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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年08月20日

山田かまち(錦絵・高崎人物図鑑5)


             TAKATAI(1036号・2010・8・20)掲載

               生きていると今年で50歳だそうです。

                 ”野生小動物の突然の死”               
                   そんな気がします。

   

          (江戸歌舞伎の”四天”という衣装だそうです)  

Posted by 捨蚕at 06:27
Comments(0)高崎人物図鑑

2010年08月19日

あなたは読んだことありますか?

            本棚の隅に、40年近くも眠っていました。 

   だぶん年老いたら、孫に読んでやることを夢見ていたのかもしれません。
         
           ターシャの庭と、老眼鏡と、パイプと、揺り椅子と・・・・。

            もちろん、題名だけで内容はよく分かりません。 

           そうそう、表紙の裏の左上にこんなシールがありました。





  

Posted by 捨蚕at 16:41
Comments(0)表紙絵シリーズ

2010年08月19日

今日は俳句の日(句会のすすめ)

新聞を見て今日が俳句の日であることを知りました。 

昨夜、嘉多町の某所で行なわれた月一回の句会について、ご報告いたします。 

もう三年近く続いている”飲み会の肴”のような句会です。 

今回はこの団扇の句と絵を作者が休みのため五名の句会です。 

一人三句を持ち寄ります、そして今回は一人が(自分の句以外に)四句の選句でした。

したがつて、全部で20点、一句の最高点は4点ということです。


            (涼しさや 花のくぼみに 眠る虫)
 

句会の結果
(点数)    (俳句)                       (俳号)
 ④     昼顔の 風にけだるき船着場             豈石

 ③     生き過ぎも淋しきものよ 盆の月           翠玲
 ③     ジャズ熱く聴きて残暑の町に出る           信子 

 ②     一村は蜩の中 夕けむり                翠玲
 ②     猛暑日や 思考回路のショートする          紫陽
 ②     ひたすらに 盆燈籠の回りけり           捨蚕
 ②     嫌われて 毛虫のいそぐ松の枝            豈石 

 ①     空の青 地球の青の秋初め              紫陽   
 ①     競い打つ 山車それぞれの大手前          捨蚕  
                                (以上)  
タグ :句会


Posted by 捨蚕at 09:36
Comments(2)俳句のすすめ

2010年08月18日

気になる樹・①(並榎三木のこと)

”並榎三木”とは、いちょう(公孫樹)、ぼだいじゅ(菩提樹)、えんじゅ(木偏に鬼)の樹でした。 
場所は天龍護国寺の西隣の日枝神社の周辺にありました。 
日枝神社は天龍護国寺の守護社として、近江国坂本から分社されこの地に祀られました。 
その時に、三本の若木が移植されたと云われています。
護国寺の創建が864年と謂われてますので、なんと1146年も前のことです。 

この”山王様の森”に、いつ頃まで並榎三木は存在していたのでしょうか。 
最初に無くなったのは、菩提樹でした。残りの二本は戦後までありました。 
”山王様の大銀杏”は、高崎随一の古木、名木、大木でした。

昭和32年秋、落雷のため樹齢千百年の大木は無くなりました。 

写真のとおり、残りの一本は健在です。(樹齢の程は分かりませんが)

             (”えんじゅ”の大木に花がさいています)




榎保育園の裏庭にあったという、銀杏の大木の残骸を探して見ました。 
子供の頃、父に連れられて見た記憶があるのですが・・・。
少し違うような気がしますが、とりあえず、この樹とすることにしました。

            (保育園の裏庭に、子か孫の銀杏の切株がありました)
  


Posted by 捨蚕at 14:54
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年08月18日

”水道みち”とよばれた道

      かなり大きな鉄板の蓋です。
       ここは滝谷不動のすぐそば、
        お地蔵さまのいるテニスコートの上、  
      
  かって”水道みち”とよばれた道がありました。 
     (今もありますが、あまり聞かなくなりました)

