

高崎志に”用水掘ハ当住吉町ノ北西ノ背ヨリ支水ス、是ヲ新井堰ト呼ブ、スナワチ駅内ノ用水ノ源ナリ”とあります。
元冶元年11月に天狗党が高崎に近付いた時も、明治2年10月の五万石騒動の時も、”新井堰の水の手を止めて城下に火を放つ”という、噂がまことしやかに流れたそうです。
当時の人々にとっては、周知のことだったんですね
もしも、長岡藩や会津藩のように、高崎藩が薩長の官軍と戦ったとしたら。
官軍はまず、新井堰を占拠し、城内への水の手を押さえたでしょう。
そして北西からの風を期して火を放したことでしょう。
さらに七口のうちの、中山道の常磐町口から、室田街道と三国街道からの隊は相生町口に、また一隊は江木新田口から怒涛のように攻め寄せたでしょう。
ここ新井堰は、まさに攻城の要所であり、最大の激戦が予想されます。
敗れた藩主等は、西の丸あたりから烏川を下り、舟で江戸へむかつたかもしれませんね。
高崎城下が灰燼に帰さなかったことを、先人に感謝しなければとおもいます。
大きな樹が、長野堰を見下ろしています。
三本の大樹ですが、一つに見えたり、二つに見えたりします。
場所により一本に見えるこの巨大な樹は、
堰のほとりで、様々な時の流れを見続けたことでしょう。
(十九の堰のうちの第十二番の堰です)