2010年03月08日

望浅閣のこと(小発見シリーズ25)

   





















”ぼうせんかく ”  なつかしい響きの、この場所のお話です。 
高級な住宅地の代名詞と、おおよその場所として以外、あまり考えたことはなかった望浅閣でした。 
高崎の散歩道に”望浅閣とは、室田街道から南へ分かれて、中山道の君が代橋に通じる野中の途中、五輪坂の上に建てられた、歌川町の小島家の別荘である。その名の通り、烏川を眼前にして浅間山を望む景勝の地であった。”  

ドングリを拾いにいった思い出はあるものの、知識は上記の数行だけでした。 
ひよんなことから、もと料亭、望浅閣の経営者の息子さんに当たる方から話を聞くことができました。 

昭和初期に小島家の別荘を買いうけて、日本庭園のなかに十三の独立した家屋のある料亭、を開業したそうです。 
高崎の街中で、魚屋さんを手広くしていたそうですが、その店を親戚に譲っての開業だったそうです。 

貨車で軽井沢から浅間石を大量に運び入れ、積上げた滝が二つあつたそうです。レンガ積みの温室もあったといいます。
すぐ前を烏川が流れ、屋形舟を浮かべたそうです。 沢蟹もたくさん捕れたそうです。 

昭和9年11月15日付の群馬県知事からの感謝状を拝見しました、11月13日の陸軍特別大演習の際、高級将校が多数宿泊したそうです。たしか牛島中将という有名な人も泊まったとのことです。 
 

望浅閣の目と鼻の先に昭和3年に村上鬼城が移り住んでいます。

           浅間山の 煙出てみよ けさの秋  
もしかして、望浅閣の名前も、鬼城さんがとおもいましたが、確認できませんでした。 

高崎市街地から旧室田街道を、旦那衆を乗せたハイヤーや、芸者衆を乗せた人力車が、土埃をたてて、並榎にむかったことでしょう。  

その後、戦局の悪化に伴い、賑わいは薄れ、ふたたび小島鉄工のものになったそうです。
戦後、護念寺の所有に、そのほとんどが成りましたが、庭にその面影があちこちと、残っているとのことです。
           望浅の 館は五輪の 坂の上


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この記事へのコメント
望浅閣懐かしいですね
高崎旧市内のミステリー地域
子供の頃に知らずに遊んでいた
数々の場所の再発見
次回も期待しています
Posted by スランバー  at 2010年03月08日 22:01
望浅閣の息子さんがいらっしゃったんですか。
第一級の情報源ですね。

>高崎の街中で、魚屋さんを手広く
って、もしかして魚仲さんのことですかね?

昔の高崎の名家のご子孫が一堂に会したら、素晴らしい高崎の歴史イベントになりますね。
価値があるかも。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年03月08日 23:31
スランバーさんへ 記憶のなかの風景のミステリーゾーンの発見に努めます。
Posted by 捨蚕  at 2010年03月09日 08:55
望浅閣について
捨蚕さんがお持ちの「開化高崎控帳」の 60
君が代橋とその周辺(163P)に望浅閣のことが数行書かれていましたよ。
望浅閣の下の烏川は深くて「あおあお」と呼ばれ、子ども達が飛込みをして遊んだようです。

迷道院高崎さんへ
その魚屋さんは現在もあるそうですが、魚仲さんではありません。
Posted by いちじん  at 2010年04月08日 16:12
いちじんさんへ 
ありましたね、峰岸先生の文章ですね。 

芸妓のひく三弦の音のする、旦那衆の遊興の場
割烹旅館、望浅閣が。

この本の 筆者の、金井先生も峰岸先生も、我が母校の四中に在職していました。 

ありがとうございました。
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年04月09日 04:51
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