この肖像写真と悪名が先行して、いまひとつ全貌がわからない初代岩鼻県知事です。
慶応四年六月十五日,岩鼻県の発足とともに軍監兼知県事に任命されています。
明治と改元されたのは、慶応四年九月八日でした。
明治元年十二月七日に職を免じられ、二代目の小室信太夫が知県事となっています。
(在任期間は六ヶ月弱でした)
もう10年近く前に、渋川の旧商家の居間に、額に入つたこの写真を見ました。
今思えば、このお宅が小栗日記の発見された、あの後藤宅でした。
私がお会いした方は、官軍巡察使大音龍太郎に起用されて会計方面を掌握し、
上野介の刑死後、権田に出張し遺品中より日記と家計簿を持ち帰った後藤八郎右衛門のひ孫に当たる方でした。
近江伊香郡木ノ本村大音出身の勤皇浪士。勤皇僧として知られた箕輪龍門寺の住職をたよって、一時潜居滞在していたといはれています。
”抵抗した場合は討ち果たし首級を総督府に届けて、首実検に入れるよう”という指示を無視し”抵抗しない小栗主従”を、
即断首の判断をしたのは、この”首切り龍太郎”と言われているようです。
慶応四年閏四月六日朝、四ッ時半(午前11時)の断首でした。
(その二ヵ月後、岩鼻県知事に任命されました)
ちなみに、日記は四月二日で終わっています。
慶応四年六月十五日,岩鼻県の発足とともに軍監兼知県事に任命されています。
明治と改元されたのは、慶応四年九月八日でした。
明治元年十二月七日に職を免じられ、二代目の小室信太夫が知県事となっています。
(在任期間は六ヶ月弱でした)

もう10年近く前に、渋川の旧商家の居間に、額に入つたこの写真を見ました。
今思えば、このお宅が小栗日記の発見された、あの後藤宅でした。
私がお会いした方は、官軍巡察使大音龍太郎に起用されて会計方面を掌握し、
上野介の刑死後、権田に出張し遺品中より日記と家計簿を持ち帰った後藤八郎右衛門のひ孫に当たる方でした。
近江伊香郡木ノ本村大音出身の勤皇浪士。勤皇僧として知られた箕輪龍門寺の住職をたよって、一時潜居滞在していたといはれています。
”抵抗した場合は討ち果たし首級を総督府に届けて、首実検に入れるよう”という指示を無視し”抵抗しない小栗主従”を、
即断首の判断をしたのは、この”首切り龍太郎”と言われているようです。
慶応四年閏四月六日朝、四ッ時半(午前11時)の断首でした。
(その二ヵ月後、岩鼻県知事に任命されました)
ちなみに、日記は四月二日で終わっています。