
何故にその名前になったかはわかりません。
長泉寺の南、高崎貨物の敷地に一部重なります。
ここに方形の館があったと、高崎市史にあります。時は十六世紀、70m四方の複郭の館だったそうです。
実は、これとまったく同じの館が、道をはさんで、北にありました。今は飯玉山最勝院長泉寺です。
下横町の興禅寺の末寺で、慶長六年(1601年)の開山です。
それ以前には、十一面観音堂があったそうです。
箕輪城の落城は永禄六年(1566年)と云われています。
それ以前に、上飯塚城(常福寺・常黙庵跡)の南に、ほぼ一直線に、二つの館があった訳です。
東北に本郭備えた二つの館でした。
鼠屋敷の西隅に、長泉寺の墓地が高崎貨物の敷地に囲まれてありました。
雪化粧をして、ひつそりと、鼠屋敷跡の西北にありました。
それにしても、気になる名前の、ネズミ屋敷でした。