2010年09月11日

明和八年正月のこと

鬼城の句碑建立除幕(9月17日)の新聞記事をみて,神明宮へ行って見ました。
(考えれば当然ですが、句碑はブルーシートに包まれて、除幕日を待っていました)

”明和八辛卯年正月吉祥日”と書かれた道祖神が目に入りました。

  どこかで見た年号。  

私の2月のブログ”さ迷える道陸神”と”道祖神の謎”の年号と同じでした。

”左志らいわ・はるな”の、さ迷える道陸神(道しるべ道祖神)は正月まで一緒でした。  

”高崎漫歩”には、”この道祖神は並榎から飯塚へ行く道の角にあつたものといわれてる”とありました。

何処にあつたかは分かりませんが、旧室田街道沿いにあつたような気がします。 

同じ年に、同じ道沿いに、造られたような気がします。

旧室田街道が飯塚方面へ行く道との追分地点とは・・・・何処だつたんでしょうか。




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この記事へのコメント
こんにちは。


旧室田街道と飯塚村への追分についてですが、明治18年の地図で確認しても「ここだ」と言う確証が得られないですね。
と言うのも、室田街道自体、下小塙村から高崎驛(現高崎市街)まで街道らしい道と出会わないので、畦道級の道と照らし合わせるしかない様です。

その中では室田街道から飯塚村方向へ伸びる道が、上並榎村から分岐する細い道として見られます。
ただしこの道は一本道ではなく、途中文字通りの紆余曲折があります。


まず当時の室田街道(旧室田街道)ですが、上並榎村辺りでは現在のような直線道路ではなく、かなり現道から外れて迂回しています。信越本線の室田街道踏切から室田方向へ向かって300mほど進み、レオパレス付近で左に曲がり、護国寺の裏手を進み、天神川を渡り、道なりに進んでファミリーマートの先にて現道と合流するようです。


飯塚村方向へ向かう小道と分岐するのは、レオパレス付近で左折して約100m程の丁字路で佐賀野川を渡る直前です。


分岐した小道は50m程で直ぐ右に曲がりそしてまた直ぐに左に曲がる「鉤型」で、さらにもう一度右手に曲がって稲荷橋の方向へ向かっています。
当時の地図では現稲荷橋の角度とは異なる小橋がかかっています。

さらに見ていくと、橋を渡ってすぐ突き当たりの丁字路となり、左は筑縄村方向へ向かう小道、右が飯塚村方向へ向かう小道となっています。
その後小道は、100m程で長野堰から離れ(ミニストップの裏手辺り)、飯塚村方向へ伸びています。一ヶ所道が途切れて右左折しますが、三国街道へ至り、飯塚村の中心にある長泉寺前に繋がっていました。


長々と書いてしまいましたが、上並榎村から飯塚村へ向かう道は現在の追川通りの原型であった様に思われます。


明治18年当時の地図は「地図で見る100年前の日本」(小学館)に収録されています「群馬縣上野國碓氷郡中豊岡村」で、現在の地図は都市地図「高崎市」(昭文社)にて比定しました。
Posted by 散歩人  at 2010年09月12日 17:38
詳細に、ご説明ありがとうがざいます。  
疑問が少しずつ解けていく気がします。

大きな謎の山を螺旋状に、それでも少しずつ 
登りはじめた気がします。 

ところで、散歩人さんは・・野暮ですね。 
懲りずにまたお願いします。
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年09月12日 22:40
>捨蚕様


お釈迦様に説法をしてしまったみたいで気恥ずかしい限りです。
時刻表と地図が好きであれこれ想像するのが好きなもので…高崎の地理、歴史に関して全くの門外漢ですので、何卒ご容赦ください。

こちらこそ今後とも宜しくお願い申し上げます。
Posted by 散歩人  at 2010年09月13日 00:27
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