2010年06月21日

江戸切絵図(小栗上野介邸)

 
尾張屋清七板”江戸切絵図” 
 飯田町駿河台 小川町絵図  
 (嘉永二年初刷)     

 神田川の川岸から 
 駿河台下に向かう坂道 
 この道に面して 
 川岸から五軒目にある 
 武家屋敷が、小栗邸です。

 正保図(1644年刷)には 
 水道橋の”小栗坂”に 
 ありましたが、 

 文政十年(1827年) 
 二月十二日の早朝 
 産声をあげたのは 
 この小栗邸でした。 




名前が”豊後守”ですね、この絵図が出版された時は、まだ上野介ではありませんでした。 

安政六年(1859年)十一月二十一日
遣米使節団の”監察・目付”に伴い、従五位下諸太夫に任命され豊後守を拝命。 

文久二年(1862年)六月五日 
勘定奉行就任に伴い、ようやく”上野介”が誕生しました。


小栗忠順(ただまさ)これが上野介の本名です。父親は小栗忠高(ただたか)です。新潟奉行をした人です。 
この忠高さん、じつは二軒隣の家から養子に入っています。 
道をはさんで、”金五郎”の字があります。ここが朝比奈さんの家、その隣に中川飛騨守という名の旗本の家があります。 
ここの忠英さんの四男が、嫡男のいない小栗家の長女”くに”と一緒になりました。 

2500石どり直参旗本の小栗忠高、忠順の誕生の時29歳。母くに17歳でした。 
領地はこの時点で上野・下野・上総・下総にまたがる十三か村でした。 
                                        (未完)



同じカテゴリー(小栗上野介のこと)の記事画像
安政七年正月十八日のこと
最後の一頁(小栗日記より)
大音龍太郎・24歳です
一枚の葉書から
続・江戸切絵図(小栗上野介№3)
権田の東善寺
同じカテゴリー(小栗上野介のこと)の記事
 安政七年正月十八日のこと (2010-09-21 13:46)
 最後の一頁(小栗日記より) (2010-09-14 20:03)
 大音龍太郎・24歳です (2010-09-05 01:08)
 一枚の葉書から (2010-09-01 05:34)
 続・江戸切絵図(小栗上野介№3) (2010-06-24 00:36)
 権田の東善寺 (2010-06-06 01:41)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
江戸切絵図(小栗上野介邸)
    コメント(0)