南下します。
  (ここの橋の名前が小山堰橋だとつい最近に知りました)

  ホソヤ工業の倉庫のところは、鰻屋さんでした、
  子供たちが西小からの下校時に蒲焼の匂いがする橋でした。

  やがて川は信越線を潜り、西小の校庭の地下に消えていきます。



  北部排水と書かれたプレートが現存していました。



  金井君(同級生)が書いたイラストです。
  校庭の真ん中を用水路が描かれています。
  川を挟んで、新旧の校舎がありました。
  田んぼの中を汽車が十二鉄橋に向かって黒煙を吐いています。
  



  で、この川はその後どこに向かっているのでしょうか・・。
  まさに並榎七不思議の世界ですが・・。

     色々な説があるようです、岩田説とか吉田説とか、  
     でも有力なのは今のところ岩田説のようです。

  君が代橋とテニスコートの間に、それらしきものを見つけたのですが・・。

  

Posted by 捨蚕at 08:00
Comments(0)下並榎シリーズ

2010年12月26日

吉兵衛さんのお墓見っけた

  ① 俗名 清水吉兵衛
    ついに見つけました。



  ② 戒名 実厳良台居士
          嶺雲栄松大姉(たぶん吉兵衛夫人)



  ③ もしかしたら、古墳跡かとおもわれるような墓地でした。
 
    もしかしたらその後、天台宗のお寺があつたような気がします。
     
    なぜなら、すぐ北にある神明宮(神明塚)の小字名は山王裏ですので・・・。        

    いずれにしても、”特別な場所”ではなかつたかと、思えてなりません。

  

Posted by 捨蚕at 23:13
Comments(1)下並榎シリーズ

2010年12月21日

吉兵衛さんを訪ねて

 短足おじさんの、なぞなぞのような言葉を頼りに、ついに見つけました。

 並榎町の340番地辺り、こんな所に墓地があったんですね。

 でも吉兵衛さんの名前は見つかりませんでした。

 明治十五年に60歳で亡くなった清水吉作さんの立派なお墓がありました。
 文政年間の生まれのようですね・・・同時代の方ですかね・・。





    常盤町と歌川町の境のマンションの谷間のようなところに、
     昔の吉兵衛堀を想わせるような、堀を発見しました。
      水の流れは思いのほか速くて綺麗でした。
        コンクリートでない石積みはいいですね・・・。
                 

  
タグ :吉兵衛堀


Posted by 捨蚕at 08:55
Comments(2)下並榎シリーズ

2010年11月22日

吉兵衛さん 見っけた

    写真の古文書の二行目に、並榎村 清水吉兵衛の名前があります。   

    これは安政ニ年十二月十八日付の碓氷郡高別当村の御触書写帳です。

    払い米50俵を並榎村の清水吉兵衛方まで21日までに、
            付け送り渡すことを依頼した内容がかかれています。




   この碑は並榎町の神明宮にある”御嶽山座王大権現”の石碑の裏面です。

     慶応二年十二月と清水吉兵衛の文字が確認できます。



      *つまり吉兵衛堀で有名な並榎の名主清水吉兵衛の名前を
               偶然に見つけたというお話でした。     




      

Posted by 捨蚕at 00:40
Comments(3)下並榎シリーズ

2010年09月18日

よくよく見れば・・・(庚申山古墳の続きの続き)

”せきね”さんから、ご指摘された通り”ニ猿”を確認できました。 
 石宮の正面に、二匹の猿らしきものをみつけましたが、 
 ”日月”は確認できませんでした。  

石宮のすぐ隣に猿田彦大神と書かれた石碑がありました。
これも庚申塔だそうですが、年月日はありません。

石宮と一緒に庚申塚古墳から移されたものなのでしょうか。 
それとも、別の場所からやって来たものなのでしょうか

そもそも、ここ神明宮は前方後円墳、
 前方部は大正時代に崩されて神明会館になりました。
住所は、”並榎町山王裏364”です。
 この南に天台宗の寺院と日枝神社があつたということ、 
 もしかして、常仙寺のある場所にその昔、
      天台宗の寺院があつたということ?。


       謎は謎を呼びますね。 

    (せきねさん有難うございました、
     こんな話で盛り上がるブログを夢見ています)


  

Posted by 捨蚕at 16:36
Comments(1)下並榎シリーズ

2010年09月17日

よく見れば・・・(庚申山古墳の続き)

     9月12日付のブログの石宮です。

 よく見ると十字の上に顔のようなもの・・・。 

  よく調べると、二猿というものらしい。
        (だから、庚申石宮です)

 もっと調べると、 
     旧高崎市内の庚申石宮の数は53基、
      そのうち、年不明が24基、 
     残る29基のうち13番目に古いのがこの石宮とのこと。

  (こんな事を調査した人に、まず脱帽します 
              そして思います、何の役になるのかと・・・) 

    でも、時々どうでも良い事を山ほど知りたいという、
                 衝動にかられるstegoでした。 

  


