グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年06月21日

江戸切絵図(小栗上野介邸)

 
尾張屋清七板”江戸切絵図” 
 飯田町駿河台 小川町絵図  
 (嘉永二年初刷)     

 神田川の川岸から 
 駿河台下に向かう坂道 
 この道に面して 
 川岸から五軒目にある 
 武家屋敷が、小栗邸です。

 正保図(1644年刷)には 
 水道橋の”小栗坂”に 
 ありましたが、 

 文政十年(1827年) 
 二月十二日の早朝 
 産声をあげたのは 
 この小栗邸でした。 




名前が”豊後守”ですね、この絵図が出版された時は、まだ上野介ではありませんでした。 

安政六年(1859年)十一月二十一日
遣米使節団の”監察・目付”に伴い、従五位下諸太夫に任命され豊後守を拝命。 

文久二年(1862年)六月五日 
勘定奉行就任に伴い、ようやく”上野介”が誕生しました。


小栗忠順(ただまさ)これが上野介の本名です。父親は小栗忠高(ただたか)です。新潟奉行をした人です。 
この忠高さん、じつは二軒隣の家から養子に入っています。 
道をはさんで、”金五郎”の字があります。ここが朝比奈さんの家、その隣に中川飛騨守という名の旗本の家があります。 
ここの忠英さんの四男が、嫡男のいない小栗家の長女”くに”と一緒になりました。 

2500石どり直参旗本の小栗忠高、忠順の誕生の時29歳。母くに17歳でした。 
領地はこの時点で上野・下野・上総・下総にまたがる十三か村でした。 
                                        (未完)