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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年09月12日

庚申山古墳のこと

実は、お神明様でもう一つの小発見がありました。

石の祠です。文字が刻んでありますが、摩滅してよく読めません。
本で調べたところ、①庚申塔であること②明暦二年(1656年)の日付のあること③12名の建立者名のあること、が判明しました。
そしてこの石宮は庚申山といわれた古墳上に有ったものだそうです。

  昭和10年の古墳総覧には、この古墳は見当たりません。

(以前、上並榎在住のご高齢の方に、”こうしんやま”と”こくうぞうやま”の話を聞いたことがあります)

”こくうぞうやま”は古墳総覧の六郷地区に載っています。
住所は”上並榎屋敷前676”で、第20号虚空蔵山、円墳とあります。

そのすぐ南の660番地あたりに庚申山古墳はあったようです。
いつごろに祠を”お神明様”に移したかは、不明です。

 建立者の12名のうち6名が高橋姓で、2名が山口姓と富田姓、ほかに中原藤三郎、簗瀬半右衛門とあります。

現地で聞き歩けば、いろいろなことが判明するのでしょうが・・・。

そうそう、この”お神明様”も前方後円の第220号神明塚古墳でした。

  


Posted by 捨蚕at 22:24
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2010年09月12日

いろんな看板が・・・

  タバコを買いにいったらいろんな看板がありました。

       タイム・クリップのショーウインドに、
           ヘヤーサロンですかね、 
       最近模様替えのパスタ屋さん、
             どんなものが出る店ですかね、 
        イタリアの地図がありました。






  

Posted by 捨蚕at 11:49
Comments(1)上並榎シリーズ

2010年09月12日

コンサート

”ひげダンス”みたいな若い24歳さんのポスターを手に、
 今日は19時からコンサートです。

その前に、百円寿司に。 
妻はエンガワ、アナゴ。私はタコ、イカ、なぜかカンピョウ巻き。

会場は中高年の方々がゴロゴロ。 
でも、演奏は本物です。 
それに、知ってる曲が多いのが何よりでした。

帰りにコーヒーと思って見つからず、マックでした。 

 久々の生ライブ、堪能させてもらいました。




  

2010年09月11日

明和八年正月のこと

鬼城の句碑建立除幕(9月17日)の新聞記事をみて,神明宮へ行って見ました。
(考えれば当然ですが、句碑はブルーシートに包まれて、除幕日を待っていました)

”明和八辛卯年正月吉祥日”と書かれた道祖神が目に入りました。

  どこかで見た年号。  

私の2月のブログ”さ迷える道陸神”と”道祖神の謎”の年号と同じでした。

”左志らいわ・はるな”の、さ迷える道陸神(道しるべ道祖神)は正月まで一緒でした。  

”高崎漫歩”には、”この道祖神は並榎から飯塚へ行く道の角にあつたものといわれてる”とありました。

何処にあつたかは分かりませんが、旧室田街道沿いにあつたような気がします。 

同じ年に、同じ道沿いに、造られたような気がします。

旧室田街道が飯塚方面へ行く道との追分地点とは・・・・何処だつたんでしょうか。

  


Posted by 捨蚕at 13:59
Comments(3)下並榎シリーズ

2010年09月10日

並榎周辺で見つけたもの



坂道の途中の廃屋に 
井戸ポンプをみつけました。 

木綿の白い布が着いていて、 
キッコン、キッコンと音がしました。 

母が洗濯する時の 
    私の仕事でした。












常仙寺にありました、
せんだん保育園があるところです。 

薬師さまは目が多いですね。

















坂道を下りた角にありました。 
たしか昔から在りました。

薬屋さんだったと思います。 
隣が、神武三階湯かな。



















うまい手打ちラーメンがあると、 
その昔、何度か食べに行きました。



















お神明様にあります。 
村上鬼城の直筆です、 
並榎橋にあつたものです。

















 


帰りがけの信号待ちで、 
看板マップをのぞいたら、 

銭湯”鳩の湯”がまだ健在でした。  

Posted by 捨蚕at 18:50
Comments(0)下並榎シリーズ

2010年09月09日

バス・ストップの名前から・・

今も家畜市場前という名前のバス停があります。
北高崎駅前を出て三番目の停留場です。 
西小学校前・県営住宅前・家畜市場前と、続きます。

もちろん、50年前には高前バイパスは存在していません。
”高崎家畜保険衛生者社”とあるところに、バイパスができました。

スギ薬局とその東の空き地が高崎家畜市場でした。
子豚市の日には、よくトンビが上空を旋回してました。

  (実はこれ1月11日の無映像ブログ・家畜市場前のカバーブログです)




焼失した大谷食堂が市場の前にありますね。
今は”ラーメン清香”があります。(ビールセット千円がお得です)

食堂の北を走る道は、かって飯塚村と上並榎村を結ぶ重要な道でした。
”追川通り”ともよばれる長泉寺の前まで通じている道です。

 
この地図は昭和36年版、作成が35年とすると、右下にある我が家は34年に大橋から移転しました。 
県営住宅(右下の込入っているところ)の出来たのは、昭和33年のことだと思います。  