Posted by 捨蚕at 18:06
Comments(1)下並榎シリーズ

2010年09月12日

庚申山古墳のこと

実は、お神明様でもう一つの小発見がありました。

石の祠です。文字が刻んでありますが、摩滅してよく読めません。
本で調べたところ、①庚申塔であること②明暦二年(1656年)の日付のあること③12名の建立者名のあること、が判明しました。
そしてこの石宮は庚申山といわれた古墳上に有ったものだそうです。

  昭和10年の古墳総覧には、この古墳は見当たりません。

(以前、上並榎在住のご高齢の方に、”こうしんやま”と”こくうぞうやま”の話を聞いたことがあります)

”こくうぞうやま”は古墳総覧の六郷地区に載っています。
住所は”上並榎屋敷前676”で、第20号虚空蔵山、円墳とあります。

そのすぐ南の660番地あたりに庚申山古墳はあったようです。
いつごろに祠を”お神明様”に移したかは、不明です。

 建立者の12名のうち6名が高橋姓で、2名が山口姓と富田姓、ほかに中原藤三郎、簗瀬半右衛門とあります。

現地で聞き歩けば、いろいろなことが判明するのでしょうが・・・。

そうそう、この”お神明様”も前方後円の第220号神明塚古墳でした。

  


Posted by 捨蚕at 22:24
Comments(0)下並榎シリーズ

2010年09月11日

明和八年正月のこと

鬼城の句碑建立除幕(9月17日)の新聞記事をみて,神明宮へ行って見ました。
(考えれば当然ですが、句碑はブルーシートに包まれて、除幕日を待っていました)

”明和八辛卯年正月吉祥日”と書かれた道祖神が目に入りました。

  どこかで見た年号。  

私の2月のブログ”さ迷える道陸神”と”道祖神の謎”の年号と同じでした。

”左志らいわ・はるな”の、さ迷える道陸神(道しるべ道祖神)は正月まで一緒でした。  

”高崎漫歩”には、”この道祖神は並榎から飯塚へ行く道の角にあつたものといわれてる”とありました。

何処にあつたかは分かりませんが、旧室田街道沿いにあつたような気がします。 

同じ年に、同じ道沿いに、造られたような気がします。

旧室田街道が飯塚方面へ行く道との追分地点とは・・・・何処だつたんでしょうか。

  


Posted by 捨蚕at 13:59
Comments(3)下並榎シリーズ

2010年09月10日

並榎周辺で見つけたもの



坂道の途中の廃屋に 
井戸ポンプをみつけました。 

木綿の白い布が着いていて、 
キッコン、キッコンと音がしました。 

母が洗濯する時の 
    私の仕事でした。












常仙寺にありました、
せんだん保育園があるところです。 

薬師さまは目が多いですね。

















坂道を下りた角にありました。 
たしか昔から在りました。

薬屋さんだったと思います。 
隣が、神武三階湯かな。



















うまい手打ちラーメンがあると、 
その昔、何度か食べに行きました。



















お神明様にあります。 
村上鬼城の直筆です、 
並榎橋にあつたものです。

















 


帰りがけの信号待ちで、 
看板マップをのぞいたら、 

銭湯”鳩の湯”がまだ健在でした。  

Posted by 捨蚕at 18:50
Comments(0)下並榎シリーズ

2010年08月08日

魚仲別館

あまりの暑さで、気が付くと大川添いを、つい散歩してしまっている自分がいました。

夕涼み、舟遊び、蛍狩り、と涼しげな言葉をイメージしながら、 
魚仲別館あたりをぶらぶらと・・・・いくらか涼しくなりましたか・・・駄目か。












































  

Posted by 捨蚕at 10:16
Comments(1)下並榎シリーズ

2010年03月23日

お地蔵さまはクリスチャン?(小発見シリーズ31)

       






















どうみても、日本人らしくないし、おまけに十字架だし、変だよあのお地蔵さん。 

なんどか、このシリーズで紹介した、下並榎の常仙寺の山門のお地蔵さんです。 

皆さん、どうおもいますか?   皆さんの見解を募集中です。 

どしどしコメントください。  

Posted by 捨蚕at 20:36
Comments(5)下並榎シリーズ

2010年03月08日

望浅閣のこと(小発見シリーズ25)

   





















”ぼうせんかく ”  なつかしい響きの、この場所のお話です。 
高級な住宅地の代名詞と、おおよその場所として以外、あまり考えたことはなかった望浅閣でした。 
高崎の散歩道に”望浅閣とは、室田街道から南へ分かれて、中山道の君が代橋に通じる野中の途中、五輪坂の上に建てられた、歌川町の小島家の別荘である。その名の通り、烏川を眼前にして浅間山を望む景勝の地であった。”  

ドングリを拾いにいった思い出はあるものの、知識は上記の数行だけでした。 
ひよんなことから、もと料亭、望浅閣の経営者の息子さんに当たる方から話を聞くことができました。 

昭和初期に小島家の別荘を買いうけて、日本庭園のなかに十三の独立した家屋のある料亭、を開業したそうです。 
高崎の街中で、魚屋さんを手広くしていたそうですが、その店を親戚に譲っての開業だったそうです。 

