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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年05月09日

十九の堰の物語(Ⅰ)魚仲別館あたり

 
一番   我峰堰 
二番   上小塙堰 
三番   下小塙堰 
四番   下小塙新堰 
五番   浜尻堰 
六番   貝沢堰 
七番   高尾田堰 
八番   上野堰 
九番   上鳥羽堰 
十番   下鳥羽堰 
十一番  金井堰 
十二番  新井堰 
十三番  請地堰
十四番  八寸堰 
十五番  宿御堂堰 
十六番  行人塚堰 
十七番  佐野堰 
十八番  岩押堰 
十九番  高根堰  



土屋老平著の”江戸時代の長野堰分水堰略図”をもとに、列挙してみました。 
この写真の場所は、七番と十一番の間、多分第九番の上鳥羽堰と思われます。     


この少し下流(九番と十番の間)には、戦前に割烹料亭”魚仲別館”がありました。 
ホタル飛び交う大川(長野堰)添いに、丸窓のある萱葺き屋根の”あずまや”が幾軒もあつたそうです。  


かって、我峰の一番堰から岩押の”円形分水所”まで十九の堰がありました。  

今どうなっているのでしょうか、川沿いの散歩をしてみましょう。 
  
タグ :魚仲別館


Posted by 捨蚕at 21:38
Comments(3)十九の分水堰

2010年05月08日

母の殺意を語る僧(俳句 №13)























































        ”母の日に 母の殺意を語る僧”
                   捨蚕(平成十三年六月)

ぼそぼそと、その僧は幼いときの記憶を語りはじめました。 

一瞬の、殺意に満ちた母の目が、忘れられないと言いました。  

やがて、お母さんは亡くなり、

僧侶である祖父のもとに預けられたそうです。

小さな黒衣を着た小坊主さんは、

村の人気ものでした。

いつもお祖父さん僧侶のあとについて托鉢をしていたそうです。 

二人は菜の花畑が続く丘のうえの、阿弥陀堂にすんでいました。 

道端に小さなお地蔵様がありました。     (続く)
                                        

Posted by 捨蚕at 10:27
Comments(0)俳句のすすめ

2010年05月07日

途切れた道(気になるシリーズ④)

 

ここは、
”字堰添(あざせきぞい)”という所。 

堰とはもちろん
長野堰のこと。 

あぜ道を
線路が横切ってました。


汽車が
黒煙を吐いて来ると、

洗濯物は
慌てて取込まれました。   




  また毎年のように、 大きな汽笛の音がして、     
     ”きしゃ喰われ”という名の妖怪が現れました。


  何時しか線路を渡ることは、出来なくなりました。 

  堰も遠ざかってしまいました。

  でも、課税明細書は、”字堰添”のままです。



  

Posted by 捨蚕at 23:06
Comments(1)小発見シリーズ

2010年05月07日

観音様が見守る踏切(踏切シリーズ9)

  






















烏川を渡って最初の踏切は、”お堂踏切”という名前でした。 
名前を見て、内心ほつとしました。いい名前ですね。

”下台の薬師堂”という場所です。
が、公民館とお墓はあつても、お堂らしきものは見つかりません。 
公民館のなかに、薬師様が祀られているのでしょうか。

ただ、前庭には石仏や石塔が数多く散在しています。 
写真は”如意輪観音像”です。
 頬杖を突いて、一見横着そうな観音様ですね。 

像には、女人講中、両台、両藤川、文化十三年十月吉日と書かれています。 
踏切手前に、藤川が流れてます。ここの道を進むと上台公民館があります。

古い道筋を思わせる場所、
のどかな、日当たりの良い少し高台の住宅地が続いています。  
剣崎まで続くこの道は、もしかして古い草津街道なのでしょうか。


観音様に見守られたこの踏切が、十二鉄橋を越えた最初の踏切でした。 

       (高崎駅から4K949M)


  


Posted by 捨蚕at 07:12
Comments(4)踏切シリーズ

2010年05月06日

気になる入口(気になるシリーズ③)

 




















並榎中学校のすぐ東を、北部排水路が流れています。 
昭和27年にこの排水路が出来るまでは、この辺はたいそう水はけの悪い場所だったそうです。 

また、天龍護国寺の並榎八景絵図の”雁田の落雁(がんだのらくがん)”にあるように、絶好な雁の生息地でもあったようです。  
上飯塚村から、この辺一帯は雁田と呼ばれていたそうです。
この排水路は、この雁田を流れていた雁田川を元に掘られました。 


右の写真は西小学校舎です。信越線を潜った北部排水は、暗渠となり西小の校庭を南下します。 
私が低学年のころは、排水の西側(写真の右側部分)は空き地と池(たまり水)でした。 

