上毛新聞連載中の真田三代です(火坂雅志・作 安芸良・画)
武田軍が倉賀野城を攻め囲んでいます。
烏川を挟んで武田信玄が倉賀野城主倉賀野直行と対峙してます。
一時廃城になっていた木部城を、甘利昌忠が再興し、倉賀野城攻撃の拠点とした武田軍は、さらに前線基地を、
木部北城(いまの阿久津の玄頂寺周辺)に置きました。
小説によると時は、永禄八年の六月のことです。
和田氏の離反で箕輪城と分断された倉賀野城。
真田昌幸の助言で、倉賀野十六騎と呼ばれた武将のうち五名の内応で、落城します。
倉賀野氏は、烏川から舟で下流に逃れ、上杉を頼り厩橋経由にて、越後へと逃れます。
挿し絵がいいですね、彼岸の倉賀野といい、信玄の大きな背中といい、小説の内容を挿し絵が引き立てますね。
共栄橋沿いの堤防の上で、信玄と昌幸が、川向こうの雁がね団地の方を見ている姿ですね。
確か,阿久津町にも、お諏訪様がありました。
信玄は信州の諏訪神社から四十八の宝石(たからいし)を持って上州に進軍して来たといわれてます。
宝石のうえに神社をつぎつぎと建立していきました。
つまり、縄張りの目印ですね。ただ記録にあるのは、新町と江木のお諏訪様だけですが。
もちろん出陣のときも、上諏訪神社や新海神社(佐久郡)に箕輪城の落城の願文を掲げています。
永禄八年六月二十五日、倉賀野城は落城しました。
この落城で、箕輪城は完全に孤立してしまいました。
その箕輪城の落j城は、翌年永禄九年九月二十九日のことでした。
ここで提案です、阿久津河岸に信玄の腰掛石を置きませんか。