好評に付き続編八間道路であります。
田町三丁目から始まる伊勢崎街道のうち、上越・両毛・信越線の踏切までを通称八間道路と言います。昭和二年の道路拡幅により、それまで幅二間(約3.6M)の八軒道路は幅(約14.4M)の八間道路となりました。その時、法輪寺は西向きから南向きに変わりました。
さて、昭和36年度住宅地図です、前回は北通町の交差点まででした。黒沢薬局で九蔵町からの道を渡ると高崎タイピストです。倉庫のような状態だったのを記憶してます。次が沢田玩具店、その奥が松島湯、ミフジ文庫、尾崎履物店。確か、ボクシングシワムがあった所、毎日新聞販売所、金古帽子店、安達タバコ店、中沢履物店と続きます。天田毛糸店、マミパーマ、片山生花店、ここで大雲寺の山門に至る路地にでます。道を渡ると田中コンロ店その三軒北に天田ドレスメーカー女学院があります。
土橋陶器店、アガリ歯科、しまだ化粧品、堀田屋燃料店、そして羅漢山正覚院法輪寺、太陽堂菓子店、そしてかの神田菓子店。弓町交差点、そう東小の西の通りに、やっとでました。
ここで、ひと休み。それにしても、すごい数です、驚きます。
話はここで、昔の法輪寺に戻ります。
幅二間の八軒道路は、田中コンロ店の所で、西向きの山門にぶっかります。大雲寺の山門に至る道と、フラワーマンシヨンから大信寺に南下する道とは、八間道路と十字路になっていません。いわゆる、すじ違いになっています。表門の前北側に道租神宮がありました。これが、すじ違いの理由です。羅漢町の鎮守で法輪寺が別当です、道路拡幅に伴い、高崎神社境内に昭和二年に移転しています。
ところで、羅漢です、井伊直政の築城時、町割りの時点で、羅漢堂は存在していました。更正高崎旧事記に、羅漢堂があったので、羅漢町となり山号も羅漢山となったとあります。また、この羅漢堂の脇を和田宿時代は下野・武蔵道が、江戸時代は無縁堂へ通じる道があったとあります。
次回はこの道、そうジヤンボン街道です。
田町三丁目から始まる伊勢崎街道のうち、上越・両毛・信越線の踏切までを通称八間道路と言います。昭和二年の道路拡幅により、それまで幅二間(約3.6M)の八軒道路は幅(約14.4M)の八間道路となりました。その時、法輪寺は西向きから南向きに変わりました。
さて、昭和36年度住宅地図です、前回は北通町の交差点まででした。黒沢薬局で九蔵町からの道を渡ると高崎タイピストです。倉庫のような状態だったのを記憶してます。次が沢田玩具店、その奥が松島湯、ミフジ文庫、尾崎履物店。確か、ボクシングシワムがあった所、毎日新聞販売所、金古帽子店、安達タバコ店、中沢履物店と続きます。天田毛糸店、マミパーマ、片山生花店、ここで大雲寺の山門に至る路地にでます。道を渡ると田中コンロ店その三軒北に天田ドレスメーカー女学院があります。
土橋陶器店、アガリ歯科、しまだ化粧品、堀田屋燃料店、そして羅漢山正覚院法輪寺、太陽堂菓子店、そしてかの神田菓子店。弓町交差点、そう東小の西の通りに、やっとでました。
ここで、ひと休み。それにしても、すごい数です、驚きます。
話はここで、昔の法輪寺に戻ります。
幅二間の八軒道路は、田中コンロ店の所で、西向きの山門にぶっかります。大雲寺の山門に至る道と、フラワーマンシヨンから大信寺に南下する道とは、八間道路と十字路になっていません。いわゆる、すじ違いになっています。表門の前北側に道租神宮がありました。これが、すじ違いの理由です。羅漢町の鎮守で法輪寺が別当です、道路拡幅に伴い、高崎神社境内に昭和二年に移転しています。
ところで、羅漢です、井伊直政の築城時、町割りの時点で、羅漢堂は存在していました。更正高崎旧事記に、羅漢堂があったので、羅漢町となり山号も羅漢山となったとあります。また、この羅漢堂の脇を和田宿時代は下野・武蔵道が、江戸時代は無縁堂へ通じる道があったとあります。
次回はこの道、そうジヤンボン街道です。