気が付いたら半世紀まえの話をしてる訳なんですね。
  
タグ :家畜市場


Posted by 捨蚕at 20:56
Comments(3)上並榎シリーズ

2010年09月09日

人のいないところ

         ひっそりとしてました。 
          虫が鳴いてました。

    涼しくなったので、夜の散歩です。 

  人っこ一人いない結婚式場の庭は、神秘的でした。 

       どうか神様、このまま永久に無人でありますように・・・。



  

2010年09月09日

気になる・木でない樹


 蔦(つた)が木の形で残っています。
   根はとうの昔に伐られてないのですが。



 建設会社の塀です。 
  昔は左官(しゃかん)屋さんでした。 
 

  
タグ :左官


2010年09月08日

閉店します

マクドナルド飯塚ベルク店が10月3日に閉店します。

12年前というと、開店は1998年でした。

実は、学生時代に私の息子がここでバイトを、四年間していました。

いつしか、このスーパーが我が家のメイン・スーパーとなりました。

そんな、マックも今月で閉店します。


  

2010年09月08日

のりたま


のりたま発売50周年だそうです、真中の”ふりかけ”にはお世話になった気がします。 

”のりたま”と”是はうまい”は記憶にあるデザインです。


(裏に有る栄養成分表)
のりたま (2.5g) 11kcal
是はうまい(2.5g) 9.9kcal
チズハム(2.0g)  9.4kcal


記念商品第2弾とあります。

第1弾が気になります。




 

”おまけ”にエイトマンシール入りです。 

妻とエイトマンの主題歌をおもわず、合唱してしまいました。 

同じ齢だと、つくずく思いました。        

 ”走れエイトマン 
      弾よりも速く・・・”  


2010年09月07日

電車軌道専用道


明治36年(1903年)から昭和30年(1955年)まで高崎に路面電車が動いていました。
ほぼ高崎駅から渋川行きのバス路線ですが、一区間だけ違いました。

住吉町の四つ角を過ぎて大橋の手前で右折をして電車専用道に入りました。 
この電車道は西山製菓店と泉氷屋の間を入り大川を渡り、電車山を越えて飯塚車庫へ向かっていました。

まさに、写真のこの場所に鉄橋がありました。

 母に聞くと、何度か渋川の親戚の家に行くとき乗ったといいますが、なぜか記憶に有りません。

この路地を電車が行くのを、時々想像している時があります。 

    *復刻版でも走るといいなと思う次第であります。

  
タグ :ガタ電


2010年09月07日

昭和35年の高砂町界隈

24歳さんの”スロー・シチィ”を読んで昔の高砂町を確認したくなりました。
①高崎保育所は大雲寺さんの敷地ですか。
②藤宮銅鉄加工、藤巻箪笥店、ありますね。(阿久津町に藤宮風呂釜店がありましたね)
③呑屋、鶏屋はありませんが、魚枡らしき鮮魚店ありますね。
④有間米穀店、山田畳店もちろんありますね。
⑤中村パン屋さん街角にありました。

あとは、よく分かりませんが、魚市場は今でも鮮明に覚えています。 
前橋の前三の近くの魚屋さんのオートバイの荷台に乗って来た記憶があります。 
父の知り合いの魚屋さんの家に泊まって、仕入れがてら大橋の自宅まで送ってもらったんでしょう。
当時は高崎まで仕入れに来てたんですね。

   大橋町生まれのため、当時の高砂町界隈は分かりかねますステゴでした・・・・。

  

2010年09月06日

アトリエという店

 図書館の帰り、アトリエでカレーを食べました。

総合文化センターができた頃、親戚が集まってコーラスをした思い出があります。
  昭和60年代の市民文化祭だったと記憶してます。
     妻の従姉弟や叔父叔母の総勢10人ばかりでした。
  曲名は”山寺の和尚さん”きり覚えていません。
        指揮は故阿部延先生(妻の叔父でにあたります)


1993年5月号の市広報の表紙絵です。
喫茶店という言葉を懐かしく想い出しました。


     そうそう、図書館も移動するようですね。

  

2010年09月06日

お化けの樹


お化け煙突というのがありましたね。 
 見る角度によつて三本が二本になったり一本に見えたり。

ここは住吉町の”お庚申さま” 
 遠くからみると大きな一本の樹、 
    でも近くで北側から見ると三本です。 
     でも西からみると、やはり一本でした。

この樹の下に、ジヤンプという名の駄菓子屋さんが・・・。
焼きソバ屋さんかな・・家は残っていました。

     駄菓子屋の 青きトタンに 木の実落つ  
                by stego

昔しむかし、小さな子でも登れる斜めに延びた大樹がありました。 
銭湯帰りの夕涼みに、よく登りました。 
見つけました!高崎漫歩という本のスケッチの絵の中に・・・・・。

  (この樹の下で拾われたと、よくからかわれましたっけ・・)