貨車で軽井沢から浅間石を大量に運び入れ、積上げた滝が二つあつたそうです。レンガ積みの温室もあったといいます。
すぐ前を烏川が流れ、屋形舟を浮かべたそうです。 沢蟹もたくさん捕れたそうです。 

昭和9年11月15日付の群馬県知事からの感謝状を拝見しました、11月13日の陸軍特別大演習の際、高級将校が多数宿泊したそうです。たしか牛島中将という有名な人も泊まったとのことです。 
 

望浅閣の目と鼻の先に昭和3年に村上鬼城が移り住んでいます。

           浅間山の 煙出てみよ けさの秋  
もしかして、望浅閣の名前も、鬼城さんがとおもいましたが、確認できませんでした。 

高崎市街地から旧室田街道を、旦那衆を乗せたハイヤーや、芸者衆を乗せた人力車が、土埃をたてて、並榎にむかったことでしょう。  

その後、戦局の悪化に伴い、賑わいは薄れ、ふたたび小島鉄工のものになったそうです。
戦後、護念寺の所有に、そのほとんどが成りましたが、庭にその面影があちこちと、残っているとのことです。
           望浅の 館は五輪の 坂の上  

Posted by 捨蚕at 17:28
Comments(5)下並榎シリーズ

2010年02月01日

小発見シリーズ(16) 並榎の砦

写真は、並榎山常仙寺の黒門から見たところです。石段の下は旧中山道、その先は烏川、観音様が正面に見えます。またすぐ南西は君が代橋、筏場と呼ばれ上流から陸路で運ばれた木材はここで筏に組まれ江戸方面に向かったそうです。
前回に紹介した神明宮の約五十米南に位置する曹洞宗のこの寺は、嘉永五年三月(1628年)高崎新町の水運業の飯塚常仙の開基にして、藤岡市森にある泉通寺の第四世の開山とあります。
川筋を小型帆船で下れば二つ三つ先の停留所といった
感覚の、常仙さんの領域だったのでしょう。
さて飯塚常仙のことです。高崎志等によりますと、慶長四年(1599年)井伊氏が高崎に移って来た時点で新町周辺の荘屋であったそうです。また聖石河岸の水運も把握していたとのことです。
商人が寺を開基するというのは比較的珍しいようです。では何故に開基したか、商売上の理由はあったでしょうが。
永禄元年(1557年)
の長野氏の改軍評定着到帳なるものの中に、並榎砦在住の飯塚左衛門丞
忠則なる名前を発見しました。
常仙寺ができる71年前には、ここは、砦だったのです。
和田城と上並榎城との繋ぎの砦だったのです。西と北と東を堀に、南を崖に囲まれた、烏川の渡河点を押さえる目的の砦でした。
多少、強引ですが、意図がお分かりになったと思います。
常仙さんは、武田の甲軍に敗れたであろう、ご先祖の供養のためにも寺を創建したのでしょう。かっての砦跡に。
うわさによりますと、この飯塚常仙さんのご先祖は、飯塚村のご出身とか、すると例の飯塚城も絡んでくるかもしれません。
今日はここまで。
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Posted by 捨蚕at 00:34
Comments(3)下並榎シリーズ

2010年01月30日

小発見シリーズ(15) 榎本於神

最初にシリーズ其の壱の並榎橋で、石段の左右の灯篭台とあるのを、狛犬の台と、写真のとおり、訂正しますことをお許しください。
さて、今回は並榎町の神明宮です。
明治四十三年に高崎神社に合祀されましたが、りっぱに今も下並榎村の総鎮守様です。迷道院さんが追跡されたとおり、大橋町の総鎮守藤森稲荷は跡形も無いんですから。
明治十二年の上野国神明帳によりますと、永仁六年(1298年)の総社神社蔵の神明帳のうち従四位下榎本於神明神に比定しています。
榎本(えのもと)を並榎に、於神(おかみ)を水の神としています。
ものの本に、赤坂の榎の森という言葉がよく出てきます、また烏川の川岸段丘ですから水害には苦しんだことでしょう。
平安時代に起源は求められますが、神明宮になった経過は不明だそうです。
さて、この神社は古墳の上にあります。昭和十年の上毛古墳総覧の220号古墳です。当時の旧市内に八つの古墳が載ってます。そのうち並榎町が二つあります。両方ともに、並榎町山王裏の住所です。ちなみにもう一つは番地的に君が代橋の東、坂を上りきった道路(高駒線)上にあたります。
気になるのは、山王裏の字名です。神明宮の南に天台宗の寺があったと謂うことです。
南に曹洞宗の寺があります。並榎山常仙寺です。ただ創建は寛永五年です(1628年)。それ以前にはそこに下並榎の砦がありました、がそれも和田時代のことです。
天龍護国寺の末寺でもかって、在ったのでしょうか。
それがいつしか廃寺となりやがて下並榎の砦となり、やがて常仙寺として再び甦ったのではないでしょうか。
いずれにしても、
神明宮は健在です、獅子舞も盛んです。近々鬼城の句碑も建つとのことです。
次回は常仙寺です。なにせ並榎山ですから。
  

Posted by 捨蚕at 15:21
Comments(2)下並榎シリーズ