明治の末に、剣崎から豊岡を経由して烏川を潜り、ここ上並榎の滝谷に上陸した上水道は本町を通り、高崎市街地に供給する上水道のまさに本管でした。

 高前バイパスに中断されてしまいましたたが、
   一直線に走るこの道は、まさに”水道みち”です。

  
タグ :水道みち


Posted by 捨蚕at 08:17
Comments(0)上並榎シリーズ

2010年08月17日

StegoのSは・・・海の音

     タニシとシジミ以外の貝は 
              山国にはいませんが。 

         海の貝を耳にあてると 
                海鳴りの音が聞こえてくると、

       得意気に教えてくれたのは、 
             三軒東隣の”とし子”ちやんでした。


  

2010年08月16日

坂東十六番札所

    坂東三十三番札所の第一番は鎌倉の杉本寺です。
    群馬県に札所は二つあります。
    第十五番の白岩観音と第十六番の水沢観音です。

    五徳山水沢寺の本尊仏はこの十一面千手観音です。

    ここから江戸、日光、善光寺はすべて同距離の三十六里です。        


             (ここは六角堂)

  輪廻(りんね)とは、車輪のように無限に繰り返す、転生のこと。
  
  六道(りくどう)とは、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道。
 

       喋られぬ 児の指差すや 盆の月 
 
                     Stego 送り盆の日に・・・。    


Posted by 捨蚕at 23:28
Comments(0)札所巡り

2010年08月16日

木村コーヒー・(一杯50円で試飲できます)

場所は環状線の下小鳥町”とりせん”のあるところです。 

パン屋さんとラーメン屋さんのあいだにある小さな店です。 
喫茶店というより自家焙煎の豆屋です。
私はたんなる通りすがりの客の一人です。
でも、
有名になった店は嫌いです。
 そうそう”餃子村”もこの近くでしたね。

  

2010年08月16日

幼稚園のときの絵

長男が幼稚園のときの絵がでてきました。 
 卒園記念の絵ですから約30年まえのものですか。 
   アルバムの表紙になっていました。

   いかにも彼らしい絵だなとつくずく思いました。 
    お盆で子供ずれで来た時の話題№ワンでした。 
       待ちうけに入れてみました。 

                             ガラクタて宝物ですね。

  

2010年08月15日

大橋町256番地(物心ついた時と同じもの)

 高崎商科大付属高校の体育館です。
    当時は佐藤学園、もしくは佐藤技芸の体育館でした。 
 私が物心ついた時と、恐らくは、ほとんど変わっていない、
     唯一の建物だと思います。
 

 大橋町256番地。ここで私は生まれました。
   もちろん借家、もちろん産婆。 
        いまこの番地は地図上に存在しません。 
 父の本籍地は死ぬまでここでした。 
      私は結婚時に現住所に変えてしまいました。


 この不正確な昭和35年の住宅地図。 
      佐藤技芸も大谷仕切店も中山洋服店もありますが、 
   私の生まれた家はありません。 
        じつは、この一年前に現住所に移転しました。  
 

       ときどき 
          思いついたように 
               この路地を歩くことがあります。 
 
       全てが変わってしまった 
              記憶の路地を・・・。 

   私の子供よりも若い父や母が 

        今の私よりも若い祖父や祖母が 

            路地奥から不意に現れる気がするからです。  
タグ :佐藤学園


2010年08月14日

ここは廃寺跡・新紺屋町の金剛寺

①新紺屋町にこんなレンガ塀をみつけました。 
 最初は横浜銀行のレンガ倉庫跡かなと思いましたが、



②昭和30年代ここは東宝映画館の北側、斉藤化粧品問屋の倉庫の西塀でした。 
 かつての東宝も今は駐車場となっています。



③明治初年までここは、諏訪明神の祠と金剛寺という天台宗のお寺がありました。 
 慶長四年に、箕輪より諏訪社の別当寺として移ってきました。
 
 明神は、あら町の”下ノ諏訪”に対して、”上ノ諏訪”と呼ばれていました。
 お寺の山門は北向き、本堂は南向き、境内491坪とあります。 
  
 まさにこのレンガ塀のあるところ辺りが山門だった気がします。




④江木町の公民館は、無縁堂跡と云われています。
 そして、この無縁堂こそ、金剛寺の持分でした。 
 安藤氏の時代に出来たそうです。
 無縁堂とは、城下の荼毘(だび)所すなわち火葬場のこと。
 そしてここはまた刑場でもありました。
 
