越後頚城郡の曹洞宗の僧の祖海さん、江戸浅草の安昌寺に滞在中に、吉原の遊女すみさんを身請けしました。
妻帯禁止の僧ゆえか通行手形が貰えません、そこで祖海さん、ひと伝に二人の駕籠かき(嘉兵衛こと五兵衛と八五郎)を案内に雇い、四人で越後へと向います。
川越街道より上州藤岡に出て、中山道に入り、碓氷の関所を避けて山越えし越後に戻ります。
そこでなぜか、人相書きの手配書が廻ります。
”御定書百箇条”によると、
関所を通り難き者が関所を通らず山越えをした場合、その所において磔(はりつけ)。
ただし男にさそわれて山越えした女は奴(やっこ)とする。
また案内した者はその所で磔とあります。
(奴とは吉原等での下働きの身分のことです)
八五郎は遁走、すみさんは奴に、残りの二人は磔、
嘉兵衛さん獄死してしまいますが、それでも磔でした。
写真の竹林は、(1)の図にありましたね。
それと、関所破りの場合は
仮設の刑場のようですね。
通常の処刑は常設でしたが。
ところで関所破りの処刑は
寛政九年になぜか三回
天保年間に三回あったそうです。
文政三年十二月九日、暁の七ツ半(午前4時)、松井田宿を出立。
夜明け方、横川村の”加に原川原”に到着。
同心、駕籠よりだし罪木(磔柱)に結びつけ建て候。
死罪役人、左右より都合25~26回鑓(やり)突き候。
六ツ半(午前7時)御仕置、滞りなく相済み候。
朝早くから、河原や中山道往還・畑道に至るまで、
大勢の村人や旅人が息を潜めて見物していました。
磔柱は三日間晒されます。
昼夜番人を置き
浅間おろしの吹きすさぶなか
往還道からよく見通せました。
十一日の昼過ぎより村役人の指図により、手際よく死骸と刑場は取り片付けます。
竹木や番小屋は見苦しくないように焼却。死骸は目障りでない所に埋めらました。
僧・祖海の心中および仔細は不明です。
ただ刑は整然とした儀式としてお行われたようです。
河原にポツンといるお地蔵様が印象的でした。(完)
妻帯禁止の僧ゆえか通行手形が貰えません、そこで祖海さん、ひと伝に二人の駕籠かき(嘉兵衛こと五兵衛と八五郎)を案内に雇い、四人で越後へと向います。
川越街道より上州藤岡に出て、中山道に入り、碓氷の関所を避けて山越えし越後に戻ります。
そこでなぜか、人相書きの手配書が廻ります。
”御定書百箇条”によると、
関所を通り難き者が関所を通らず山越えをした場合、その所において磔(はりつけ)。
ただし男にさそわれて山越えした女は奴(やっこ)とする。
また案内した者はその所で磔とあります。
(奴とは吉原等での下働きの身分のことです)
八五郎は遁走、すみさんは奴に、残りの二人は磔、
嘉兵衛さん獄死してしまいますが、それでも磔でした。
写真の竹林は、(1)の図にありましたね。
それと、関所破りの場合は
仮設の刑場のようですね。
通常の処刑は常設でしたが。
ところで関所破りの処刑は
寛政九年になぜか三回
天保年間に三回あったそうです。
文政三年十二月九日、暁の七ツ半(午前4時)、松井田宿を出立。
夜明け方、横川村の”加に原川原”に到着。
同心、駕籠よりだし罪木(磔柱)に結びつけ建て候。
死罪役人、左右より都合25~26回鑓(やり)突き候。
六ツ半(午前7時)御仕置、滞りなく相済み候。
朝早くから、河原や中山道往還・畑道に至るまで、
大勢の村人や旅人が息を潜めて見物していました。
磔柱は三日間晒されます。
昼夜番人を置き
浅間おろしの吹きすさぶなか
往還道からよく見通せました。
十一日の昼過ぎより村役人の指図により、手際よく死骸と刑場は取り片付けます。
竹木や番小屋は見苦しくないように焼却。死骸は目障りでない所に埋めらました。
僧・祖海の心中および仔細は不明です。
ただ刑は整然とした儀式としてお行われたようです。
河原にポツンといるお地蔵様が印象的でした。(完)