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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーションat

2010年07月09日

鹿鳴館の花

 ”幕末明治の肖像写真”から勝手に選ばせていただきました。
   (なほ、順不同でありますことを最初に、ことわらせて頂きます)


  伊藤梅子

  伊藤博文夫人    

  馬関の元芸者

  明治10年頃

















 三島みね子

 ”鬼県令”とよばれた
 三島通庸(みちつね)令嬢

 明治20年頃


















 陸奥宗光夫人"恭子” 

 元新橋芸者”小鈴” 

 絶世の美女とのこと


















  

 山川捨松 

 会津藩家老 
 山川尚江重固の末娘 

 日本初の女子留学生 

 大山巌夫人    


  


Posted by 捨蚕at 01:52
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2010年07月07日














































     窓際で船を見てたら 
        足の先に 

           鯨の形をした 
               雲が浮いてました。 
           



  

Posted by 捨蚕at 03:19
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2010年06月30日

どちらがお好き(その2)



(1926・6・1~
      1962・8・5)

大正25年生まれ
    享年36歳
今生きていれば84歳


モンローのX線写真 
45000ドルで落札

3枚組で1954年の撮影









どちらでもいいようなものですが、しいていえば、ヘプバーンかもしれません。 
何故かといわれても、単に好みの問題ですから・・・・・。


 

(1929・5・4~
     1993・1・20) 


昭和4年生まれ
   享年63歳 
今生きていれば81歳

ローマという名前の 
すぱげっちー屋さんの壁に  
”真実の口”と一緒にありました。 


5月22日のブログを是非 
ご覧ねがいます。  


Posted by 捨蚕at 21:16
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2010年06月28日

キーコーヒーの缶

 
このの缶を売っているのことを、知ってましたか。 

 実は、空き缶を捨てようとしたら、 
 妻に聞かれました。 
 この缶をスズランで売っているの知ってる・・・・と。  

デパ地下で確認しました。 
間違いなく、売ってました。
なんと300g缶で、420円。

店員さんに聞くと、たまにお買いになる方がいらつしゃるとのこと。

一応 
  ”あつぱれ”ですか。  


Posted by 捨蚕at 21:39
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2010年06月28日

”倭人伝に書かれていたアメリカ大陸”のこと

 
 








































  ご存知”魏志倭人伝”です。 
  正式名は”三国志魏書東夷伝倭人条1988文字"
  でも、私の関心事は邪馬台国さがしではありません。 

  後ろから三行目の、それは下記の十八の文字です。 
   ”又有裸国黒歯国 (また裸国・黒歯国あり)   
    復在其東南   (またその東南にあり)
    船行一年可至” (船で一年で至るべし) 


” アメリカ大陸の存在は当時の倭人の共通の認識”

  昭和46年発行の、古田武彦著”邪馬台国はなかった”の衝撃です。 
   
 (根拠) 
  ①倭人は一年に二回、歳をとりました。したがって船行半年です。 

  ②東南の方向に海流に乗れば必ず到達できる巨大な陸地、という海洋知識。 

  ③日本列島から北米大陸までヨットで三ヶ月、
   南米北・中部までさらに三ヶ月で計六ヶ月。 

  ④エクアドルで発見されたBC・3200年の縄文土器。


 あれから約40年、すでに常識となつているのだろうか。  

Posted by 捨蚕at 01:15
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2010年06月18日

妖怪”汽車喰われ”












































碓氷川沿いの公民館の脇に”天満宮”と書かれた、祠を見つけました。 
覗くとこんなすごい菅原道真さんがいました。 

聞くところによりますと、かってはもつと南の線路脇にあつたそうです。 
ところが、この祠の蔭から線路への飛び込みが多く、
やむなく、ここに移したとのことです。


  常木村の由来に、天満宮を筑紫の常木から移したとあります。
  別当寺も旧地同様に、常香山安楽寺と号したそうです。 

ところが、正徳二年(1712年)に火災のため安楽寺は谷津村に移ってしまいました。 
多分、天満宮はそのまま常木村に残ったのでしょうか。

”汽車喰われ”のことを考えると(確認出来ていませんが)そんな気がしてなりません。

なにせ、道真さんの怨霊ときたら、京の都を震いあがらせたそうですから。
それはそれは、強い力の怨霊だつたそうです。



 

  庚申供養塔

  元文五年(1740年)十月
  吉日   

   同・十七人

  常木村  

祠の脇にこんな庚申塔がありました。 
お寺が移った後のことですね。  


Posted by 捨蚕at 02:04
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2010年06月05日