 金剛寺は明治2年に、この無縁寺に合併され、
 明治8年に法輪寺兼務となり廃寺となりました。

 
  


2010年08月13日

北上する分水(十九の堰の物語Ⅷ)

 ここは第十一番目の堰、金井堰です。水路に囲まれた中州のようなところは、昔は秋池染物工場でした。 
 堰の足元に”金井橋”と彫られた石柱が檻に囲まれてあります。
 ここはかって、大橋町の”佐藤技芸”と台町の”高商”を繋ぐ最短距離の路地道でした。
 今は”大橋第三号橋”という名の橋が架かっています。 









































 ここで分水した水路の行き先が、子供のころから不思議でたまりませんでした。 

 なんとこの分水川は渋川街道の西を北上していました。
 オランダ・コロッケの裏を通過し、佐藤幼稚園の東を北上しています。


北上した水路は、南下した水路と合流して、
渋川街道を潜り一貫堀と名前をかえて、東にむけて流れはじめています。
この写真がかって紹介した、一貫堀の起点です。



 


  (蛇足です)
 起点があるから 
 終点があります。 

 起点が存在するためには 
 長い伏線が必要です  

 私達の誕生のためには 
 無数のご先祖さまの 
 存在が必要だったのです。 

 抹香くさい話になったと思ったら 
 今日からお盆でした。 
 ご先祖さまを大切に・・・。
   
タグ :一貫堀


Posted by 捨蚕at 07:36
Comments(0)十九の分水堰

2010年08月12日

夏ピカソ

       ”横向きの女も見てる 夏ピカソ”      
                               平成15年夏 (stego)

     額に一ピース欠落しています、これは自作のジグソーパズルです。 

         居間の隅からもう7年間も見つめられています。       
                    
               P.Picassoはなぜか夏が似合います。  

  

2010年08月12日

№185/358・”肉を運んでいる犬”

   ”この話は欲張りの人によくあてはまります”とのことです。




 何度繰り返したことでしょう 

  株で、宝くじで 

    女で、友達で 

       仕事で、道楽で

 たぶん本当に 
 空腹で無かったから・・

 本当に空腹でしたら 
水面に肉は写りませんからね。




”犬が肉を持つて川を渡っていました。
そして水の中に自分の影を見て、もっと大きな肉をもった別の犬だと思いました。 
だからその犬の肉をとるために、自分の肉を放り出して、とびかかりました。
そして両方とも失いました。”

 
   岩波文庫のイソップ寓話集には 
      358の寓話があります。 
         この話はその185話です。 

            それによると 
               この犬はどうも 
                 二つのものを失いました。  

   現実と虚像の二つです。 

        確かにあったものと 
                  もともと無かったものと・・。

 
 
  


Posted by 捨蚕at 12:17
Comments(0)

2010年08月11日

動物たちの夏・(残暑お見舞い申し上げます)

  
    いろんな生き物が”暑い”と言ってます。




 標高1000Mにある店の 
   白い聖なる牛も





















  神津牧場にいる
    山羊さんも





















  ”MAHARAJA”の 
    少し変なゾウさんも
















 


  海辺のホテルの 
   クジラさんも    

 暑いと言ってます。  



 ブログというものを 
 突然はじめてしまって 
  はじめての夏  

全てのアクセスさまに
残暑お見舞い申し上げます。 
       stego  

Posted by 捨蚕at 17:54
Comments(0)号外

2010年08月10日

見つけてしまった物から・・・(稲荷橋再考)

  ”県道高崎草津線”の文字をみつけてしまいました。
  だから2月17日のブログ”稲荷橋”を再考することにします。











































*右下の帽子つきの石柱に、”県道高崎草津線”を発見。

  
 かろうじて
 判読可能な七文字

 あとは全て 
 消滅状態です。

多分、明治時代のものです。 

 いろいろな名称があります。 
  経大前通り 
  高崎・榛名線 
  県道29号線 
  室田新道
 
 どう頭の中を整理したらいいのだろうか。 




*稲荷橋には、こんな状態の穴が四ヶ所ありました。どんなプレートが存在したのでしょうか。
 
県道には三種類の名前があるそうです。 
  ①整理番号 
  ②路線名 
  ③通称名(愛称)   
①群馬県道29号線  
1~100号までが主要地方道
②あら町下室田線  
合併前までは高崎榛名線 
③シンフォニーロード 
  渋川街道  
  経大通り  
  名前が変化していきます。 

