2010年06月05日

”はりつけ河原”(2)文政三年の事

越後頚城郡の曹洞宗の僧の祖海さん、江戸浅草の安昌寺に滞在中に、吉原の遊女すみさんを身請けしました。 

妻帯禁止の僧ゆえか通行手形が貰えません、そこで祖海さん、ひと伝に二人の駕籠かき(嘉兵衛こと五兵衛と八五郎)を案内に雇い、四人で越後へと向います。

川越街道より上州藤岡に出て、中山道に入り、碓氷の関所を避けて山越えし越後に戻ります。

そこでなぜか、人相書きの手配書が廻ります。 

”御定書百箇条”によると、
関所を通り難き者が関所を通らず山越えをした場合、その所において磔(はりつけ)。

ただし男にさそわれて山越えした女は奴(やっこ)とする。

また案内した者はその所で磔とあります。
(奴とは吉原等での下働きの身分のことです)



八五郎は遁走、すみさんは奴に、残りの二人は磔、
嘉兵衛さん獄死してしまいますが、それでも磔でした。





写真の竹林は、(1)の図にありましたね。 

それと、関所破りの場合は 
仮設の刑場のようですね。 

通常の処刑は常設でしたが。 


ところで関所破りの処刑は 
 寛政九年になぜか三回 
 天保年間に三回あったそうです。







文政三年十二月九日、暁の七ツ半(午前4時)、松井田宿を出立。 
 夜明け方、横川村の”加に原川原”に到着。 

  同心、駕籠よりだし罪木(磔柱)に結びつけ建て候。 
    死罪役人、左右より都合25~26回鑓(やり)突き候。 
 
      六ツ半(午前7時)御仕置、滞りなく相済み候。


  
朝早くから、河原や中山道往還・畑道に至るまで、 
大勢の村人や旅人が息を潜めて見物していました。 


磔柱は三日間晒されます。 
昼夜番人を置き
浅間おろしの吹きすさぶなか 
往還道からよく見通せました。 


十一日の昼過ぎより村役人の指図により、手際よく死骸と刑場は取り片付けます。 

竹木や番小屋は見苦しくないように焼却。死骸は目障りでない所に埋めらました。 



   僧・祖海の心中および仔細は不明です。 
      ただ刑は整然とした儀式としてお行われたようです。
   
       河原にポツンといるお地蔵様が印象的でした。(完)


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この記事へのコメント
はりつけ河原での死刑が、関所破りは仮設の刑場、通常は常設だったとありますが、その違いがどういったものなのか気になります。
死刑執行場所は同じ場所で、関所破りはその都度刑場を仮設し、その他の犯罪者は常設の刑場施設があったと考えてよろしいのでしょうか。
大いに気になります。
Posted by ブンちゃん  at 2016年03月19日 11:17
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