2010年04月03日

紡績てなあに(踏切シリーズ5)

 





















紡績てなあに。
きつと、紡績工場があったんですね。 

大正13年の地図にはなにも、ありません。 
昭和5年の地図には、ありました。 
女学校西道のほぼ、中央から西に道が延びています。 
北四条通と、名付けられています。
長野堰をはさんで、南に工業試験場、北に上州絹糸紡績、発見しました。 
これが、紡績踏切の語源でした。 
戦後、私が子供の頃は、東部通信がありましたね。

右の写真は、当時の事務所の跡なのでしょうか。
いまは商科大のグランド内になっています。 
よく見ると、レトロでいいですね、北海道みたいで。 

     高崎駅まで2K738M


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この記事へのコメント
なるほどー、踏切りの呼称からも歴史が辿れるのですね。
面白いです!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年04月03日 19:11
たしか、ブロックやですよね東部通信とかって?
ところでその近くに「下駄工場」ありませんでした?

小学校のころ仲良かった友だちのお母さんの実家で、よく遊びに行きました。

高砂町から大橋までって、結構な冒険ですよね。
小学生にしたら・・・・・・
もちろん、長野堰伝いに行ったんですけど。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年04月03日 20:47
高砂町から大橋町、大変な冒険ですよ。 

なにせ、大橋は旧市街地のはずれですから。 

下駄工場ですか? すみません。


ところで、天田ドレメ女学院(弓町)のこと、教えてください。岡本とか高崎タイピストとか。、
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年04月03日 21:13
迷道院さん 
多忙でして、コメント遅れがちですいません。 
それに写真も、まだですね。 
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年04月04日 09:35
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    コメント(4)