尾張屋清七板”江戸切絵図”
飯田町駿河台 小川町絵図
(嘉永二年初刷)
神田川の川岸から
駿河台下に向かう坂道
この道に面して
川岸から五軒目にある
武家屋敷が、小栗邸です。
正保図(1644年刷)には
水道橋の”小栗坂”に
ありましたが、
文政十年(1827年)
二月十二日の早朝
産声をあげたのは
この小栗邸でした。
名前が”豊後守”ですね、この絵図が出版された時は、まだ上野介ではありませんでした。
安政六年(1859年)十一月二十一日
遣米使節団の”監察・目付”に伴い、従五位下諸太夫に任命され豊後守を拝命。
文久二年(1862年)六月五日
勘定奉行就任に伴い、ようやく”上野介”が誕生しました。
小栗忠順(ただまさ)これが上野介の本名です。父親は小栗忠高(ただたか)です。新潟奉行をした人です。
この忠高さん、じつは二軒隣の家から養子に入っています。
道をはさんで、”金五郎”の字があります。ここが朝比奈さんの家、その隣に中川飛騨守という名の旗本の家があります。
ここの忠英さんの四男が、嫡男のいない小栗家の長女”くに”と一緒になりました。
2500石どり直参旗本の小栗忠高、忠順の誕生の時29歳。母くに17歳でした。
領地はこの時点で上野・下野・上総・下総にまたがる十三か村でした。
(未完)