江木の無縁堂跡に
長野堰を背にして
”五万石騒動の碑”
その隣に、この水戸浪士”猿田忠夫の墓”があります。
(表面)
① 猿田忠夫
行年 二十
②郡司兵左ヱ門
行年 三十一
③上野群馬之助
行年 二十四
④岡野仙三郎
行年 二十
⑤ 浜吉
行年 四十六
⑥ 菊松
行年 十四
元冶二年(1865年)二月四日、雪深い敦賀で天狗党の処刑が始まったこの日、
高崎藩の処刑場で、上記六名の斬首が執行されました。
藤田芳之助とともに、天狗党の軍資金集めのために上州を奔走していた六名、
元冶元年五月二十六日、中仙道を高崎へ向かう一行を高崎藩の捕方が待ち受けていました。
逮捕理由は”領民をまどわし金品を強奪する不届至極な輩”でした。
場所は、豊岡の茶屋本陣・飯野善右衛門宅の前でした。
上野群馬之助(こうずけぐんまのすけ)・本名は富田伊十郎・玉村の住人。
明治四年(1871年)十月、当初高崎県を予定していたが急遽変更し、群馬県が成立しました。
上野国から群馬県への改名を予見したような、富田伊之助さんの改名の気がしてなりません。
追記ですが、捕らえられ石上寺に幽閉された七人のうち、中心人物である藤田芳之助は旧水戸藩士ということで釈放され、筑波山に戻っています。