グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年01月05日

小発見シリーズ 上並榎周辺( 2)

続きまして、愛宕です。 愛宕社は寺の西北約三百米の高台に、京都の愛宕社を勧請、高崎藩主安藤家の信仰が厚かったといわれる。明治以後、社殿は無く現在は跡かたも無く愛宕下という地名のみ微かにのこっているのみという。
場所捜しの前に、並榎八景絵巻より愛宕山の晴嵐を。゛愛宕山 それだに雲を吹なして あらしの跡に 残るまつ風゛ 宗閑。
辻宗閑、本名は辻伝兵衛、田町一丁目の大商人。
さて本題にはいります。
昭和十年調査の上毛古墳総覧の二十二号古墳、名称は愛宕山、形状は円型、所在は上並榎山王裏1142-2。
住宅地図で追うと天神川を渡る小塙橋の手前、カレーム付近となる。室田に向かって街道の左が1142-3、右に1142-1、とすると1142-2は、まさに新室田街道上となる。ちなみに新道の開通は(飯塚駅から高経辺りまで)明治20年代とのこと。
次に山王裏である。天龍護国寺の西隣りに日枝神社があり、日枝神社はの別名は山王様、天台宗の寺院の傍にはつきものの神様とのことです。したがって、護国寺の南は小字山王前、北は山王裏という訳です。また日枝神社の社殿もまた古墳上にあります。
以上から愛宕はこの古墳上にあったとおもいます。
思えば創建時には寺の周りにはかなりの数の古墳がすでに点在していたのですね。それらの古墳を保護するためにも、社を置いたのかもしれません。
地図の上の散歩となりましたが、これもまた小発見とします。以上。次は北野と不動です。
  

Posted by 捨蚕at 22:48
Comments(2)上並榎シリーズ

2010年01月05日

小発見シリーズ其の六 上並榎周辺

明けましておめでとうございます。今年もよろしく。正月三日は元三大師の縁日です。そう新比叡山天龍護国寺です、今年はここから始めましょう。
平安初期の貞観六年慈覚大師の創建、僧坊三百余を配した東国随一の名刹。高崎に現存する最古寺です。
創建後、護国鎮護のため稲荷、愛宕、北野、不動の四社を周辺に配したという。まず稲荷、寺宝並榎八景絵図の稲荷山の暮雪の稲荷である。和歌は佳明(本名大沢勝弥 五十石取り馬廻り役の高崎藩士)。漢詩は本名梶山与惣右衛門の作、余談だが大沢姓は今も上並榎に多く旧家、梶山家は本町の問屋名主、佐渡御金蔵、高札場のあった場所が居宅。
和歌には神に捧げる白木綿のように降り積もった雪が稲荷の燈明でひときわ美しい稲荷山がうたわれている。
稲荷山とは上並榎五反田186.187にあった当地最大の前方後円墳である。
明治25年の社殿改築の際、発見された石棺は現在護国寺境内にある。正確には舟型石棺の蓋である。昭和36年頃までは稲荷の社のある後円部が残っていた。私も微かにぼうぼうとした冬景色の中に一度だけ古墳を見たような気がする。
いずれにしても今は何も無い。人々の記憶以外は何一つ存在しない。
せめてもとその痕跡をもとめて、行く捨蚕であった。新室田街道が長野堰を渡る橋その橋の名は稲荷橋、真木病院の南に稲荷ハイツと稲荷コート、もひとつおまけに稲荷荘。そうそう稲荷山の土は四中の校庭整備に使われたとか。
せめて標識だけでもとおもうのですが・そうおもいませんか!迷道院さん!
多少興奮気味の捨蚕であった。
今日はここまで、つぎは愛宕です。
  

Posted by 捨蚕at 18:11
Comments(1)上並榎シリーズ