旧室田街道を北上、踏み切り(シリーズ其の弐の信越線NO7踏切)手前を左折して約五十米で滝谷不動公民館に着く。南は上並榎テニスコート場、そして烏川。
この公民館わきに、滝谷不動明王がある。文久元年十二月吉日とある。周りにも、古そうな不動尊が数体、東を向いて鎮座している。かっては、烏川にごうごうと滝が流れ落ちていたのでしょう。
さて例の虚空蔵古墳ですが、滝谷不動のすぐ東、高前バイパスの手前の字屋敷前にあったそうです。出土品として石祠有りとあります。ちなみに、不動明王も虚空蔵菩薩も右手に剣を持っています。両地とも、護国寺の南東に当りますが、距離的には、他の三社の二倍近くあります。寺の四方に社を配し、には方角はともかく不動だけ離れすぎています。
まあ、一千年前の事だし、文献も特に無い事だし、と言い訳をぶつぶついいつつ踏み切りを渡り北進する捨蚕であった。
ところが長野堰の放水川をわたり、旧室田街道が、護国寺の山門に出るために左折する手前に、不動尊があったではありませんか!
くるわ不動とあります。ここから西側一体は並榎城の郭(くるわ)になります。深い谷は、さ川(現在は佐賀野川という名前)城の堀の一部です。滝があり、不動があってもなんら不思議ではありません。この近くを想定すると、距離的に都合がいいのですが。
とりあえず、天龍護国寺を囲む四社巡りの旅は、これにて、ひとまず筆をおきます。
それにしても、何故に上並榎なのか?謎は謎を呼びます。次回は、もっと、鳥瞰的にみた上並榎周辺を考えてまとめとしたいとおもいます。
この公民館わきに、滝谷不動明王がある。文久元年十二月吉日とある。周りにも、古そうな不動尊が数体、東を向いて鎮座している。かっては、烏川にごうごうと滝が流れ落ちていたのでしょう。
さて例の虚空蔵古墳ですが、滝谷不動のすぐ東、高前バイパスの手前の字屋敷前にあったそうです。出土品として石祠有りとあります。ちなみに、不動明王も虚空蔵菩薩も右手に剣を持っています。両地とも、護国寺の南東に当りますが、距離的には、他の三社の二倍近くあります。寺の四方に社を配し、には方角はともかく不動だけ離れすぎています。
まあ、一千年前の事だし、文献も特に無い事だし、と言い訳をぶつぶついいつつ踏み切りを渡り北進する捨蚕であった。
ところが長野堰の放水川をわたり、旧室田街道が、護国寺の山門に出るために左折する手前に、不動尊があったではありませんか!
くるわ不動とあります。ここから西側一体は並榎城の郭(くるわ)になります。深い谷は、さ川(現在は佐賀野川という名前)城の堀の一部です。滝があり、不動があってもなんら不思議ではありません。この近くを想定すると、距離的に都合がいいのですが。
とりあえず、天龍護国寺を囲む四社巡りの旅は、これにて、ひとまず筆をおきます。
それにしても、何故に上並榎なのか?謎は謎を呼びます。次回は、もっと、鳥瞰的にみた上並榎周辺を考えてまとめとしたいとおもいます。