中学年になると、新校舎(昭和33年3月落成)ができ、旧校舎と”廊下の橋”で繋がりました。
しばらくして、排水路は暗渠になりました。その時点で廊下橋は無くなりました。 

現在、北部排水は、この写真の場所でドロンと、地下に消えてます。 

噂によると、長野堰を潜り、烏川に注いでいるとのことですが。  


Posted by 捨蚕at 13:27
Comments(1)小発見シリーズ

2010年05月05日

気になる4m(気になるシリーズ②)

  





















三国街道踏切を渡りながら、 

   下を覗いたら見つけました。 

”飯塚村用水橋りょう・2K428M”の文字 

三国街道踏切は、2K424Mでした。 

   踏切の中央地点から4Mあるということなのでしょうか。 

ところで、北から踏切をわたった用水は、 

   どう流れて、一貫堀に流れ込むのでしょうか。  

Posted by 捨蚕at 16:44
Comments(2)小発見シリーズ

2010年05月05日

気になる酒場(気になるシリーズ①)  

 
”芙三恵食堂 ”

(大橋町34番地あたり)

三国街道踏切手前西側 

36年住宅地図では”芙三恵酒場"  

かっては賑わっていた”駅前酒場・食堂”

”つげ義春”にある風景と、言いわれるところ 

隣は(写真手前)、自転車預かり所 

多分、あと数年で消えてしまう風景なのでしょうか。  
タグ :駅前酒場


Posted by 捨蚕at 09:08
Comments(4)小発見シリーズ

2010年05月04日

これなあに ・(我楽多 №6)

 

だぶん ”仏具”

もしくは”神具”

”香炉”もしくは”輪灯” 

ただし我が家では、

ずっと小銭入れ 

もしくは小物入れ

  真鍮製 

高さ18cm 幅15cm 

購入価格 多分、壱千円

  
タグ :香炉輪灯


2010年05月03日

伐折羅(ばきら) №5

  




 ”伐折羅大将” 
   十二神将のひとり

 吉永得像(雅号 草玄)作 


 創作年 昭和30年代中頃 

         捨蚕蔵 








・吉永得像  ”高崎の散歩道”の表紙画の作者にして、筆者の吉永哲郎氏
         の実父にして、商業デザイナー。 
                    (明治38年3月22日生) 
                    (昭和58年9月30日亡)

・伐折羅(ばっきら)   婆娑(ばさ)とともに婆娑羅(ばさら)の語源のひとつ。 
 
・草玄     ”そうげんぼう”という名の川魚。   



画材は木の盆、養蚕で使うものだと父から聞きましたが、
名前も使用方法も現状は不明です。 
(大橋から移転したときには、我が家の床の間にありました) 

山名八幡の獅子頭の絵馬、
 簗でもらった鮎の絵の団扇、
  美峰酒造の焼酎のデザイン、 
   みんな、得像氏の作品とのことです。

  続きを読む


2010年05月02日

”たかんな”  俳句№12

 

たかんなの 
   一鋤(ひとすき)にして 
        白き腹 




たかんなの  
   屠(ほふ)られしをり  
       猪(しし)の鼻   



手土産に 
   ひとにぎり摘む 
       夏わらび  

                                                                          

                                       (捨蚕の三句)



昨日、上奥平の知人宅へ。竹の子掘りに行きました。  

背負子(しょいこ)に半分で、やっと崖をあがることができました。

一昨年頃から、イノシシが出没します。猪はたいそうグルメだそうです。  

摘み残しの、ワラビを少しばかり手土産に・・・。  


Posted by 捨蚕at 17:26
Comments(0)俳句のすすめ

2010年05月01日

城址と鉄橋のあるところ(踏切シリーズ8)

 




















      ”№8踏切”                    ”十二鉄橋”



最初に私を踏切マニアにさせた、記念すべき”№8南踏切”です。 
東西70m南北100mの長方形の本郭は、線路で南北に分断されています。 
幅10m、深さ3~4mの堀をめぐらし、南は烏川の崖です。
この本郭を第二郭が囲み、さらに第三郭が北に並び付いていたそうです。


通称十二鉄橋、今は使われなくなった橋桁が、西に向かってそびえています。 
おそらくほぼ明治18年の開通当時のものと思われます。  
この橋の向こうは異郷の地、昭和30年まではなんと松井田とおなじ行政地区の碓氷郡豊岡村でした。

      
        ”高崎駅より3K842M”  続きを読む
タグ :十二鉄橋


Posted by 捨蚕at 20:34
Comments(3)踏切シリーズ