どこだか判りますか、そうですね、北小学校の校庭です。
二宮金次郎さんは、写っていませんが、間違いなく北小学校です。
北小学校は明治35年4月の開校です。
が、その以前は、弁天堂がありました。
周囲に池があり、弁天堂のうしろに榎がありました。
川野辺寛の高崎志に、本町の北の田んぼの中に、九尺二間の藁葺きの弁天堂がある、とあります。
普門寺の持分のにて、本尊の弁財天は長さ五寸の泥塑であるといいます。
堂の西に天満宮。東に念仏堂があったといいます。
普門寺は明治5年11月に、廃寺になった寺です。新義真言宗で玉田寺を本寺としてました。
場所は本町三丁目の北東の角、椿町入り口に南向きにあったそうです。
南に中山道、北は遠堀で天正三年(1575年)覚心という僧の開山、建立といいます。
明治初年になって書かれた更正高崎旧事記には、境内30坪、方一間の堂、玉田寺持、とあります。
また明治十五年三月に中紺屋町の玉田寺に移すともあります。
天満宮も念仏堂も、明治十五年時点には、すでに存在していません。
明治10年に成田山光徳寺が、赤坂村字町裏(本町の裏)に開れました。
したがつて五年間は、成田山と榎弁天は目と鼻のさきにあったわけです。
北小の校庭には、弁天様がいたんですね。
今も、立派な弁天榎を金次郎さんが横目で、みています。
ちなみに、請地町と成田町ができたのは、北小学校と同じ明治35年でした。
二宮金次郎さんは、写っていませんが、間違いなく北小学校です。
北小学校は明治35年4月の開校です。
が、その以前は、弁天堂がありました。
周囲に池があり、弁天堂のうしろに榎がありました。
川野辺寛の高崎志に、本町の北の田んぼの中に、九尺二間の藁葺きの弁天堂がある、とあります。
普門寺の持分のにて、本尊の弁財天は長さ五寸の泥塑であるといいます。
堂の西に天満宮。東に念仏堂があったといいます。
普門寺は明治5年11月に、廃寺になった寺です。新義真言宗で玉田寺を本寺としてました。
場所は本町三丁目の北東の角、椿町入り口に南向きにあったそうです。
南に中山道、北は遠堀で天正三年(1575年)覚心という僧の開山、建立といいます。
明治初年になって書かれた更正高崎旧事記には、境内30坪、方一間の堂、玉田寺持、とあります。
また明治十五年三月に中紺屋町の玉田寺に移すともあります。
天満宮も念仏堂も、明治十五年時点には、すでに存在していません。
明治10年に成田山光徳寺が、赤坂村字町裏(本町の裏)に開れました。
したがつて五年間は、成田山と榎弁天は目と鼻のさきにあったわけです。
北小の校庭には、弁天様がいたんですね。
今も、立派な弁天榎を金次郎さんが横目で、みています。
ちなみに、請地町と成田町ができたのは、北小学校と同じ明治35年でした。