ここに、大正十五年二月九日付け消印の一枚の葉書の複写があります。
差出人は倉田村権田・曹洞宗東慶寺小住・瀧澤精一。
宛名は群馬郡上郊村井出・斎藤平次治郎。
(以下全文)
復啓 御手紙正に拝見仕り候 御名前及び事跡に就いては 郡誌上に於いて
承知致し居り候 御申越の見は左記のとおりに御座候間 御承知相成度候。
一、豊後守は渡米当時のものにて、帰朝后に上野介を任官 寺は最後の上野介と申し居り候。
一、名乗りは 源忠順(みなもとのただまさ)。
一、斬首は慶応四年四月六日 年齢は四十弐歳。
御手許に丹青の椿及び芍薬に就いては郡誌上にて拝見致し 御厚志の段 深く感鳴仕り候。
何れ折りを見計ひ一度参上致度所存に御座候。
先ずは失礼ながら右御答へまで。
二月九日 敬白
この葉書は私の父が生前(多分10年位前)に、斉藤平次郎氏のお孫さんにあたる方からお借りしコピーしたもののようです。このお孫さんは古文書の会の仲間だったとと聞いています。
内容は、齋藤さんの質問に対しての東慶寺の瀧澤さんの回答のようです。
郡誌なるものを見てないので、詳しくは解りかねますが、文中の”椿及び芍薬”とは上野介の駿河台の屋敷にあったものとおもわれます。
小栗公が斬首された後、倉賀野河岸に駿河台の屋敷を引き払う際に荷造りされた大量の植木類が舟便で届いたそうです。
引き取り手のない荷を処理したのは、小栗家の知行地で倉賀野に近かった滝川村斉田の名主田口氏でした。
建設中であった権田の観音山の自宅の庭に植えられる予定の、植木類は競売に付され四散したと聞きます。
例えばその一部は群馬県一の大ソテツとして、引間の大山邸にあったと聞いています。
上野介は植木いじりが唯一の趣味だったと、曾孫にあたる方が話していました。
葉書の差出人と受取人は、どうも植木が取り持つ縁だったようです。
(続く)