”はりつけ河原”(2)文政三年の事

越後頚城郡の曹洞宗の僧の祖海さん、江戸浅草の安昌寺に滞在中に、吉原の遊女すみさんを身請けしました。 

妻帯禁止の僧ゆえか通行手形が貰えません、そこで祖海さん、ひと伝に二人の駕籠かき(嘉兵衛こと五兵衛と八五郎)を案内に雇い、四人で越後へと向います。

川越街道より上州藤岡に出て、中山道に入り、碓氷の関所を避けて山越えし越後に戻ります。

そこでなぜか、人相書きの手配書が廻ります。 

”御定書百箇条”によると、
関所を通り難き者が関所を通らず山越えをした場合、その所において磔(はりつけ)。

ただし男にさそわれて山越えした女は奴(やっこ)とする。

また案内した者はその所で磔とあります。
(奴とは吉原等での下働きの身分のことです)



八五郎は遁走、すみさんは奴に、残りの二人は磔、
嘉兵衛さん獄死してしまいますが、それでも磔でした。





写真の竹林は、(1)の図にありましたね。 

それと、関所破りの場合は 
仮設の刑場のようですね。 

通常の処刑は常設でしたが。 


ところで関所破りの処刑は 
 寛政九年になぜか三回 
 天保年間に三回あったそうです。







文政三年十二月九日、暁の七ツ半(午前4時)、松井田宿を出立。 
 夜明け方、横川村の”加に原川原”に到着。 

  同心、駕籠よりだし罪木(磔柱)に結びつけ建て候。 
    死罪役人、左右より都合25~26回鑓(やり)突き候。 
 
      六ツ半(午前7時)御仕置、滞りなく相済み候。


  
朝早くから、河原や中山道往還・畑道に至るまで、 
大勢の村人や旅人が息を潜めて見物していました。 


磔柱は三日間晒されます。 
昼夜番人を置き
浅間おろしの吹きすさぶなか 
往還道からよく見通せました。 


十一日の昼過ぎより村役人の指図により、手際よく死骸と刑場は取り片付けます。 

竹木や番小屋は見苦しくないように焼却。死骸は目障りでない所に埋めらました。 



   僧・祖海の心中および仔細は不明です。 
      ただ刑は整然とした儀式としてお行われたようです。
   
       河原にポツンといるお地蔵様が印象的でした。(完)  

Posted by 捨蚕at 10:45
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2010年06月03日

”はりつけ河原”之図(1)











































青色の碓氷川と黄色の往還道(中仙道)、
その間にあるピンク色は御仕置場。 
通称、磔川原(はりつけかわら)と呼ばれる場所の図です。

  御関所より御仕置場所までおおよそ10町(1090m) 
  松井田宿より御仕置場所までおおよそ一里半程(5890m)
  
往還道から河原に下りる道脇に”捨て札”が立てられました。
捨て札とは、罪人の氏名、年齢、罪状を記した高札のことです。
ここから御仕置場までは見通しがよく、おおよそ80間(145m)の距離です。


 
文政三年十二月九日早朝    
二名が”磔処刑”されました。 
罪状は”碓氷関所破り”です。  


一人は越後の僧祖海(38歳) 

もう一人は塩詰遺骸の 
 無宿者(駕籠かき) 嘉兵衛  

 
関所を破った者は江戸にいったん送られ 
判決後再び破った関所に送り戻され 
関所の処刑所で磔となりました。 

さらに遺骸は三日間さらされました。 
        
               (次回に続く)  

Posted by 捨蚕at 23:01
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2010年06月01日

その名は”上野群馬之助”(気になるシリーズ⑨)

 
江木の無縁堂跡に
長野堰を背にして
”五万石騒動の碑” 
その隣に、この水戸浪士”猿田忠夫の墓”があります。  

(表面) 
 ① 猿田忠夫     
    行年 二十
 ②郡司兵左ヱ門  
    行年 三十一 
 ③上野群馬之助  
    行年 二十四 
 ④岡野仙三郎   
    行年  二十 
 ⑤ 浜吉        
    行年 四十六
 ⑥ 菊松        
    行年 十四