  
タグ :お化け煙突


2010年09月05日

大音龍太郎・24歳です

この肖像写真と悪名が先行して、いまひとつ全貌がわからない初代岩鼻県知事です。

慶応四年六月十五日,岩鼻県の発足とともに軍監兼知県事に任命されています。 
明治と改元されたのは、慶応四年九月八日でした。
明治元年十二月七日に職を免じられ、二代目の小室信太夫が知県事となっています。 
  (在任期間は六ヶ月弱でした)

 

もう10年近く前に、渋川の旧商家の居間に、額に入つたこの写真を見ました。 
今思えば、このお宅が小栗日記の発見された、あの後藤宅でした。   


私がお会いした方は、官軍巡察使大音龍太郎に起用されて会計方面を掌握し、
上野介の刑死後、権田に出張し遺品中より日記と家計簿を持ち帰った後藤八郎右衛門のひ孫に当たる方でした。 





近江伊香郡木ノ本村大音出身の勤皇浪士。勤皇僧として知られた箕輪龍門寺の住職をたよって、一時潜居滞在していたといはれています。

”抵抗した場合は討ち果たし首級を総督府に届けて、首実検に入れるよう”という指示を無視し”抵抗しない小栗主従”を、 
即断首の判断をしたのは、この”首切り龍太郎”と言われているようです。 


      慶応四年閏四月六日朝、四ッ時半(午前11時)の断首でした。 
            (その二ヵ月後、岩鼻県知事に任命されました)  
      ちなみに、日記は四月二日で終わっています。  


2010年09月04日

アパッチにします・それともシャイアンにします

broncoを辞書で引くと、”米国西部平原地方の小柄な半野生馬。通例ムスタングと同義であるが、特にその慣らされていないものを言う”とあります。また、むかしスペイン人の飼い馬が逃げ出し野生化したものともあります。


”私の少年時代”の記憶では、邦画は時代劇、洋画といえば西部劇でした。 
汽車を追いかけるアパッチやシャイアンが好きでした。 

ここに来てもう20年以上経つと思います。
ある寒い日に本町三丁目に火事がありました。
ブロンコが燃えてしまいした。


フォアロゼのオンザロックをのみながら、ワンパウンド・ステーキを食べるのが夢でした。
それと食後にホーローのカップで、アメリカンコーヒーを、もちろんブラツクで、 
できればロッキング・チェヤーで、パイプを燻らせながら・・・・。

               プレスリーの曲がずつと、流れていました。

  


2010年09月03日

気になる樹と畑


①MINI・STOPのある樹

②むかし道祖神があったところの桜の樹

③朝顔が一面に咲く貸農園


  

2010年09月02日

もしかして”はしご”

    こんなビールを呑みながら、 

         川のほとりの店で、  

     ほどほどの料金の、 

               餃子を食べたいです。


  

2010年09月01日

一枚の葉書から

ここに、大正十五年二月九日付け消印の一枚の葉書の複写があります。
   差出人は倉田村権田・曹洞宗東慶寺小住・瀧澤精一。
    宛名は群馬郡上郊村井出・斎藤平次治郎。

 
(以下全文)
復啓 御手紙正に拝見仕り候 御名前及び事跡に就いては 郡誌上に於いて 
承知致し居り候 御申越の見は左記のとおりに御座候間 御承知相成度候。 

一、豊後守は渡米当時のものにて、帰朝后に上野介を任官 寺は最後の上野介と申し居り候。  

一、名乗りは 源忠順(みなもとのただまさ)。 

一、斬首は慶応四年四月六日 年齢は四十弐歳。



御手許に丹青の椿及び芍薬に就いては郡誌上にて拝見致し 御厚志の段 深く感鳴仕り候。 
何れ折りを見計ひ一度参上致度所存に御座候。 
先ずは失礼ながら右御答へまで。  
               二月九日                    敬白



この葉書は私の父が生前(多分10年位前)に、斉藤平次郎氏のお孫さんにあたる方からお借りしコピーしたもののようです。このお孫さんは古文書の会の仲間だったとと聞いています。 
内容は、齋藤さんの質問に対しての東慶寺の瀧澤さんの回答のようです。 

郡誌なるものを見てないので、詳しくは解りかねますが、文中の”椿及び芍薬”とは上野介の駿河台の屋敷にあったものとおもわれます。  

小栗公が斬首された後、倉賀野河岸に駿河台の屋敷を引き払う際に荷造りされた大量の植木類が舟便で届いたそうです。 
引き取り手のない荷を処理したのは、小栗家の知行地で倉賀野に近かった滝川村斉田の名主田口氏でした。 
建設中であった権田の観音山の自宅の庭に植えられる予定の、植木類は競売に付され四散したと聞きます。 

例えばその一部は群馬県一の大ソテツとして、引間の大山邸にあったと聞いています。 

上野介は植木いじりが唯一の趣味だったと、曾孫にあたる方が話していました。 

葉書の差出人と受取人は、どうも植木が取り持つ縁だったようです。 
                                         (続く)