終点は下室田町の室田交差点 
ここから国道406号線と合流します。  


Posted by 捨蚕at 21:13
Comments(2)橋シリーズ

2010年08月09日

お墓に囲まれた・堰でした(十九の堰の物語Ⅶ)

     ”江木橋湯”の無くなった江木橋をわたり、
 好物の(塩味の三角形をした豆のはいった餅)を売っている第一協和江木店の  脇を川沿いに下ると
 お墓に囲まれた堰があります。  
         その名は第十七番堰の佐野堰でした。










































左手に敬西寺とその墓地、右手前に本元寺と法輪寺の墓地。
右手川沿いに五万石騒動と天狗党の無念の碑、その先にある公民館。
 ここは刑場跡、無縁堂という名の火葬場跡あたり。

 
この堰で
分水した水は 
栄町・岩押ざかいを
一路南下し 
佐野方面へと流れていきます。

ふと、思いました。 
ここで流された様々な無念の涙は 
さらに下流に流れたのでしょうか 
それとも分水して佐野方面へ・・・ 
水面を見ながら  
そんな事を何故か  
考えている自分がいました・・。 
   


Posted by 捨蚕at 22:53
Comments(0)十九の分水堰

2010年08月09日

ここは廃寺跡・田町四丁目の真応寺

ここは、浄土宗善念寺(元紺屋町)。ここの北に隣接してかって、
真言宗の”真応寺”がありました。
    写真では、お墓の左上の駐車場あたりかとおもいます。










































 安政三年の絵図を見ると 
八軒町から参道が南下しています。 

昔の”いさみ寿司”と”上野医院”の間の 
足銀駐車場へ抜ける路地、おそらくこれが参道だったでしょう。 

明治30年の地図をみると、 
入口は、北通町通りに面しています。
       
それは、昔の杉田青果店と須藤技芸学院の間の路地か、と思いますが。






箕輪から移ってきた寺の多いなか、 
真応寺は寛永十一年(1834年)の創建と云われてます。

藩主は安藤の二代目重長の時代でした。

また”高崎更生旧事記”に”鞠垣・揚弓会場あり” 
とあります、蹴鞠と弓道場のことです。 

今で言えばスポーツ・クラブ施設でしょうか・・。
安藤氏の神社仏閣重視とお公家趣味
 多少とも分かったような気がします。





     柴崎町・光明寺の阿弥陀如来坐像(市重文・S62・2・16)
 台座の銘文によると、①享保二年(1717年)に制作されたこと。 ②施主は西上州群馬郡高崎城下清玉山真応寺吽清(うん せい)。 ③製作者名は、江戸神田住・冶工河合兵米部藤原周徳です。
 
   この金銅仏は銘文により、造仏の由来、年代、鋳物師が明確です。 

 つまりこの坐像は1717年から1908年(明治41年10月)までの、 
 約200年あまり田町の真応寺の境内にありました。  
 ”山門の内の右にあり”と書かれています。

 そして明治41年の廃寺以後は本寺であるこの光明寺の境内に、約100年間 
 安座されているという訳です。
 
                     (南無阿弥陀仏・ナムアミダブツ) 
  


2010年08月08日

祭りが終わる

かつては、最終日が花火大会でした。

大輪の最後の花火が上がり、しばらくしてドーンという大きな音とともに
夏祭は終了しました。  

”美空ひばりのお祭マンボ”の転調のように、
それは居たたまれないほどに寂しく悲しく、
泥酔しなければいられない程でした。
 
”ただ毎日が祭りの続きで欲しかっただけさ”という多分、
ロシア民謡のワンフレーズを、
なぜか突然にそこだけ口ずさみながらの、祭の終わりの帰路でした。


最近は最終日の前日が花火大会となりました。

でも、夏祭りはいま終わってしまいました。
  祭は・・・終わりました。
  

Posted by 捨蚕at 21:34
Comments(2)号外