元冶二年(1865年)二月四日、雪深い敦賀で天狗党の処刑が始まったこの日、 
高崎藩の処刑場で、上記六名の斬首が執行されました。 

藤田芳之助とともに、天狗党の軍資金集めのために上州を奔走していた六名、 
元冶元年五月二十六日、中仙道を高崎へ向かう一行を高崎藩の捕方が待ち受けていました。 
逮捕理由は”領民をまどわし金品を強奪する不届至極な輩”でした。
場所は、豊岡の茶屋本陣・飯野善右衛門宅の前でした。 


上野群馬之助(こうずけぐんまのすけ)・本名は富田伊十郎・玉村の住人。 

明治四年(1871年)十月、当初高崎県を予定していたが急遽変更し、群馬県が成立しました。 

上野国から群馬県への改名を予見したような、富田伊之助さんの改名の気がしてなりません。 

追記ですが、捕らえられ石上寺に幽閉された七人のうち、中心人物である藤田芳之助は旧水戸藩士ということで釈放され、筑波山に戻っています。  続きを読む


Posted by 捨蚕at 21:32
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2010年05月25日

気になるシリーズ⑧・潜る

 























烏川の河川敷でこんな標識を見つけました。 
つまり、直径450mmの上水道管が、烏川の底を約300m潜ってるということ。 

”水道みち”と呼ばれた道があったそうです。 

明治43年、矢島初代市長のもと、剣崎浄水場から里見経由室田街道沿いに豊岡まで埋設された上水道管は、 豊岡側から烏川の底を潜って上並榎側に上がりました。 
この上水道管は、本郷経由の旧室田街道の南を一直線に”水道みち”の下を本町まで施設されました。


でもそれは、十二鉄橋の下流とのこと、 ここは鉄橋の上流です。 
でも多分”平成の新水道みち”が、ここから始まっているのでしょうね。
  


Posted by 捨蚕at 20:30
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2010年05月21日

かるがも

 








































かるがもの親子をみつけました 

    大川の請地堰のところでした。 

     小さな男の子とお母さんが 
      
          覗き込んでいました。

この、ほほえましい風景の 

        いつまでも続くことを祈りつつ 

                   とおりすぎました。  

Posted by 捨蚕at 06:53
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2010年05月20日

映るものたち(気になるシリーズ⑦)

 
堤防を歩いていると 

巨大な 

スクリーン・ミラー 


河原と青空と白い雲と 

ちいさな自分と 

右から三つ目

下から二つ目


これは高経大の校舎   

堤防上の散歩道





  

Posted by 捨蚕at 13:31
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2010年05月11日

閉店した質屋さん(気になるシリーズ⑤)

 





















もう十年も、ホトトギスが、啼き続けています。 
 
戦後に質屋さんを、始めたと聴きます。 

先日紹介した”芙三恵酒場”の道前です。 

踏切脇には長い間、交番(大橋町巡査派出所)がありました。 

古い地図には、松村質流店、松村中古自転車販売、しずかはぎれ店、横田青果店、大橋食堂、外内時計店、高崎魚菜市場と商店が続いていました。 



ところで、この句どこかで聞いた気がします。

 ”啼き捨てて いずこへ飛ぶか ほととぎす” 
 武雅(本名大沢松五郎 上並榎字南の名主)の辞世の句でした。  
 ”並榎八景の筏場の夕照”の作者です。

この質屋さんの店主もその数年後に、亡くなったと聴きます。




  


Posted by 捨蚕at 09:57
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2010年05月07日

途切れた道(気になるシリーズ④)

 

ここは、
”字堰添(あざせきぞい)”という所。 

堰とはもちろん
長野堰のこと。 

あぜ道を
線路が横切ってました。


汽車が
黒煙を吐いて来ると、

洗濯物は
慌てて取込まれました。   




  また毎年のように、 大きな汽笛の音がして、     
     ”きしゃ喰われ”という名の妖怪が現れました。


  何時しか線路を渡ることは、出来なくなりました。 

  堰も遠ざかってしまいました。

  でも、課税明細書は、”字堰添”のままです。



  

Posted by 捨蚕at 23:06
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2010年05月06日

気になる入口(気になるシリーズ③)

 




















並榎中学校のすぐ東を、北部排水路が流れています。 
昭和27年にこの排水路が出来るまでは、この辺はたいそう水はけの悪い場所だったそうです。 

また、天龍護国寺の並榎八景絵図の”雁田の落雁(がんだのらくがん)”にあるように、絶好な雁の生息地でもあったようです。  
上飯塚村から、この辺一帯は雁田と呼ばれていたそうです。
この排水路は、この雁田を流れていた雁田川を元に掘られました。 


