高崎公園の西端にある滝です。
噴水の水がこの滝から、下公園に落ちていたそうです。下公園はというと、いまは写真の通り、しかもだいぶ前から、国道17号線です。
この場所の昭和初期の、祖父母と父が写った写真を見た記憶があります。高崎商業学校に入学したときの家族の記念写真です。碓氷郡の田舎小学校卒の自慢の一人息子の晴れ姿です。 この滝が写っていました、確かに。
父から聞いた記憶では、この滝は有花園の亀田さんの作とのことです。
本で確認したところ、小沢の別荘、高崎神社の岩トンネル、高崎公園の爆布、本郷の細谷医院の庭園を手がけたとあります。
(もしかして、望浅閣もとおもいましたが、残念です)
さて、この場所です。古くは、この烏川の崖上は榎森と呼ばれていました。この地に和田義信は和田城を築きました。
正長元年(1428年)のことでした。 その後江戸時代、城主安藤重信により、川島山良善寺という寺の境内となりました。そのときに、滝のすぐ目の前にある、天然記念物の”はくもくれん”が植えられました。元和五年(1619年)のことでした。
この良善寺、元禄八年(1695年)に安藤氏の移封とともに備中松山に行ってしまいます。
実は縁ありまして、安藤氏の末裔のお殿様(香道、茶道のお家元)に、お会いしたことがあります。流れるような身のこなしと、古典の百科辞典のような知識、優雅でいて緻密な話術、恐れ入りました。
ただ薩長の御一新に対してはいまだに、御不満の様子でした。
話が横道にずれましたが、その後大河内家が城主になると、頼政神社の別当寺として、大染寺が建立されました。
この寺も、明治七年には廃寺となり、熊谷の養平寺に併合されました。
寺の本堂は下大類の福田寺に25円で売却されたそうです。
また歴代住職の墓は隠居庵のあつた、浜尻の諏訪神社古墳の南面に並べられました。
大染寺の跡地は高崎公園として明治九年に開園されました。
池と噴水が出来たのは、明治四十三年だそうです。
満開の白木蓮のまえに立つて、想います。 あと十数年のちに、写真に納まる息子夫婦と孫の姿を。
この場所で、 在りし日の祖父母と父のように・・・・・・。百年前の再現を・・・・・・。