2010年03月17日

倉賀野城落城(小発見シリーズ 28)

  






















上毛新聞連載中の真田三代です(火坂雅志・作  安芸良・画)


武田軍が倉賀野城を攻め囲んでいます。
烏川を挟んで武田信玄が倉賀野城主倉賀野直行と対峙してます。

一時廃城になっていた木部城を、甘利昌忠が再興し、倉賀野城攻撃の拠点とした武田軍は、さらに前線基地を、
木部北城(いまの阿久津の玄頂寺周辺)に置きました。

小説によると時は、永禄八年の六月のことです。
和田氏の離反で箕輪城と分断された倉賀野城。
真田昌幸の助言で、倉賀野十六騎と呼ばれた武将のうち五名の内応で、落城します。
倉賀野氏は、烏川から舟で下流に逃れ、上杉を頼り厩橋経由にて、越後へと逃れます。



挿し絵がいいですね、彼岸の倉賀野といい、信玄の大きな背中といい、小説の内容を挿し絵が引き立てますね。
共栄橋沿いの堤防の上で、信玄と昌幸が、川向こうの雁がね団地の方を見ている姿ですね。 

確か,阿久津町にも、お諏訪様がありました。
信玄は信州の諏訪神社から四十八の宝石(たからいし)を持って上州に進軍して来たといわれてます。
宝石のうえに神社をつぎつぎと建立していきました。     
つまり、縄張りの目印ですね。ただ記録にあるのは、新町と江木のお諏訪様だけですが。

もちろん出陣のときも、上諏訪神社や新海神社(佐久郡)に箕輪城の落城の願文を掲げています。


永禄八年六月二十五日、倉賀野城は落城しました。

この落城で、箕輪城は完全に孤立してしまいました。 

その箕輪城の落j城は、翌年永禄九年九月二十九日のことでした。
  
ここで提案です、阿久津河岸に信玄の腰掛石を置きませんか。


同じカテゴリー(戦国速報シリーズ)の記事画像
武田家滅亡
同じカテゴリー(戦国速報シリーズ)の記事
 武田家滅亡 (2010-07-14 07:33)

この記事へのコメント
そうですか・・・・・

阿久津はわが愛妻の故郷です。

どうやら、アノ地の頑固さはそれなりのDNAに由来するんですね。

未だ、飲み屋一軒ありませんから(笑)。
鮓屋が一軒できましたけど、止めちゃいました。
専業農家数も多いですね。愛妻の実家も専業です。

>阿久津河岸に信玄の腰掛石を置きませんか。

その昔ですけど、愛妻の実家にはなぜか舟があったそうです。
烏川、よく決壊したそうです。

信玄の腰掛椅子・・・・・

ところで、信玄は敵、味方???

まあ、敵も味方もないか(笑)。
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年03月19日 19:26
山名だいこん、木部ごぼう、阿久津にんじん、根小屋いも。
確かに共栄橋を渡ると、違う世界が広がりますね。
Posted by 捨蚕  at 2010年03月21日 18:29
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
倉賀野城落城(小発見シリーズ 28)
    コメント(2)