右の写真は西小学校舎です。信越線を潜った北部排水は、暗渠となり西小の校庭を南下します。 
私が低学年のころは、排水の西側(写真の右側部分)は空き地と池(たまり水)でした。 

中学年になると、新校舎(昭和33年3月落成)ができ、旧校舎と”廊下の橋”で繋がりました。
しばらくして、排水路は暗渠になりました。その時点で廊下橋は無くなりました。 

現在、北部排水は、この写真の場所でドロンと、地下に消えてます。 

噂によると、長野堰を潜り、烏川に注いでいるとのことですが。  


Posted by 捨蚕at 13:27
Comments(1)小発見シリーズ

2010年05月05日

気になる4m(気になるシリーズ②)

  





















三国街道踏切を渡りながら、 

   下を覗いたら見つけました。 

”飯塚村用水橋りょう・2K428M”の文字 

三国街道踏切は、2K424Mでした。 

   踏切の中央地点から4Mあるということなのでしょうか。 

ところで、北から踏切をわたった用水は、 

   どう流れて、一貫堀に流れ込むのでしょうか。  

Posted by 捨蚕at 16:44
Comments(2)小発見シリーズ

2010年05月05日

気になる酒場(気になるシリーズ①)  

 
”芙三恵食堂 ”

(大橋町34番地あたり)

三国街道踏切手前西側 

36年住宅地図では”芙三恵酒場"  

かっては賑わっていた”駅前酒場・食堂”

”つげ義春”にある風景と、言いわれるところ 

隣は(写真手前)、自転車預かり所 

多分、あと数年で消えてしまう風景なのでしょうか。  
タグ :駅前酒場


Posted by 捨蚕at 09:08
Comments(4)小発見シリーズ

2010年04月21日

上野国・九牧(きゅうまき)小発見シリーズ46

               
                                                         ”東”と読める焼き印 
                                                                  
                                                            右下部分は欠落    

                                                          一辺75mmの正方形 

                                                           平安時代の住居跡 

                                                          並木遺跡近くの古代牧 

                                                       ”発掘された安中の遺跡”
                                                                                                                                       上毛新聞4月19日掲載 





延喜式の馬寮によりますと、上野国に九つの、官営の馬の牧場がありました。 
 
利刈(とかり)、有馬島(ありましま)、沼尾(ぬまお)、拝志(はやし)、久野(くや)、市代(いちしろ)、大藍(おおあい)、 
塩山(しおやま)、新屋(にいや)の九つですが、 安中らしきものは、ないようです。 


延喜式の巻28兵部省では、駅馬は坂本で十五疋、野後で五疋、伝馬は碓氷で五疋とあります。 

和妙妙によると、碓氷郡には八郷あります。 
飽馬(あきま)、石馬(こくま)、坂本、磯部、石井(いわい)、野後(のじり)、駅家(うまや)、浮囚(ふしゅう)とのことです。


    焼印の”東”の文字が気になります。  
    駅家、野後では東になりません。 
    

 4月29日~6月1日まで、”安中市間仁田の学習の森ふるさと学習館”だそうです。  

Posted by 捨蚕at 17:10
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2010年04月19日

リ・メイク・ザ・八間道路(小発見シリーズ44)

 



















1993年3月15日号                      1994年2月15日号 



2010年1月17日~20日の、”小発見シリーズ”にせめて映像の追加をと、 
塩沢氏の”広報たかさき表紙絵”から二枚の八間道路の絵を探しだしました。 

ところが、既に”八百延”も、”神田菓子店”も、”やきそばオリタ”も、
とっくの昔に、無かった事を、発見してしまいました。

  

Posted by 捨蚕at 18:27
Comments(7)小発見シリーズ

2010年04月13日

六本辻は魔界の出口(小発見シリーズ42)


(捨蚕の戯れ唄)

六という字は縁起が悪い、 
親父の命日、六月六日。 

六文銭は三途の駄賃 
野辺の送りの六地蔵 

六波羅蜜寺は魔界の出口 
声無き声の闇の闇

辻というとこ、不思議な所

怪しいものたち、ぞうろぞろ、
辻占いに、辻芸人、辻斬り、辻君、辻説法、 





高砂町は五本辻、よくみりゃ、末広六本辻。けもの道とか、おばけ道。
いろんなことをいわれても、ここは立派に国の道。 
九号線の始発点。
  

Posted by 捨蚕at 09:33
Comments(6)小発見シリーズ