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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年03月23日

お地蔵さまはクリスチャン?(小発見シリーズ31)

       






















どうみても、日本人らしくないし、おまけに十字架だし、変だよあのお地蔵さん。 

なんどか、このシリーズで紹介した、下並榎の常仙寺の山門のお地蔵さんです。 

皆さん、どうおもいますか?   皆さんの見解を募集中です。 

どしどしコメントください。  

Posted by 捨蚕at 20:36
Comments(5)下並榎シリーズ

2010年03月23日

高崎公園の瀧のまえで(小発見シリーズ30)

高崎公園の西端にある滝です。
噴水の水がこの滝から、下公園に落ちていたそうです。下公園はというと、いまは写真の通り、しかもだいぶ前から、国道17号線です。 

この場所の昭和初期の、祖父母と父が写った写真を見た記憶があります。高崎商業学校に入学したときの家族の記念写真です。碓氷郡の田舎小学校卒の自慢の一人息子の晴れ姿です。 この滝が写っていました、確かに。 

 父から聞いた記憶では、この滝は有花園の亀田さんの作とのことです。 
本で確認したところ、小沢の別荘、高崎神社の岩トンネル、高崎公園の爆布、本郷の細谷医院の庭園を手がけたとあります。 
(もしかして、望浅閣もとおもいましたが、残念です)

さて、この場所です。古くは、この烏川の崖上は榎森と呼ばれていました。この地に和田義信は和田城を築きました。
正長元年(1428年)のことでした。 その後江戸時代、城主安藤重信により、川島山良善寺という寺の境内となりました。そのときに、滝のすぐ目の前にある、天然記念物の”はくもくれん”が植えられました。元和五年(1619年)のことでした。 
この良善寺、元禄八年(1695年)に安藤氏の移封とともに備中松山に行ってしまいます。  

 実は縁ありまして、安藤氏の末裔のお殿様(香道、茶道のお家元)に、お会いしたことがあります。流れるような身のこなしと、古典の百科辞典のような知識、優雅でいて緻密な話術、恐れ入りました。
ただ薩長の御一新に対してはいまだに、御不満の様子でした。  


話が横道にずれましたが、その後大河内家が城主になると、頼政神社の別当寺として、大染寺が建立されました。 
この寺も、明治七年には廃寺となり、熊谷の養平寺に併合されました。   
寺の本堂は下大類の福田寺に25円で売却されたそうです。
また歴代住職の墓は隠居庵のあつた、浜尻の諏訪神社古墳の南面に並べられました。 


大染寺の跡地は高崎公園として明治九年に開園されました。 
池と噴水が出来たのは、明治四十三年だそうです。   


満開の白木蓮のまえに立つて、想います。 あと十数年のちに、写真に納まる息子夫婦と孫の姿を。  
この場所で、 在りし日の祖父母と父のように・・・・・・。百年前の再現を・・・・・・。  

Posted by 捨蚕at 07:43
Comments(4)小発見シリーズ