2010年07月29日

ここは廃寺跡・椿町あたり











































ここは椿町と思ったら、なんと本町三丁目でした。かつて、”ステーキのブロンコ”のあった辺りです。その前は昭和元年創業の和洋菓子店”きよ香”があったそうです。 

この本町三丁目の交差点は明治11年9月の明治天皇の行幸までは、十字路でなくT字路でした。 
明治5年11月に廃寺になるまで、ここには真言宗の”普門寺”がありました。天正三年(1575年)の開山といいますから、なんと三百年近くも、ここは境内355坪の玉田寺の末寺の”蓮光山福寿院普門寺”でした。
本尊は大日如来の木像、南向きの山門にして本堂、不動堂、護摩堂があり、北には”遠構え”が東西に走っていました。

3月14日の記事の”弁天さまのいた学校”の弁天堂も普門寺の持分でした。




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この記事へのコメント
いいですねぇ。
高崎の町なかの昔の姿、どんどん暴いて下さい。
楽しみにしております!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年07月29日 18:46
捨蚕様、若い頃「ブロンコ」よく行きましたよ。店内はウエスタン風の店でした。
今はこちら箕郷にあります。箕郷中学校の向かいあたりですね。椿町、本町あたり懐かしいです。
Posted by 柏木沢の農家おじさん  at 2010年07月30日 05:28
迷道院さんへ 
暴く、いいですね。 
昔の高崎の暴露記事・・・。 
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年07月30日 08:44
柏木沢さんへ 
平仮名の”はんぺん、かまぼこ”が良いでしょう。銭湯はこの看板のすぐ裏だったんですね。
氷の日本一商会さん繁昌しているそうですよ。
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年07月30日 08:58
その昔、火葬場は法輪寺の近くにあったそうです。

そののち江木橋近くに移り、のち、城南の方に・・・・・

下和田に「高崎競馬場」があったそうです。

僕らが子どもの頃は「日本一商会」、氷室屋さんはチョット敷居が高かった。
冷蔵庫のないあの時代「氷室屋」さんは特別な商売だったんでしょうね。

ステーキのブロンコはたしか火災で・・・・・
蒲鉾屋さんは小田原の方の出自だったとか。
親父が沼津出身だったもんですから、懐かしかったのかよく揚げモノを買ってましたね。

店頭で揚げたて、熱々の「イカだんご」は美味かったなぁ・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2010年07月30日 14:52
24歳さんへ 
この場所を語るのには、少々気がひけました。
ただ、
道路拡張の時に人骨ゴロゴロだそうだったそうです。なにせ300年間もお寺、しかも土葬です。そんなことを、知って欲しかったんです。  
Posted by 捨蚕捨蚕  at 2010年07月30日 19:21
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